第44話 風下の村と笑わぬ少女
風が、止まっていた。
旅の途中、俺たちは小さな村の入り口に立ち、思わず足を止めた。
季節は春のはずなのに、空気が乾いて冷たい。
木々の葉は動かず、洗濯物は棒のように垂れ下がっている。
畑の麦も、まるで時間を忘れたように揺れもしない。
「……なんか、空気が重いわね」
リオナが腰に手をやり、周囲を警戒する。
その隣でエルナが胸に手を当て、静かに目を閉じた。
「これは……黒風の残響です。けれど、黒風のような怒りや敵意は感じません。
悲しみに近い……祈りのような波です」
「祈り?」
リオナの眉がぴくりと動く。
俺は空を見上げた。薄曇りの空は灰色で、風の気配すらなかった。
「風が止まってる。まるで、この村だけ時間が止まったみたいだ」
◇
村に入ると、さらに奇妙な光景が広がっていた。
人々は口を閉ざし淡々と仕事をしている。
だが、その目は焦点が合ってない。
まるで遠い夢の中にいるように、どの顔もぼんやりしている。
広場の真ん中には壊れかけた風車があった。
その羽は片方だけ折れ止まったまま。
地面には枯れた花が散っていた。
俺は呟いた。
「……誰も笑ってねぇな」
その言葉に、エルナが寂しげに頷いた。
「風が“笑い”を忘れてしまったんです」
村の外れで、一人の少女を見つけた。
年の頃は十歳ほど。
ボロボロのマントに包まれ、抱えているのは小さな木製の風車。
羽根が欠け、手で回そうとしても動かない。
「どうしたんだ?」
俺がしゃがみ込み、目線を合わせる。
「……お母さん、風といっしょに行っちゃったの」
その声は、か細く震えていた。
彼女の背後では、家が一軒、黒ずんだまま崩れかけている。
黒風の被害だ――そう直感した。
エルナがそっと少女の肩に手を置いた。
「泣いていいのよ。悲しみを我慢するほうが、もっと苦しいから」
少女は涙をこぼさず、ただ風車を握りしめた。
「……風は笑ってたのに」
その言葉が胸の奥に刺さる。
風が笑っていた――あの世界を、俺も思い出した。
その瞬間、空が淡く揺らめいた。
白でも黒でもない。銀と青の光を帯びた靄が村の上空に現れる。
光の粒が漂い、風鈴のような音が響いた。
「黒風……?」
リオナが剣に手をかける。
「いや、違う」
俺は首を振った。
それは柔らかく、美しい。怒りではなく、まるで誰かの記憶が風になって漂っているようだった。
エルナが小さく呟く。
「これは……癒やしの前触れです。黒風が消えたあとに残った、“世界の涙”みたいなもの」
「でも、このままじゃ村の心が飲まれる」
俺は息を整え、上着を脱ぎ始めた。
「ちょっ……! また!?」
リオナの声が裏返る。
「仕方ねぇだろ、服を着てたら魔法使えねぇんだ」
ズボンを脱ぎ、靴を脱ぎ、全裸になる。
風がないのに肌がひやりとするが、魔力の流れで身体の芯は熱い。
俺の全裸を見て、エルナの顔が真っ赤になった。
「ひゃっ……は、裸!? な、なぜ毎回脱ぐんですか!?」
そのまま真っ白になって気絶。
「はい、お約束入りましたー」
リオナが頭を抱える。
「……あれはもう芸の域だな」
俺は小さく笑った。
〈スキル モザイク〉
顔と股間がモザイクに覆われる。股間のモザイクは細かい。
掌に魔力が集まる。
流れよ鎮まれ、力よ巡れ。
〈静流陣〉
光が陣を描き、村全体に広がる。
風が動いた。
止まっていた洗濯物が揺れ、風車がひとりでに回り出す。
空を漂う銀の靄が柔らかく波打ち、ひとつ、またひとつと空へ昇っていった。
その光景の中で、少女が風車を掲げる。
欠けた羽根が光に包まれ、ふっと回った。
頬を撫でた風が彼女の涙を乾かす。
初めて――彼女は笑った。
◇
朝日が照らす村には活気が戻っていた。
広場では焼きたてのパンの香りが漂い、鍛冶屋の槌音が響く。
子供たちは走り回り、犬が吠え、風車が楽しげに回る。
その中央に少女が立っている。
握った風車が、緩やかな風を受け回っている。
「風が笑った」
回る風車を見て少女も笑う。
人々も笑う。
回る風車とともに、笑い声が重なっていく。
泣いていた子供が笑い、大人が頬を拭う。
エルナが目を覚まし、まだ少しふらふらしながら呟く。
「風が……笑っていますね」
リオナがにやりと笑う。
「つまり、あんたの脱ぎ芸がまた世界を救ったってわけね」
「……救い方のジャンル分け、間違ってると思うんだが」
俺は頭を掻いた。
「でもまぁ……人が笑えるなら、それでいいか」
◇
村を見下ろす丘で、俺は振り返った。
風が頬を撫で、光の粒が空に溶けていく。
「黒風の残響……。あれは“世界が癒えていく音”なのかもしれないな」
背後でリオナの声がした。
「次はどこへ行く?」
「西の方にな、温泉饅頭があるらしい」
「……やっぱり食い物目当てか」
エルナが笑い、リオナが呆れ、俺は肩をすくめる。
その笑い声が風に乗り、遠くまで届いていった。
――まるで、風そのものが笑っているようだった。




