第26話 封じられた風
朝日が薄い板壁を透かして差し込み、屋根裏の埃が金色に舞っていた。
寝返りを打った俺は、腹の虫の音で目を覚ます。
財布の中身を数えると、銅貨三枚。
数えるたびにため息が深くなる。
「……今日も働くしかねぇか」
階段を降りると、かつてパン屋だった一階の空間が冷たい空気を溜め込んでいた。
誰もいない空き家に残る、焦げたパンの香り。
今ではそれすら、朝飯代わりだ。
◇
街の通りは春の陽気に包まれていた。
花売りの娘たちが声を張り、露店では香草の匂いが漂う。
その中を抜けて、俺はギルドの重い扉を押し開けた。
「おはようございます、シゲルさん!」
明るい声が真っ先に飛んできた。セリナだ。
今日も相変わらず元気すぎる。
「おはよう、セリナ。朝から賑やかだな」
「はい! 今日は“黒い風”の調査依頼がどっさり来てるんですよ!」
「黒い風……またか」
心臓が一瞬だけ強く跳ねた。
あの得体の知れない現象――。
奥からマリアが静かに顔を上げた。
帳簿を閉じ、眼鏡越しに俺を見つめる。
「西の丘で異常発生です。被害はまだ小さいですが、念のため熟練者が確認を。……あなたが行くのですね?」
「まぁ、気になるからな」
「気になる、では済まないこともあります。無茶はしないでくださいね」
その声は冷たいわけではない。だが、妙に刺さる。
セリナが隣で手を振る。
「大丈夫ですよ、マリアさん! シゲルさん、意外と頑丈ですから!」
「“意外と”という言葉の使い方を間違えていますよ、セリナ」
「えー、褒めてるんですって!」
ふたりのやり取りに苦笑しながら、俺は依頼書を受け取った。
西の丘――また、あの場所だ。
◇
丘に着くと、空気が重たかった。
草木が枯れ、風の流れが不自然にねじれている。
太陽の光さえ、黒く霞んで見えた。
「シゲル、来たのね」
リオナが腕を組んで待っていた。
剣の鞘を軽く叩き、辺りを見回す。
「妙な風よ。普通じゃない」
「感じるな。……魔力が渦を巻いてる」
足元の草がざわりと動いた。
その瞬間、地面の裂け目から黒い靄が噴き上がる。
風が唸り声を上げるように吹き荒れ、空気が歪んだ。
「リオナ、下がれ!」
俺は木陰へ走り込み、服を脱ぎ捨てた。
シャツ、ズボン、全部地面へ放り投げる。
空気が震え、体内の魔力が脈動する。
〈スキル モザイク〉
顔と股間にモザイクが掛かる。股間のモザイクは細かい。
「いくぞ……!」
消え去れ、
〈風刃〉
無数の風の刃が黒靄を切り裂いた――が、
次の瞬間、すべてが吸い込まれるように掻き消えた。
「効かねぇ、だと……?」
黒い風が渦を巻き、獣のように咆哮する。
リオナが剣を構えかけたその瞬間、俺はさらに叫んだ。
「来るな! これは普通の風じゃない!」
彼女が立ち止まる。俺は深呼吸し、両腕を広げる。
防御だ。
〈土壁〉
土壁が展開され、暴風が叩きつけられた。
地面が軋み、耳鳴りがするほどの圧が押し寄せる。
「これでリオナは大丈夫」
囲め!
〈封印結界〉
風の根源を不透明な障壁が囲い込む。
囲まれた黒風の渦が、悲鳴のような音を立てながら内側で暴れる。
俺は意識をさらに深く沈める。
消え去れ!
〈空間圧縮〉
風陣の中心が潰れていくように光を放ち、
結界内部が押しつぶされていく。
風が悲鳴を上げ、空気が弾けた。
――静寂が訪れる。
黒風は、消えていた。
「ふぅ……終わった、か」
全身から力が抜ける。
服を拾い上げ、急いで着込み、モザイクを解除する。
リオナが駆け寄ってくる。
「シゲル、あれ……いったい何だったの?」
「さぁな。悪質な風……とか?」
「どの口が言うのよ」
「風だけにな」
リオナの無言のジト目が痛い。
でも、彼女が無事で何よりだ。
◇
屋根裏に戻り、古いランタンを灯す。
黒風――あれは間違いなく、何かの“意思”を持っていた。
『おぬし、また服を脱いでおったな』
「うるせぇ神。……あれ、なんなんだ?」
『ふむ、言うならば“余波”じゃ。おぬしを呼んだ時に揺らいだ世界の歪み。それが風に宿った』
「つまり……俺のせいかよ」
『そうとも言えるし、そうでないとも言える。曖昧は便利じゃろ?』
「全然便利じゃねぇよ……」
ため息をついて、火を小さくした。
窓の外で春風が優しく鳴っている。
だがその奥に、どこか不穏な気配を感じていた。




