第23話 節約生活とズボンの関係
春の風が、屋根裏の小さな窓をゆらりと揺らした。
鳥の声とともに、花の匂いがふわりと入ってくる。
……いい天気だ。腹が減っていなければ最高の朝だろう。
俺は腹の音を聞きながら、枕に顔をうずめた。
異世界に来て半年。屋根裏生活にもすっかり慣れた。
慣れすぎて、財布の軽さにまで慣れそうだ。
「……少し余裕はあるが、ここは絶対節約だ!」
財布を振ってみるが、心地よい音ではない。
今朝もスープと硬いパンの耳だけ。
そのうえ節約生活が続いたせいか、ズボンがゆるくなってきた。
腰のベルトを二重に締めながら、俺はため息をついた。
『おお、見事な減量じゃな。健康的じゃぞ』
頭の中に、神の声が響く。
いつものように、他人事のような口調で。
「減量じゃねぇ。飢餓だ。完全にサバイバル生活だよ」
『己を鍛えることは尊いことじゃ。節約は神の徳にも通ずる』
「神の徳はいいから、せめて米粒でも降らせろ!」
枕を放り投げ、俺は起き上がった。
神の言葉に従っても腹は膨れない。結局、自力で稼ぐしかない。
◇
屋根裏部屋を出ると、街の空気がまるで別世界のように明るかった。
大通りのあちこちで花が咲き、香りが風に乗って漂ってくる。
今日は「春の市」の開催日。
年に一度、街が一番にぎわう日だ。
……財布が軽い日に限ってこういうイベントがあるんだよな。
通りには露店が並び、パン屋、果物商人、魔道具職人まで勢ぞろい。
焼き立てパンの香りが鼻をくすぐり、腹が訴える。
「働け」「食わせろ」の二重コールだ。
「やあ、朝から浮かない顔ね」
声をかけてきたのは、腰に剣を下げた金髪の女剣士――リオナだった。
市場の警備を頼まれているらしく、革鎧姿で凛々しい。
「浮かないっていうか、腹が空いてるだけだ」
「また節約? あんた、節約と貧乏の境界が消えてるわよ」
「いや、これは“修行”だ」
「はいはい。修行ね。で、修行の成果は?」
リオナの視線が俺の腰に向いた。
風が吹くたび、ベルトの下のズボンが少しずつ下がっていく。
「……あの、それ落ちそうよ」
「これでも二重に結んでるんだぞ!?」
「命綱みたいに言うな!」
リオナが呆れ笑いしながら、俺の腕を引いた。
「市場に仕事の張り紙出てたわよ。行ってみたら?」
市場の一角に“臨時募集”の札が出ていた。
内容は――「露店補助/日当:昼食支給」。
「食える……!」
俺は反射的に札を掴んだ。
依頼主は年配の商人で、野菜や果物を並べている。
「最近風が強くてなぁ。商品が飛ばされちまうんじゃ。押さえてくれるだけでええ」
「了解です! 押さえます! 絶対に!」
報酬は昼食一回分。
だが今の俺には金貨より価値がある。
リオナも手伝いがてら、店の脇で見張ってくれることになった。
昼が近づくにつれ、人の波が増えていく。
商人の呼び声、子どもの笑い声、パンを焼く香ばしい匂い――
街全体が活気に満ちていた。
「こういう賑わい、いいもんだな」
「そうね。財布が軽くなければ最高なんじゃない?」
「お前、言葉にトゲがあるぞ」
リオナが笑う。
その笑顔を見ながら、俺は縄で商品の箱を固定した。
だが次の瞬間、風向きが変わった。
さっきまで穏やかだった空気が、急にざわめく。
通りの旗が逆方向にたなびき、布がばたばたと音を立てる。
「ん? 風が――」
言い終える前に突風が吹いた。
テントの布がめくれ、果物が空を舞う。
俺は反射的にロープを掴んだが――
「うわっ!? ちょ、ちょっと待て、ズボンが――!」
腰のベルトがスルリと緩んだ。
あの二重結びが、あっけなく解けるとは思わなかった。
風が強くなるたび、ズボンがずり下がり、尻に冷たい風が当たる。
「シゲル!? 今それどころじゃ――」
「いや違う、マジでこれ命の危機だ!」
「どんな意味で!?」
俺はロープを押さえたまま、腰をひねって必死に結び直す。
だが片手が離せない。
風はどんどん強まる。
まるで誰かが意図的に風をねじ曲げているようだった。
――そのとき、一瞬だけ“黒い靄”が風の中を走った。
影のような、煙のようなものが空気を裂き、消える。
誰も気づかない。
けれど俺の背筋が、ぞわりと粟立った。
「……今の、なんだ?」
「え? なにか言った?」
「いや、なんでもない。風が止んだみたいだな」
突風は唐突に静まった。
散らばった果物を拾い集めながら、老人がぼやく。
「まったく、春風が荒っぽいこった」
「お疲れさま。……ズボン、無事ね」
「ギリギリだった。あと三秒で公然わいせつだった」
「そのスリル、いらないわね」
リオナが苦笑し、俺も肩で笑う。
笑いながらも、心の奥ではさっきの黒い靄が離れなかった。
逆風……あの風車の時と同じ。偶然か?
◇
ギルドに戻ると、空気が妙にざわついていた。
カウンターの向こうでセリナが報告書を抱えている。
「黒い風の目撃報告、また増えてるのよ」
「黒い風?」
「街道沿いでも同じような突風が起きたみたい。木が倒れたって」
リオナが腕を組み、俺を見た。
「やっぱり、何かあるんじゃない?」
「……かもしれないな」
その時、またもや頭の中に神の声。
『風とはのう、神の溜息とも言われておる』
「お前の溜息が世界に迷惑かけてんだよ!」
『ズボンが落ちんかったのは奇跡じゃな』
「ありがたくねぇ奇跡だな!」
リオナがきょとんとした顔をして俺を見る。
俺は慌てて咳払いをした。
「な、なんでもない。俺はちょっと……洗濯してくる」
「風で汚れたのはズボンだけでしょ?」
「……そこ強調すんな!」
ギルドの外に出ると、夕暮れの風が頬をなでた。
柔らかくて、ほんのり冷たい。
――その風の奥で、また小さく空気が逆立つ気配がした。
……やっぱり、風が変だ。
けれど今は、ズボンの紐がほどけないことを祈る方が大事だった。




