第39話 旅立ちと三人の決意
パンの焼ける匂いで目が覚めた。
腹が鳴る。どうやら胃袋だけは平和を取り戻したらしい。
黒風との戦いから数週間。
街の瓦礫は片付き、人々の顔にも少しずつ笑みが戻ってきていた。
俺の住む屋根裏もようやく落ち着きを取り戻した――いや、少なくとも“いつもの騒がしい朝”が戻ってきたと言うべきか。
今日も俺は全裸で〈火球〉を浮かべ、魚を焼いていた。
服を着てると魔法が使えないんだから仕方ない。
俺にとってこれは、生活の知恵であり、日常であり、そして――羞恥の儀式でもある。
「シゲル、あんたまた脱いでるでしょ!」
階段を上がってきたリオナの怒声。
パンッと火球がはじけ、焼きかけの魚が空中を飛んだ。
「危ねっ!」
慌ててキャッチ。手のひらがジリっと熱い。
「朝っぱらから全裸で火遊びとか、どういう修行よ!」
「修行じゃねぇ。朝食だ」
「どっちにしろおかしいから!」
そこへ、エルナが上がってきた。
「おはようございま――きゃあああっ!? な、なぜ脱いでるんですかぁ!?」
彼女は目を白黒させ、そのままふらりと倒れた。
「また倒れた……」
リオナが額を押さえる。
「俺だって好きで脱いでるわけじゃねぇ……」
脱衣生活にも慣れたとはいえ、朝からこのテンションは疲れる。
焼き魚は無事だったが、気力は削られた。
――それでも、不思議と空気は穏やかだった。
あの黒風との戦いが嘘のように、街は静かだ。
◇
昼前に俺たちはギルドへ向かった。
復興支援の中心としてギルドは賑やかだった。
セリナが書類を抱えて駆け回り、マリアが職員に指示を飛ばしている。
「おはようございます、シゲルさん。リオナさん、エルナさん」
「おはよう。なんか忙しそうだな」
俺が声をかけると、マリアが手を止めて笑った。
「ええ。でも良い報せもありますよ。西方の街から、物資が届く予定です」
「西方?」
リオナが首をかしげる。
「ええ、“星海の大地”という場所です。地熱が強く、温泉が湧いていて……魚料理が絶品だそうです」
その言葉に、リオナの目がギラリと光った。
「温泉!? 行くしかないじゃない!」
「いや、ちょっと待て」
俺が制止する間もなく、彼女はマリアの腕をつかんだ。
「どんな温泉? どれくらいの規模? 混浴!?」
「混浴とは聞いてませんが……」
マリアが苦笑する。
横でエルナが頬を染めていた。
「温泉……癒しと浄化の儀式にも通じます。素敵です!」
「おいおい、エルナまで!?」
セリナが横からひょいと顔を出す。
「街の修復が終わるまで、ギルドの依頼受付は一時停止ですよ。今のうちに旅でもどうです?」
「おい、セリナ。そういう無責任な発言はだな……」
「いいアイデアじゃない!」
リオナが即答した。
「決まりね!」
「決まってねぇ!」
だが、すでに彼女たちの中で話は進行していた。
俺の反論なんて、春風に飛ばされる紙切れみたいなもんだ。
◇
屋根裏に戻ると、すでに二人は荷造りを始めていた。
リオナは剣を研ぎ、エルナは聖水の瓶を並べている。
「なあ、温泉行くだけだよな? なんで荷物が遠征並なんだ?」
「これは旅の浄化儀式に必要な物です!」
エルナがきっぱり。
「魚を焼く準備も完璧にしておかないと!」
リオナも真顔だ。
「いや、焼くの俺だろ!?」
そんなやり取りをしながら、俺たちは笑って準備を終えた。
あの戦いのあとで、こうして笑って出発できることが、どれほど幸せなことか――ふとそんなことを思う。
◇
翌朝街の門には、見送りの人々が集まっていた。
セリナとマリアもやってきて、荷を担いだ俺たちを見入る。
「どうか気をつけて。……シゲルさん、服はなるべく着ていてくださいね」
「それもうギルドの注意事項なの?」
「正式に加えようかと」
「やめて!」
リオナが笑いながら剣を肩にかける。
「よし、温泉と魚の楽園へ出発!」
「私は祈りの旅として……」
「俺は強制参加として……」
笑い声に包まれて、門が開く。
朝の光の中を、三人の影がゆっくりと伸びていく。
背後で子供たちが手を振っている。
「光る勇者、がんばってー!」
その言葉に、俺は思わず顔を覆った。
「やめろ、その呼び方!」
◇
昼過ぎに街道を歩く三人の足取りは軽かった。
春の風が心地よく花の香りが漂う。
「シゲル、温泉に着いたら何食べたい?」
「温泉に入ってから考える」
「それ、答えになってないわ」
笑い合いながら、道を進む。
やがて日が傾き、夕暮れの丘に着いたころ、リオナが腰に手を当てた。
「今日はここで野営ね」
「了解。じゃあ火を――」
俺が脱ごうとした瞬間、二人の声が重なった。
「「脱ぐな!」」
結局、火打ち石で火を起こすことに。
時間はかかったが、焚き火の火はやがて穏やかに揺れた。
肉を焼く香ばしい煙りが漂う。
リオナが頬杖をつきながら笑う。
「こうしてると、あの騒動が夢みたいね」
「ああ。……でも、最後は悪くない夢だったと思うぜ」
焚き火の火がぱちりと弾け、星空が広がる。
俺は空を見上げた。
満天の星。
その向こうに、まだ見ぬ“星海の大地”がある。
「温泉に魚……なんか、嫌な予感しかしねぇけど――まぁ、行ってみるか」
星が瞬くたびに、旅路が少しずつ形になっていくような気がした。




