第36話 黒嵐、天を裂く
風の音で目を覚ました。
屋根裏の木板がぎしりと鳴り、薄い布団の端がめくれる。
春の朝だというのに、空気が妙に重い。
寝ぼけた頭で「天気悪いな」なんて思った矢先、腹の底に響くような轟音が街の南の方から伝わってきた。
何かが崩れる音。続いて、地鳴り。
俺は跳ね起きて窓を開けた。
南の空に、黒い煙が渦を巻いていた。
煙というより――風そのものが黒く染まっている。
「……来やがったな」
嫌な予感しかしない。
服をかき集め、階段を駆け下りる。
通りに出ると、騒ぎの渦だった。
風が逆巻き、砂と紙くずが舞い上がる。
人々が悲鳴を上げて逃げ惑い、遠くの白風亭の前ではリオナが避難を誘導していた。
彼女が俺を見つけて叫ぶ。
「シゲル! 南区がやばい! ギルドに行くわよ!」
俺はうなずき、共に走り出した。
背後でエルナの法衣が風にあおられる。祈りの言葉を唱えながら、彼女も市民の手を取っていた。
◇
ギルドの中は地獄絵図だった。
倒れた本棚、割れた窓。負傷者の呻き声と、セリナの怒鳴り声が交錯している。
マリアは机の上に地図を広げ、報告を集約していた。
「南区で黒い人影の目撃がありました! 暴風で建物が崩壊しています!」
「通信魔石はすべて途絶! 広場が吹き飛ばされたとの報告も!」
リオナが机に手を突く。
「黒風……間違いないわ」
「……あいつ、街中に出てきやがったか」
俺は拳を握りしめた。
「俺が行く。狙いは俺だ」
マリアは何か言いかけたが、俺はすでに走り出していた。
◇
南区――かつて賑わいを見せた商人の広場は、今や瓦礫の山だった。
建物が風にえぐられ、木片や布が舞っている。
広場の中心に、黒い人影。
その背後に、空を覆うような“顔のない影”。黒風の本体だ。
「お前の光がある限り、俺は滅びぬ」
低く響く声。
黒風人型の衣が裂け、風にちぎれて消える。
次の瞬間、全裸の姿になった彼は〈スキル クマ〉を発動。
顔と股間に、クマのぬいぐるみがぽすんと出現した。
異様な静寂が訪れる。
エルナが呟く。
「ク……クマー……?」
そしてお約束のように白目をむいて気絶した。
リオナはエルナを抱えたまま短く言う。
「シゲル、もう好きにしなさい。私が後ろは守る!」
「助かる」
俺は周囲を見回し、風の流れを読む。
これ以上被害を出すわけにはいかない。
俺は瓦礫の陰に滑り込み、服を脱ぎ捨てる。
全身を走る冷気のあと、身体の奥で魔力が覚醒する感覚。
〈スキル モザイク〉
顔と股間がモザイクでおおわれた。股間のモザイクは細かい。
「封じる……ここで終わらせる」
両手を突き出す。
〈封印結界〉
地面が光り、巨大な半球が俺と黒風人型を包み込む。
外の世界が遠のく。音も風も、もう届かない。
リオナの声が微かに聞こえた気がした。
「みんな、離れて!」
――結界内。
黒風人型の笑い声が反響する。
「光が、自ら檻を作るとはな」
「檻じゃない。お前の墓だ」
暴風が巻き起こり、刃のように襲いかかる。
〈光壁〉
俺は障壁を多層展開。
火花が散るように風が弾かれ、光と影が交錯した。
「風だけじゃねぇだろ、その力……」
結界が震える。
外へ漏らせば街ごと吹き飛ぶ。
俺は魔力を圧縮し、手を掲げた。
〈聖風浄陣〉
光の風が旋回し、黒風人型を包み込む。
だが、影の核が震えるだけで消えない。
「……やっぱり、これじゃ足りねぇか」
黒風人型が嗤った。
「光はいつも届かぬ。影がそこにある限り」
「うるせぇ」
〈反射結界〉
俺は拳を握り、結界を重ねて突撃。
ぶつかる魔力。空間が歪む。
光と闇の奔流が弾け、結界全体が白く光った。
次の瞬間――。
黒風人型の姿がぼやけ、地面の影に溶けるように消えていく。
「逃げやがったか……」
俺は膝をつき、荒い息を吐いた。
封印結界を解除する。
光が砕ける音とともに、外の空気が戻る。
風は止まり、空が再び青を取り戻していた。
リオナが駆け寄る。
「街は守れた……でも、黒風は?」
「地下か、どこかに潜ったな。だが、奴の“核”は弱ってる」
エルナが意識を取り戻し、あたりを見回した。
「わたし……夢を見ていました。クマが二匹……」
「気にすんな、良い夢だ」
俺は肩をすくめた。リオナは半眼で睨む。
「アンタの“良い夢”の基準はいつもおかしい」
◇
その夜、屋根裏の窓辺に腰をかけ外を眺める。
風は静かだった。
遠くの街並みに残る焦げ跡だけが、今日の激戦を物語っていた。
『おぬし、今日は随分と派手にやったのう』
ジジイの声――神の念話だ。
「派手にやらなきゃ、街ごと消えてた」
『黒き影は、ますますおぬしに似てきておるぞ』
「鏡みたいなもんさ。なら、ブッ壊してやる」
『その光が眩しすぎて、世界ごと焼くでないぞ?』
「抑えるつもりだ……今のところはな」
窓の外、夜空に黒い筋が流れた。
まるで、逃げ延びた黒風が空を横切る影のように。
俺は小さく呟いた。
「次は、逃がさねぇ」




