第27話 報告と再兆
朝の風は妙に冷たかった。
春だってのに、肩がすくむ。
俺は屋根裏の小窓を押し開け、鼻を鳴らす。
外では洗濯物がはためいていた。
……いや、俺んとこは洗濯物が干せるレベルの家じゃない。
昨日の黒風の件を思い出し、ため息が出る。
「封印したはず、なんだけどな」
独りごちて、腰のギルドカードを取り出す。
今日こそは正式報告を済ませなきゃならない。
報酬は……いや、期待はやめておこう。
どうせロクな額じゃない。
床板のきしむ音を聞きながら、階段を下りた。
かつてパン屋だった一階には、今日も人の気配はない。
代わりに、どこからともなく焼きたてのパンの香りがする気がした。
──腹が減ってんのか、俺。
◇
街の中心にあるギルドは、朝からにぎわっていた。
冒険者たちが依頼掲示板を取り囲み、報酬額に一喜一憂している。
俺が入ると、受付のセリナがすぐに顔を上げた。
「おはようございます、シゲルさん! 昨日は黒風を封印したたって聞きました!」
「まぁ……なんとか、な」
「すごいじゃないですか! “黒風を止めた男”って噂になってますよ!」
あちゃー。
噂、もう広まってんのか。
リオナが後ろで肩をすくめている。
「また“光る勇者”の再来って言われてるわよ」
「俺、光ってねぇし……もうそれ訂正してくれない?」
「無理ね。人の口には戸が立てられないってやつよ」
セリナは書類を取り出しながら、満面の笑みを浮かべた。
「じゃあ、黒風封印の報告書、お願いしますね!」
彼女の元気さが眩しすぎて、なんか逆に疲れる。
報告書を提出すると、今度はもう一人の受付嬢――マリアが現れた。
黒髪をきっちりまとめ、表情は真面目そのもの。
こっちが本番だ。
「封印の魔法構成を教えてください。属性、術式、詠唱時間、発動位置――できるだけ詳細に」
「え、えーと……その、魔法ってなんの事?」
「魔法でなければ、どうやって封印を?」
「……勢い?」
マリアの眉がピクリと動いた。
背後でリオナが吹き出す。
「勢いで封印するな、バカ」
「うるさい、あの時は切羽詰まってたんだよ!」
セリナが笑って場を和ませるように口を挟む。
「まぁまぁ、結果的に街を守ったんですし、良かったですよ!」
マリアはため息をつき、机に報告書を置いた。
「あなたの“勢い”に、こちらの記録班が頭を抱えてるんですけどね」
報告が一段落ついた、その時だった。
ふっと空気が変わった。
背筋をなでるような冷風。
ギルドの窓がカタカタと震える。
紙が一斉に宙を舞い、掲示板の依頼書が散乱した。
「きゃっ!? また風っ!?」
「おいおい、勘弁してくれよ!」
セリナが悲鳴を上げ、リオナが剣に手をかける。
俺はとっさに目を凝らした。
風の中に、一瞬だけ黒い靄が見えた――。
「……おい、まさか、またか?」
マリアが即座に呪文を唱え、結界を張る。
風が止まり、紙がぱたりと落ちた。
彼女は警戒の表情を崩さない。
「黒風の残滓、ですね。封印が完全ではなかった」
「いやいや、ちが、ちがう! たぶん封印の余波! 魔力の残り香みたいな!」
必死に言い訳を並べる俺。
……まぁ、実際ちょっと怪しいけど。
リオナが腕を組み、じっと俺を見た。
「“たぶん”って言い方が一番あやしいのよね」
「ぐっ……!」
マリアはしばらく黙っていたが、静かに言った。
「もし封印が不完全なら、再調査が必要です」
「ちょ、ちょっと待ってくれ、それは――」
しかし、俺の言葉を遮るように、マリアは机の引き出しを開けた。
中から新しい依頼書を取り出し、赤い印を押す。
「正式依頼です。名称――『黒風現象再調査』」
赤印の文字がやけに目に刺さる。
報酬額を見て、リオナが眉をひそめた。
「わりに合わないわね」
「ほんとだよ……危険手当が安すぎる」
セリナが苦笑しながら書類を差し出す。
「また行くんですか? 危なくないですか?」
「たぶん危ないけど……放っとくのも後味悪いしな」
「いい加減にしなさいよ」とリオナがため息をつく。
けれどその表情は、どこか頼もしげだった。
◇
報告を終えてギルドを出ると、昼の陽射しがやけに眩しかった。
通りの風が強く、帽子を押さえる人の姿がちらほら見える。
パン屋の前を通ると、風にあおられたのぼり旗がバサバサとはためいていた。
俺は苦笑しながらつぶやく。
「風の仕事が多いな、最近」
「そのうち“風担当”って呼ばれるわよ」
「いやだなそれ……響きがダサい」
リオナは空を見上げた。
「でも、今の風――なんか、違う気がしない?」
「……そうか?」
「黒い風、って感じ。気のせいかもしれないけど」
俺は笑ってごまかした。
「気のせい、気のせい。たぶん季節の変わり目だ」
言いながらも、胸の奥がざわつく。
◇
屋根裏の小さなランタンの灯を見つめながら、俺は思わず呟いた。
「……やっぱり、あれで終わりじゃなかったのかもな」
その時、聞き慣れた声が響いた。
『ほう、気づいたか。ようやく鼻が利くようになったのう』
「……神。出たな」
『出たなとは無礼な。わしはいつも、おぬしを見守っておるぞ』
「覗き見してるって言えよ」
『言葉のあやじゃ。さて、風のことじゃが――』
神の声がわずかに沈む。
『封じた風は止まる。しかし、歪みは残る。おぬしがこの世界にいる限り、な』
「……何だよそれ。俺のせいってか?」
『さあな。風は、流れる先を自ら選ばん。ただ、そこに吹くのみじゃ』
神はそれだけ言って、声を消した。
屋根裏に静寂が戻る。
ランタンの灯が揺れ、壁に俺の影が伸びた。
外では、夜風が優しく流れていた。
けれどその音の奥に、確かに黒い気配が混ざっていた気がした。
俺は布団に潜り込み、天井を見上げた。
今日の報酬? ゼロだ。再調査付き。
だけど、なぜか悪い気はしなかった。
……いや、良くはないけど、慣れてきたというか。
「ほんと、風まかせな人生だな、俺」
そう呟いて、目を閉じた。
春の夜の風はやさしく、けれどどこか不穏に吹き抜けていった。




