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第32話 北塔の風鳴り

 屋根裏の小さな窓から、朝の光が差し込んだ。

 外ではパン屋の煙突から煙が上がり、焼きたての匂いが風に流れてくる。

 ……朝の香りは、腹に悪い。


「財布が軽いってのに、匂いだけで拷問かよ……」


 俺は寝床から起き上がり、ボロい机に広げた依頼票を見た。

 依頼主はギルド本部。内容は——


【北塔周辺の風鳴り調査。原因不明、黒風との関連あり】


「黒風か……やれやれ、また風の話か」


 ため息をつく俺の背後で、階段を上る足音がした。

 ドアが開き、金髪の剣士リオナが顔をのぞかせる。


「おはよ。顔が死んでるわよ」


「寝起きだからな」


「ただの寝起き顔じゃないわね」


 続いて、白い法衣をまとったエルナが階段をそっと上がってきた。

 朝日を受けた銀の髪が柔らかく光る。


「おはようございます、シゲルさん。ギルドが急ぎの依頼を……」


「見た。北塔の調査だろ」


「ええ。現場が少し荒れているようです。風が“喋る”とか……」


「喋る?」

 リオナが眉をひそめる。


「また誰かの聞き間違いでしょ。風が喋るわけ——」


「——なくもないのが、今の俺たちの世界なんだよな」


「うわ、出た。妙に哲学的な返し」


 俺は苦笑しつつ腰の短剣を手に取った。

 どうせ放っておいても食う物が減るだけだ。

 だったら行くしかない。



 北塔までは街の北門から徒歩で一時間ほど。

 春の風が草原を渡り、黄色い花が一面に咲いていた。


「いい天気ねえ。これで“黒風”って言われてもピンと来ないわ」

 リオナが両手を伸ばして深呼吸する。

 隣でエルナが法衣の裾を押さえながら歩いていた。

「風が強くなってきました……裾が……」


「スカートじゃないのに、そんなに気にするのか?」


「……冷たい風なんです」

 頬を赤らめる彼女に、リオナがクスッと笑う。

「うちの癒し担当は、真面目すぎて風にも照れるのね」


「笑いごとじゃねぇって……春なのに俺まで寒くなってきた」

 俺は肩をすくめながら、塔の見える丘を登った。


 北塔は、古い魔導施設の跡地だ。

 外壁はひび割れ、塔の中腹には黒い筋が這うように広がっている。

 地面の草は枯れ、空気は重く湿っていた。


「……これ、普通の風じゃない」

 リオナが剣を抜き、警戒の構えを取る。

 エルナが祈るように両手を合わせた。

「感じます。魔力が渦を巻いて……呼吸してるみたい」


 塔の下では、修繕に来ていた職人や警備の兵士たちが、風を避けながら退避していた。

 倒れた足場が音を立て、誰かの悲鳴が混じる。


「おい! 離れろ、上から何か降ってくるぞ!」


「風が逆流してる! 魔力が吹き上がってる!」


 俺は周囲を見渡した。

 これじゃ、脱げる状況じゃない。

 リオナとエルナ、それに作業員までいる。

 ここで全裸になったら、黒風より先に捕まる。


「リオナ、避難を手伝え! エルナ、暴走を感じたら知らせろ!」


「了解!」


「はいっ!」


 俺は地面に片膝をつき、掌を土に当てた。

 服を着たままでは魔法は使えない。

 だが、神の知識で魔力の“流れ”を読むことはできる。


 ——風は塔の中心から螺旋を描き、黒い瘴気を吸い上げていた。

 まるで何かを呼んでいるように。


「……まさか、呼応してるのか?」


 地面をなぞるように指を動かし、即席の魔力陣を描く。

 光が走り、塔の基部に一瞬、封印の線が浮かんだ。


「いけ……っ!」


 光が強まり、風が止まる。

 職人たちが息をつく。


「やったのか!?」

 リオナが叫ぶ。


「いや……これは一時しのぎだ」

 俺は額の汗をぬぐい、塔を見上げた。


 塔の上部に、黒い影が浮かんでいた。

 それは煙のようでありながら、人の形をしていた。

 風が低く鳴る。


「……見ツケタ……裸ノ光……」


 声だ――。

 まぎれもなく、意思のある“声”だった。


「喋った……!?」

 エルナの声が震える。


「下がれ!」

 俺は叫び、短剣を構えた。


 風が唸りを上げ、塔の石壁をえぐる。

 飛び散る破片が頬をかすめた。

 黒い渦が塔を包み込み、天へ伸びる。


「——こいつ、前のよりずっと強ぇ!」


 リオナが踏みとどまり、剣を構える。

 だが風の圧が強く、前へ出られない。

 エルナが法衣を押さえながら詠唱を始める。


「〈浄光陣(ピュリファイサークル)〉」


 白い光が彼女の足元に展開される。

 だがすぐに魔力干渉が起こり、光陣が歪んだ。


「うそ……制御できません!」


「下がれ、エルナ!」

 リオナが素早くエルナを抱き、転倒を防ぐ。

 その瞬間、塔の上から黒い閃光が降り注いだ。


 俺はとっさに飛び出し、二人の前に立った。

 光線が地面を焼き、土煙が上がる。


「……ったく。脱げねぇと、ろくに防げねぇ!」


 風が笑うように渦巻いた。


「……裸ニナレバ、見エル……」


「言われなくても分かってんだよ!」

 俺は心の中で毒づく。

 ——だが、ここで脱げば全部終わる。社会的に。


 空を見上げると、黒風の渦が塔の頂点で蠢いている。

 その中心に、一瞬だけ“眼”のような光があった。


 人の形。

 いや——人になろうとしている。



 ギルドに戻ったのは日暮れ前だった。

 全身砂まみれの俺たちを見て、セリナが顔を引きつらせる。

「ちょっ……なにその状態!? また脱いだの!?」


「脱いでねぇ!」


「ホントに?」


「ホントだ!」


 リオナがため息をつく。

「まぁ、今回はギリギリセーフね」


 マリアが記録帳をめくりながら尋ねる。

「塔の風……やはり黒風の一種と見ていい?」


「ああ。しかも意思を持ち始めてる。喋ったんだよ、俺の名前を」


「名前を?」

 マリアの手が止まる。


「……それはただの共鳴じゃないわね」


 重い沈黙。

 セリナが冗談めかして口を開いた。

「まさか、喋る風とか出世して人間になったりしないですよね〜」


 リオナと俺は顔を見合わせた。


「……いや、笑えねぇぞそれ」



 屋根裏の窓を開けると、外の風が静かに流れ込んできた。

 月が雲間からのぞき、遠くの北塔が青白く光って見える。


 その風の中に、微かに“声”が混ざった。


「……オマエ、裸ニナレバ……見エル……」


「またかよ……(ジジイ)のいたずらか?」


 俺はため息をつく。


『いたずらなら、ワシはもっと上手くやるぞ』

 聞き覚えのある声が脳裏に響いた。神の声だ。


「お前かよ、やっぱり!」


『違う違う。今の声はワシではない。だが、興味深いのう』


「興味深いで済ますな!」


『風が意思を持つ時、人はそれを“魂の残滓”と呼ぶ。だがのう……その残滓が形を持てば、もはや風ではなく“人”じゃ』


 俺は眉をひそめた。

「……まさか、黒風が人になるってのか?」


「その可能性は、否定できぬのう」


 神の声が遠ざかる。

 窓の外で、風がふっと笑ったような気がした。


「——やれやれ。これ以上、風に喋られたら俺、会話相手いらねぇな」


 俺は布団に倒れ込み、天井のひびを見上げた。

 あの黒い風が“形”を持つ日が来る。

 そんな予感が、胸の奥に残ったまま——

 夜が更けていった。

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