第41話 湯けむりと静流陣
山を三つ越えたあたりで、道がゆるやかに下り始めた。
谷の向こうから、白い湯けむりがもくもくと上がっている。
「お、あれじゃないか? “湯けむりの谷”ってやつ」
リオナが地図をのぞき込み、軽く頷いた。
「そうね。温泉と魚料理の名物があるらしいわよ」
エルナは目を輝かせて手を合わせる。
「温泉……! 体がぽかぽかになりますね!」
俺は苦笑しながら、財布の軽さを思い出した。
「ぽかぽかよりも、俺の財布を温めてくれないかね……」
リオナが即ツッコミを入れる。
「それはあんたの自業自得でしょ」
そんな掛け合いを続けながら村に入ると、あたりは白い霧のような湯けむりで包まれていた。
石畳の道の両脇には、湯気の立つ桶や竹筒。硫黄の匂いが鼻をくすぐる。
「うわ、いい匂い。……ちょっと熱気強くない?」
リオナが顔をしかめる。
確かに、体の芯までじっとりと温まるほどの熱気だ。
村人の一人が、桶を抱えながら叫んでいた。
「こりゃあいかん、また温泉が噴き出したぞ!」
どうやら最近、源泉の圧が上がって暴走気味らしい。
俺は眉をひそめた。
「魔力が混じってるな……ただの自然現象じゃねぇ」
エルナが頷き、掌に淡い光を宿す。
「神聖魔法で試してみましたが、どこか乱れている感じがします」
リオナが腰の剣を軽く叩く。
「まさか黒風の名残とか言わないでよね」
「……いや、まさか、な」
俺の返事には、自信がなかった。
◇
宿に荷を置いたとき、外から地響きのような音が響いた。
「また噴いた!」
窓の外を見ると、中央の露天湯から熱湯が噴き上がり、村人たちが悲鳴を上げて逃げ回っていた。
「行くぞ!」
俺たちは同時に駆け出した。
湯のしぶきが飛び交い、白い湯気が視界を覆う。
風が渦を巻き、建物の屋根がミシミシと音を立てた。
リオナが叫ぶ。
「シゲル、何とかできないの!?」
「……無理だ、服着てたら!」
「えっ、脱ぐ気!? ここ温泉街よ!?」
「だからセーフ理論だ!」
俺は湯けむりの中で服を脱ぎ捨てた。
温泉の湯気と一緒に、羞恥心までどこかへ飛んでいけ。
〈スキル モザイク〉
顔と股間をモザイクが覆う。股間のモザイクはやはり細かめだ。
蒸気が熱い。だけど、魔力の流れがはっきり見えた。
渦の中心には、黒風の残響らしき黒い魔力の粒子が漂っていた。
「ちっ……黒風の置き土産かよ」
魔力の流れが複雑に交差し、風と熱を狂わせている。
放っておけば村ごと吹き飛ぶだろう。
俺は深呼吸し、足元に魔力を流す。
流れよ鎮まれ、力よ巡れ!
〈静流陣〉
淡い光の輪が足元に広がり、まるで地面に波紋が描かれたようだった。
空気が振動し、湯気が吸い込まれるように静まっていく。
風の唸りが止まり、湯面の波紋が穏やかに戻る。
音が――消えた。
「……止まった?」
リオナが呆然とつぶやく。
俺は汗を拭い、息を整えた。
「よし、安定した。これで暴走は終わりだ」
その瞬間、背後から声がした。
「し、シゲルさん……? その格好は……!?」
エルナだった。避難誘導を終えて戻ってきたらしい。
「いやこれは魔法の都合で……」
「ひゃぁぁっ!? ま、また全裸ぁ!?」
顔を真っ赤にして、そのままバタリと倒れる。
リオナがため息をついた。
「また倒れたわね」
「もはや儀式だな」
しばらくして村人たちが戻ってきた。
静まり返った温泉を見て、歓声が上がる。
「湯が澄んでる!」
「これでまた観光客が呼べる!」
村長が駆け寄り、涙目で頭を下げた。
「勇者さま、ありがとうございます!」
「勇者じゃねぇって……俺、ただの通りすがりの魔法使いで」
「また始まったわね、“光る勇者”の再来だわ」
リオナが呆れ顔でつぶやく。
俺は肩をすくめて、空を見上げた。
湯気の中に光が差し込み、黄金色に輝く。
「あー……これはまた、騒がしくなりそうだな」
◇
宿の露天湯で、三人は肩まで浸かっていた。
月明かりが湯面に揺れ、静かに湯けむりが立ちのぼる。
「やっぱり温泉は最高ですねぇ……」
エルナが幸せそうに目を細める。
リオナは片肘を湯縁につけて言った。
「それにしても、よくあれだけ暴走したのを止められたわね」
「ま、ちょっとした“流れの修正”だ」
「謙遜しすぎ。あんたのせいでまた勇者伝説が増えたわよ」
「……増えるたびに恥ずかしいんだけどな」
湯気が流れ、空気が少し動く。
神の声が微かに響いた。
『湯加減はどうじゃ、シゲル?』
俺は空を見上げて小さく呟いた。
「黙ってろ神。今は世界平和を感じてんだ」
風が優しく吹き抜け、湯けむりが星のように散っていった。




