第47話 湯けむりの谷と幻の温泉卵
旅を始めて数日、俺たちは“霧の谷”と呼ばれる場所にたどり着いた。
白い湯けむりが地表から立ちのぼり、朝の光に溶けている。
空気はぬるく、ほんのりと硫黄の匂いがした。
「見て! 絶対温泉よ!」
リオナが鼻をくんくんさせながら叫んだ。
横でエルナが微笑みながら呟く。
「本当に、空気が柔らかいですね。世界が息をしているみたいです」
谷の入り口には小さな村があった。
湯けむりのせいで視界がぼんやりしているが、人々は穏やかな顔で洗濯や作業をしている。
俺たちは宿の婆さんに話を聞くことにした。
「白竜の湯はな、かつてはこの谷の命だったよ」
婆さんは湯気の向こうで遠くを見るような目をした。
「けど今じゃ近づけやしない。熱風が荒れてね、石も木も溶かしてしまうんだよ。竜が怒ってるんだろうって皆が言うのさ」
「……竜が怒る温泉か。そりゃ熱そうだな」
「でも、その湯で茹でると“幻の温泉卵”ができるらしいです」
エルナが目を輝かせて言う。
「味が、神々しいんですって!」
「神々しい……またジジイが絡んでそうで嫌な響きだな」
リオナは手を腰に当て、すでにやる気満々だった。
「行くわよ、白竜の湯! あんた、魔法で湯加減調整して!」
「俺、温泉職人じゃねぇんだけど……」
それでも俺たちは谷の奥へ向かった。
◇
谷の中心部にある洞窟の前で、風が唸っていた。
砂混じりの熱風が頬を刺し、髪を逆立てる。
岩肌が赤く染まり、まるで生き物のように鼓動している。
「……地脈が暴走してるな」
俺は足元に手を当て、魔力の流れを感じ取った。
かつて黒風が荒れた土地では、世界そのものがまだ安定していない。
風は浄化されても、熱と魔力の残響が残る――そんな気がした。
「このままじゃ村まで影響しますね」
エルナが心配そうに洞窟を見つめる。
リオナは剣の柄に手を置いて言った。
「行くわよ。こういうのは早めに対処しないと後が面倒よ」
俺たちは洞窟に入った。
◇
中は灼熱の地獄だった。
足元の岩がじわりと熱を持ち、壁から熱い蒸気が立ち上る。
音もなく、しかし何かが蠢くような気配。
次の瞬間、風が爆ぜた。
轟音とともに熱風が吹き荒れ、岩が崩れ落ちる。
「リオナ、エルナ! 伏せろ!」
俺は反射的に手をかざした。だが風は止まらない。
熱と魔力の暴走――これはもう、自然現象の域を超えている。
「くそっ……仕方ないな!」
俺は上着を脱ぎ、ズボンを放り投げた。
熱風の中で全裸になり、全身の魔力を解き放つ。
〈スキル モザイク〉
顔と股間がモザイクに覆われる。いつも通り股間のモザイクは細かめだ。
「きゃーっ! な、なんで脱いでるんですかーっ!?」
エルナが真っ赤になって叫び、そのままお約束のように気絶した。
「もう恒例行事ね……!」
リオナが剣を構えたまま呆れ顔をする。
俺は両手を広げ、風の流れを読み取る。
〈静流陣〉
光の波紋が走り、暴れる熱流がゆっくりと鎮まっていく。
風の流れ、空気のうねり、熱の脈動――すべてを一つに整える。
しかし奥から再び強い圧力が押し寄せた。
「やっぱり抑えきれねぇか……なら――」
俺は押し寄せる圧に掌をかざす。
〈水壁〉
水の壁が立ち上がり、熱風を包み込む。
蒸気がぶわっと弾け、洞窟全体が白く染まった。
やがて、熱が和らぎ、耳を打つような静寂が訪れる。
◇
霧のような蒸気が晴れると、洞窟の中央に大きな卵のような石が見えた。
その表面はひび割れ、内部から淡い光が漏れている。
「……あれが、“白竜の卵石”か」
俺が呟くと、リオナが息をのんだ。
「伝説の源ってやつね」
光はやがて優しい蒸気へと変わり、洞窟を満たしていく。
外へ出ると、谷の空気がすっかり変わっていた。
風は穏やかで、空気は澄みきっている。
村人たちが駆けつけ、「湯が戻った!」と歓声を上げた。
地面から湧き出す湯が、次々と川へ流れ込み、小川が復活していく。
子どもたちが笑い、老人が手を合わせて泣いていた。
「……すごい。まるで、世界が癒えていくみたい」
エルナが目を細めて呟いた。
「温泉卵もまた作れるかもな」
「味見担当は私ね!」とリオナ。
「いや、焦げ卵にならないようにしろよ」
◇
夕陽を見ながら、俺たちは再生した温泉で疲れを癒やしていた。
湯の表面には光が浮かび、夜空の星を映している。
「旅の目的、やっと達成ね」
「……服を着たまま入れる温泉って最高だな」
「成長したわね、シゲル」
リオナが笑う。
「きっと竜も喜んでますよ」
エルナが静かに言った。
そのとき――湯の底から声が響いた。
『湯に入る前に大騒ぎとは、お前も成長せんな』
「……神! お前見てたのか!」
『お前が湯気で隠れてる間だけな』
「覗き見すんな!」
リオナとエルナが大笑いする中、俺は湯をばしゃっと叩いた。
その音が、まるで湯けむりの谷全体に響き渡るように広がっていった。
湯の音。風の音。笑い声。
すべてがひとつに溶け合い、世界が少しだけ優しくなった気がした。




