第34話 闇が笑う路地
朝の光が屋根裏の隙間から差し込む。
俺はその光を頼りに、鉄皿の上に置いた魚をじっと見つめていた。
服を着ていると魔法が使えない。
だから、今朝の俺は全裸だ。
右手の指先に小さな炎を灯す。
〈火球〉――ただし、威力は極小。
焼き魚用、生活魔法の域。
「……これでよし、少し焦げ目を――」
軋む音。階段から誰かが上がってくる。
「……あんた、朝から脱いで何してんの!?」
リオナの声。寝起き特有のテンション高めだ。
「見て分からんか? 焼き魚だよ。魔法文明の利便性をなめるな」
「利便性の問題じゃないでしょ!? なんで服着ないのよ!」
「魔法発動条件。仕様だ」
言いながら魚を返す。ジュッ、と音がしていい匂い。
そこへ、もう一人。
「おはようございます、シゲ――」
エルナが上がってきた瞬間、空気が止まった。
真っ赤になった顔、震える唇。
「きゃあぁぁっ!? な、なぜ脱いでるんですかぁぁ!?」
絶叫のあと、エルナはそのままバタンと倒れた。
「……はい、今朝も安定の気絶タイムですね」
リオナが肩をすくめる。
「朝食のたびに救助活動か。これもこの世の日常ってやつか……」
◇
ギルドの扉をくぐると、いつも以上のざわめきだった。
受付前でセリナが書類を抱えて走り回り、その隙間を縫ってマリアが地図を広げている。
「おはようございます、シゲルさん、リオナさん、エルナさん」
マリアが手を止めて、きっちり頭を下げた。
「おはよう。……なんか騒がしくない?」
「市民から、“井戸の方で誰かに呼ばれる声がする”という報告が相次いでいるんです」
地図には、赤い印がずらりと並んでいる。
「……全部、同じ方向だな」
「ええ、裏通りの古井戸です」
リオナが腕を組んでため息をついた。
「前にも変なことが起きた場所じゃない。嫌な予感しかしないわ」
「黒風の名残か……せめて朝飯くらい落ち着いて食わせてくれ」
「朝から魚焼いてたでしょ」
「焼けた頃には騒動の予感だったんだよ」
マリアが苦笑しながら地図を畳む。
「調査をお願いします。皆さんなら信頼できます」
「まかせろ。――できれば昼飯前に終わらせたいけどな」
◇
古井戸は、街の裏手。
昼なのに薄暗く、風が一定方向に流れている。
地面の小石がカラカラと転がり、空気が冷たい。
「ここだけ温度が違うな」
俺が呟くと、エルナがそっと目を閉じて祈るような仕草をした。
彼女は神聖魔法の使い手。探知系は使えないが、聖力の感応は鋭い。
「……感じます。闇の魔力です。井戸の底から――とても禍々しい波動を」
風が止まる。次の瞬間、地面が鳴動した。
井戸の口から黒い煙が吹き出し、やがて人影を形づくる。
「やはり……来たな」
黒装束の男がゆっくりと姿を現した。
シルエットは――俺に似ている。
「光の勇者……お前の影だ」
低い声でそう言うと、そいつは衣を脱ぎ捨てた。
一瞬で全裸に。
そして――
〈スキル クマ〉
ぽすん、と音がして、顔と股間にクマのぬいぐるみが出現。
「ぬ、ぬいぐるみ!?」
リオナが素っ頓狂な声を上げた。
「戦う気あるの!?」
「お前の美学どうなってんだよ……」
そうツッコむ俺の横で、エルナが真っ赤になった。
「ひゃっ……は、裸!? クマ!? ク、クマー!!」
次の瞬間、気絶。
バタリ。
「……もうお約束になってきたな」
黒風人型は不気味に笑った。
「光がある限り、影は生まれる」
その体が霧となって消える。
風だけが残り、古井戸の中は再び静寂に包まれた。
「……消えたな」
「逃げた、のほうが正しいかも」
リオナが剣を下ろす。
倒れているエルナを抱えながら、俺はため息をついた。
「今回も寝てる間に全部終わったな」
「本人、これで納得してるのが逆にすごいわ」
◇
ギルドに戻ると、マリアとセリナが待っていた。
「光と影の均衡……古代語に似た言葉がありました」
マリアが記録をめくる。
リオナは顔を顰めながら言った。
「黒風が人の形を取ってるのなら、もう“自然現象”じゃないわね」
エルナはまだ顔を真っ赤にしたまま。
「そ、それより……あの、クマ……」
「思い出さなくていい」
俺は即答した。
◇
夜。屋根裏の窓辺で、俺は街の灯を見下ろしていた。
「……俺の影、か。なら照らしてやるさ」
下からリオナの声。
「明日は服着たまま魚焼いてよ!」
「だから無理なんだって!」
窓辺の棚に、昼間拾った小さなクマのぬいぐるみが置かれている。
風が吹き抜け、ぬいぐるみの耳が揺れた。
その笑顔が、闇の中でほんの少し――嗤った気がした。




