第46話 宿場町と転がる酒樽
旅を始めて十日あまり。
道の先に、赤い屋根が並ぶ宿場町が見えてきた。
頬に当たる風がやけに心地いい。
あの黒風を封じてからというもの、風は途切れることなく吹き続けている。
強すぎず、弱すぎず――まるで、この世界がゆっくりと呼吸しているようだった。
リオナが金髪を押さえながら笑う。
「ねぇ、この風。なんか優しくなった気がしない?」
「気のせいじゃない。空気そのものが変わったんだ」
「世界の空気が変わるって、どういう理屈よ」
「さあな。神が換気でもしたんだろ」
リオナが吹き出す。
「風の加護です。神様が息を吹き返したんですよ」
エルナは真面目に言う。
「息を吹き返して酒を吹かせたら笑えねぇな」
「え、酒を吹かせるって何の話ですか?」
「いや、なんとなく予感がしてな」
◇
宿場町は、年に一度の〈風祭り〉の最中だった。
通りには屋台が並び、香ばしい匂いが漂う。
木樽を転がして勝負する“風転がし大会”が名物らしい。
広場の中央には、風力を利用した奇妙な装置が組まれ、
町の男たちが大声で「酒神に捧ぐ!」と樽を押している。
「風を使って樽を転がすなんて、平和ね」
リオナが感心したように腕を組む。
その隣でエルナが神妙な顔をして呟いた。
「この風……少し魔力を含んでます」
「まさか、また黒風の残響か?」
俺が眉をひそめた瞬間、広場を突風が駆け抜けた。
次の瞬間、積まれていた酒樽が勢いよく転がり出す。
坂を下り、屋台をなぎ倒し、悲鳴が広がる。
「うわああっ!」
「逃げろーっ!」
混乱の中、エルナが叫ぶ。
「やっぱり魔力の風です! 残響が反応してる!」
リオナが剣を構える。
「こりゃ、あんたの出番ね!」
「……結局そうなるのかよ」
◇
俺は通りの脇に走り、木陰に身を潜める。
風が頬を叩く。祭りの喧騒が遠のく。
深く息を吸い込み、決意する。
服を脱ぎ捨て、魔力を解放。全裸の魔法使いが誕生した。
〈スキル モザイク〉
顔と股間にモザイクが掛かる。股間のモザイクは細かめだ。
「くそ、また人前で……!」
「シゲル、もう開き直りなさい!」
リオナが叫ぶ声。
そして、定番の絶叫が響いた。
「ひゃぁぁぁっ!? シ、シゲルさんまた脱いでますぅぅ!!」
エルナはそのまま気絶。
「よし、通常運転だな」
俺は地面に手をつく。
〈静流陣〉
陣が淡く輝き、風の流れが視える。
風の筋が一本、坂の上へ――暴走の中心を指し示していた。
「暴れてるのは、あの樽か」
坂の上から十数個の酒樽が転がり落ちてくる。
人々が悲鳴を上げ、逃げ惑う。
「来るぞっ!」
俺は両手を前に突き出した。
〈水壁〉
地面から水の壁が立ち上がり、酒樽の群れを真正面から受け止める。
轟音。水しぶきが飛び散り、太陽の光を受けて虹がかかった。
風が通り抜け、冷たい霧が頬を撫でる。
――すべてが止まった。
◇
気づけば広場は静寂に包まれていた。
倒れた屋台の隙間から、町の人々が顔を出す。
「す、すごい……!」
「風の勇者様だ!」
「いや、光る全裸の人だ!」
「ありがたや〜!」
リオナが額を押さえた。
「もう“全裸の勇者”で定着してるわね」
「光る部分、尻しかねぇのに……」
エルナが意識を取り戻し、きょとんとした顔で辺りを見る。
「……あれ? 今の、夢ですか?」
「夢なら俺が一番うれしい」
◇
日が落ちて宿場町の風はすっかり穏やかになり、
宴の歌声があちこちから聞こえた。
窓の外で提灯が揺れる。
風は途切れず、静かに街を撫でていく。
あの暴風の名残すら、もう感じられなかった。
「この風……悪意が消えてますね」
エルナが笑う。
「そうかもな。世界の呼吸ってやつだ」
俺はグラスを傾ける。
「息が荒いのも少し落ち着いたな」
「シゲル、それ人の話みたいに言うなよ」
リオナが呆れ顔で突っ込む。
俺は笑いながら窓の外を見た。
風はまだ吹いている。
けれどもう、誰かを傷つける風じゃない。
――世界が笑っている。
そんな気がした。




