第32話 北塔の風鳴り
屋根裏の小さな窓から、朝の光が差し込んだ。
外ではパン屋の煙突から煙が上がり、焼きたての匂いが風に流れてくる。
……朝の香りは、腹に悪い。
「財布が軽いってのに、匂いだけで拷問かよ……」
俺は寝床から起き上がり、ボロい机に広げた依頼票を見た。
依頼主はギルド本部。内容は——
【北塔周辺の風鳴り調査。原因不明、黒風との関連あり】
「黒風か……やれやれ、また風の話か」
ため息をつく俺の背後で、階段を上る足音がした。
ドアが開き、金髪の剣士リオナが顔をのぞかせる。
「おはよ。顔が死んでるわよ」
「寝起きだからな」
「ただの寝起き顔じゃないわね」
続いて、白い法衣をまとったエルナが階段をそっと上がってきた。
朝日を受けた銀の髪が柔らかく光る。
「おはようございます、シゲルさん。ギルドが急ぎの依頼を……」
「見た。北塔の調査だろ」
「ええ。現場が少し荒れているようです。風が“喋る”とか……」
「喋る?」
リオナが眉をひそめる。
「また誰かの聞き間違いでしょ。風が喋るわけ——」
「——なくもないのが、今の俺たちの世界なんだよな」
「うわ、出た。妙に哲学的な返し」
俺は苦笑しつつ腰の短剣を手に取った。
どうせ放っておいても食う物が減るだけだ。
だったら行くしかない。
◇
北塔までは街の北門から徒歩で一時間ほど。
春の風が草原を渡り、黄色い花が一面に咲いていた。
「いい天気ねえ。これで“黒風”って言われてもピンと来ないわ」
リオナが両手を伸ばして深呼吸する。
隣でエルナが法衣の裾を押さえながら歩いていた。
「風が強くなってきました……裾が……」
「スカートじゃないのに、そんなに気にするのか?」
「……冷たい風なんです」
頬を赤らめる彼女に、リオナがクスッと笑う。
「うちの癒し担当は、真面目すぎて風にも照れるのね」
「笑いごとじゃねぇって……春なのに俺まで寒くなってきた」
俺は肩をすくめながら、塔の見える丘を登った。
北塔は、古い魔導施設の跡地だ。
外壁はひび割れ、塔の中腹には黒い筋が這うように広がっている。
地面の草は枯れ、空気は重く湿っていた。
「……これ、普通の風じゃない」
リオナが剣を抜き、警戒の構えを取る。
エルナが祈るように両手を合わせた。
「感じます。魔力が渦を巻いて……呼吸してるみたい」
塔の下では、修繕に来ていた職人や警備の兵士たちが、風を避けながら退避していた。
倒れた足場が音を立て、誰かの悲鳴が混じる。
「おい! 離れろ、上から何か降ってくるぞ!」
「風が逆流してる! 魔力が吹き上がってる!」
俺は周囲を見渡した。
これじゃ、脱げる状況じゃない。
リオナとエルナ、それに作業員までいる。
ここで全裸になったら、黒風より先に捕まる。
「リオナ、避難を手伝え! エルナ、暴走を感じたら知らせろ!」
「了解!」
「はいっ!」
俺は地面に片膝をつき、掌を土に当てた。
服を着たままでは魔法は使えない。
だが、神の知識で魔力の“流れ”を読むことはできる。
——風は塔の中心から螺旋を描き、黒い瘴気を吸い上げていた。
まるで何かを呼んでいるように。
「……まさか、呼応してるのか?」
地面をなぞるように指を動かし、即席の魔力陣を描く。
光が走り、塔の基部に一瞬、封印の線が浮かんだ。
「いけ……っ!」
光が強まり、風が止まる。
職人たちが息をつく。
「やったのか!?」
リオナが叫ぶ。
「いや……これは一時しのぎだ」
俺は額の汗をぬぐい、塔を見上げた。
塔の上部に、黒い影が浮かんでいた。
それは煙のようでありながら、人の形をしていた。
風が低く鳴る。
「……見ツケタ……裸ノ光……」
声だ――。
まぎれもなく、意思のある“声”だった。
「喋った……!?」
エルナの声が震える。
「下がれ!」
俺は叫び、短剣を構えた。
風が唸りを上げ、塔の石壁をえぐる。
飛び散る破片が頬をかすめた。
黒い渦が塔を包み込み、天へ伸びる。
「——こいつ、前のよりずっと強ぇ!」
リオナが踏みとどまり、剣を構える。
だが風の圧が強く、前へ出られない。
エルナが法衣を押さえながら詠唱を始める。
「〈浄光陣〉」
白い光が彼女の足元に展開される。
だがすぐに魔力干渉が起こり、光陣が歪んだ。
「うそ……制御できません!」
「下がれ、エルナ!」
リオナが素早くエルナを抱き、転倒を防ぐ。
その瞬間、塔の上から黒い閃光が降り注いだ。
俺はとっさに飛び出し、二人の前に立った。
光線が地面を焼き、土煙が上がる。
「……ったく。脱げねぇと、ろくに防げねぇ!」
風が笑うように渦巻いた。
「……裸ニナレバ、見エル……」
「言われなくても分かってんだよ!」
俺は心の中で毒づく。
——だが、ここで脱げば全部終わる。社会的に。
空を見上げると、黒風の渦が塔の頂点で蠢いている。
その中心に、一瞬だけ“眼”のような光があった。
人の形。
いや——人になろうとしている。
◇
ギルドに戻ったのは日暮れ前だった。
全身砂まみれの俺たちを見て、セリナが顔を引きつらせる。
「ちょっ……なにその状態!? また脱いだの!?」
「脱いでねぇ!」
「ホントに?」
「ホントだ!」
リオナがため息をつく。
「まぁ、今回はギリギリセーフね」
マリアが記録帳をめくりながら尋ねる。
「塔の風……やはり黒風の一種と見ていい?」
「ああ。しかも意思を持ち始めてる。喋ったんだよ、俺の名前を」
「名前を?」
マリアの手が止まる。
「……それはただの共鳴じゃないわね」
重い沈黙。
セリナが冗談めかして口を開いた。
「まさか、喋る風とか出世して人間になったりしないですよね〜」
リオナと俺は顔を見合わせた。
「……いや、笑えねぇぞそれ」
◇
屋根裏の窓を開けると、外の風が静かに流れ込んできた。
月が雲間からのぞき、遠くの北塔が青白く光って見える。
その風の中に、微かに“声”が混ざった。
「……オマエ、裸ニナレバ……見エル……」
「またかよ……神のいたずらか?」
俺はため息をつく。
『いたずらなら、ワシはもっと上手くやるぞ』
聞き覚えのある声が脳裏に響いた。神の声だ。
「お前かよ、やっぱり!」
『違う違う。今の声はワシではない。だが、興味深いのう』
「興味深いで済ますな!」
『風が意思を持つ時、人はそれを“魂の残滓”と呼ぶ。だがのう……その残滓が形を持てば、もはや風ではなく“人”じゃ』
俺は眉をひそめた。
「……まさか、黒風が人になるってのか?」
「その可能性は、否定できぬのう」
神の声が遠ざかる。
窓の外で、風がふっと笑ったような気がした。
「——やれやれ。これ以上、風に喋られたら俺、会話相手いらねぇな」
俺は布団に倒れ込み、天井のひびを見上げた。
あの黒い風が“形”を持つ日が来る。
そんな予感が、胸の奥に残ったまま——
夜が更けていった。




