第31話 黒風ふたたび
屋根裏に朝の光が差し込む。
ひび割れた天井の隙間から、埃がふわふわと落ちてくる。
鼻がむずむずして、思わずくしゃみをした。
「……ぶえっくしょい!」
その声に、下の階からリオナの怒鳴り声が飛んできた。
「シゲルー! 朝ごはん冷めるわよー!」
「いま行くって! あ、パン落とした!」
屋根裏の低い天井で頭をぶつけ、痛みにうずくまる。
俺は異世界最強の魔法使い――だが、現実はボロ家の屋根裏暮らし。
リオナとエルナが一階を借りて住み始めてから、俺の生活だけはまったくレベルアップしていない。
「……なんでだろな。仲間増えたのに収入は減った気がする」
床の隙間から漂ってくるのは、焼き立てのパンとハーブの香り。
エルナの声が聞こえた。
「リオナさん、パンが焦げそうですっ!」
「まったく、朝から神聖魔法の練習なんてしてるからよ!」
「え、えへへ……神様へのお祈りが長くなっちゃって……」
この子はほんとに天然だ。
聖水をこぼすわ、祈りの途中で寝落ちするわ。
でも、なぜかそのマイペースが心を落ち着かせる。
俺は階段を降りながらぼやいた。
「これでようやく、落ち着いた生活ができそうだな」
――そのセリフがフラグになるなんて、言った瞬間に気づくべきだった。
◇
昼前にギルドの使いが通りに現れた。
依頼書を配っていたらしい。
「春の風祭り、警備依頼……だと?」
依頼内容は“祭り準備中の事故防止および風害対策”。
報酬は銅貨数枚――。
リオナは腕を組んでため息をついた。
「なんか地味ね」
「金にならねぇ匂いがするな」
「でも、こういう依頼をこなすのが冒険者の信頼につながるんですよ」
エルナが笑顔で言う。
眩しいくらいに前向きだ。俺も少しだけ見習いたい。
◇
春の風祭りの会場は、街の中央広場だった。
色とりどりの布と花飾りが並び、子どもたちが走り回る。
パン屋も出店している。
俺は無意識に香ばしい匂いを追って、財布の中身を確認した。
「……うん、空だ」
「もう慣れたでしょ」
「その言葉が一番つらい!」
風に吹かれて、空に舞う風船。
布飾りがバタバタとはためく。
のどかな光景――だったのは、ほんの数分前まで。
突風が吹き抜け、飾りのひもが千切れた。
風船が一斉に舞い上がる。
屋台のテントがめくれ上がり、子供が泣き声を上げた。
「うわっと! 屋根が飛ぶぞ!」
「リオナ、押さえろ!」
「了解!」
リオナが剣でテントの支柱を押さえ、俺はロープを掴んだ。
しかし風はおさまらない。
エルナの金髪がふわりと舞い、頬に貼りつく。
彼女は目を細めた。
「……この風、ただの春風じゃありません」
俺も肌で感じていた。
生きているような風――脈動している。
嫌な既視感が胸をざわつかせる。
まさか……黒風?
◇
その夜、俺たちはギルドに報告へ向かった。
昼の騒ぎで、すでに数件の“風害”報告が上がっているという。
受付のセリナが心配そうに顔を出した。
「また風の暴走? ……シゲルさん、あなた何かしてませんよね!?」
「俺を自然災害扱いすんな!」
「だって、だいたいあなたが現場にいると何か起きるじゃないですか」
「それは……否定できねぇけど!」
奥の机ではマリアが淡々と書類をまとめていた。
彼女は目だけこちらに向け、落ち着いた声で言った。
「北塔の方角で風の逆流が確認されています。異常が続くなら、調査隊を派遣する予定です」
「……まるで、黒風の再来みたいだな」
「そう感じているのは、あなただけではありません」
マリアの瞳が、一瞬だけ強く光った気がした。
彼女も“何か”を感じているようだった。
ギルドの外に出ると、風が静まり返っていた。
だが、その静けさが逆に怖い。
夜の街灯の光がゆらめき、影が動く。
エルナが不安そうに空を見上げた。
「……黒風、また来るんでしょうか」
「来ても、吹き飛ばしてやるさ」
リオナが剣の柄に手を添える。
その横で、俺は風の流れを感じ取っていた。
風は――南へ流れている。
街を避けて、まるでどこかへ導かれるように。
嫌な予感しかしねぇ。
帰ると屋根裏部屋の明かりがチラチラと揺れていた。
ロウソクの火が風で揺れているのかと思ったが、違った。
風そのものが、部屋の隙間を通り抜けている。
「おいおい、ここにも来るのかよ」
風が机の上の紙を舞い上げる。
落ちてきた紙に、黒い煤のような跡がついていた。
指で触れると、ざらりとした感触――魔力の残滓だ。
俺は静かに呟いた。
「黒風……本格的に動き出したな」
◇
翌朝ギルドの掲示板には、新しい張り紙があった。
『北塔方面 調査依頼 報酬:金貨三枚』
筆跡はマリアのものだ。
「……行くしかないか」
リオナが剣を背負いながら言う。
「また風ね」
「パンが飛ばないといいけど……」
エルナが心配そうに笑う。
俺は掲示板を見上げ、深く息を吸った。
黒風――今度こそ、決着をつける。
◇
風が吹いた。
春の香りに混ざって、どこか焦げたような匂いがする。
その匂いを嗅ぎながら、俺は小さく呟いた。
「……この街、ほんとに風と縁がありすぎだろ」
――静かな春風の裏で、“闇の勇者”はすでに動き出していた。




