第21話 春の訪れと冬眠明けの財布
薄い陽の光が屋根裏の板の隙間から差し込む。
冬の間は凍えていたこの部屋にも、ようやく春の匂いが漂い始めていた。
草木が芽吹く音が聞こえそうなほど、外の風は柔らかい。
だが、俺の懐はまだ冬のままだった。
「……銀貨一枚。銅貨三枚。終わったな」
床に置いた財布をのぞき込み、深いため息をついた。
パンすら買えねぇ。
ギルドの安仕事も焼け石に水。
このままじゃ、マジで干からびる。
「なあジジイ、春になったのに俺の財布だけ冬眠してるんだけど」
『芽吹きには時間がかかるものじゃ。節約を学べ、若者よ』
「節約神、黙っててくれ……」
空腹を抱えたまま、俺は屋根裏部屋を出た。
春風が隙間から吹き込み、木の階段をきしませながら外へ出る。
街路の花壇には黄色い花が咲き、子どもたちの笑い声が風に乗って流れてくる。
世界はこんなに春なのに、俺の財布は氷河期。
悲しい現実をかみしめつつ、ギルドの扉を押し開けた。
◇
「おはようございます、シゲルさん! 今日も財布が軽そうですね!」
朝からセリナが明るすぎる。殺傷力の高い挨拶だ。
「せめて“お元気そうですね”とか言ってくれない?」
「だって顔がもう“お金ないです”って書いてますし」
俺と財布は、セリナの挨拶で瀕死の重傷負う。
なにはともあれ、仕事をしないと。
すがる気持ちでカウンターの上に並んだ依頼票を見ると、ひときわ目を引く紙があった。
「牧場の修繕と護衛、報酬金貨二枚!」
「おっ、いい仕事だな」
「ただし、日帰りで力仕事ですけど!」
「……力仕事の三文字が重い」
ちょうど隣の席で書類を束ねていたリオナが顔を上げる。
「ちょうどいいんじゃない? 冬の間、運動してなかったでしょ」
「……痛いとこ突くな」
「報酬も悪くないし、春一番の仕事よ。行くでしょ?」
「……働く、か。人並みに」
その一言が、俺の春の始まりだった。
◇
郊外の牧場に着くと、春風が頬を撫でた。
丘には若草が芽吹き、牛たちがのんびりと草を食べている。
空はどこまでも青く、風の流れが気持ちいい。
「ここが依頼主の牧場ね」
「ああ……春って、こういう匂いだったんだな」
「あんた、寒いからって屋根裏に籠もってるから気付かないのよ」
「……ごもっともです」
見ると、木の柵がいくつも壊れており、修繕が必要な状態だった。
牧場主のボルンが頭を掻きながら出てくる。
「いやぁ助かるよ。最近、風が強くてな。牛が落ち着かんのだ」
「了解です」
俺とリオナは工具を受け取り、杭を打ち直し始めた。
最初は平和だった。
春の陽気のなか、仕事って意外と悪くない――と思ったのも束の間。
「……地味にきついなこれ」
「冬の間サボってた分よ」
リオナは笑ってハンマーを振るい、俺は肩で息をする。
そのとき、泥まみれの子牛が柵を突き破って暴れた。
「お、おい止まれぇ!」
リオナが叫ぶ。
俺はとっさに子牛を押さえ込み、全身泥だらけに。
「……これ洗わないと」
「魔法でパパッとできないの?」
「……あー、なんで俺が魔法を使える前提なんだ?」
「へぇ、意外ととぼけるのね」
「放っとけ……」
仕方なく桶の水で泥を流す。
風が頬を撫でる。春の風は心地いい――けど、冷たい。
◇
昼過ぎ、風が変わった。
ぴん、と張り詰めた空気が肌を刺す。
「……リオナ、何か来る」
「うん、風の匂いが違う」
丘の上に銀の影。
風牙ウルフだ。
体毛が逆立ち、風の刃が走る。
「B級魔物!? なんでこんなところに!」
「そんなの聞かれても!」
リオナが剣を構え、俺は横へ走る。
けど、着衣のままでは魔法は発動しない。
心の中で、俺は静かに腹を括った。
「働く男、覚悟を見せる時か……」
干し草小屋の影へ飛び込み、服を脱ぎ捨てる。
春風が肌をなで、春の日差しが眩しい。
〈スキル モザイク〉
顔と股間をモザイクが覆う。股間のモザイクは細かい。
よし、財布の糧になれ!
〈風槍〉
空気が収束し、風の槍がウルフを貫く。
爆風が巻き起こり、干し草が舞い上がった。
服も、当然、一緒に。
「ちょっ!? また脱いでる!?」
「違う、飛ばされたんだ!」
「結果は同じでしょ!」
ウルフは地面に叩きつけられ、動かなくなる。
黒い靄が風に混じり、遠くへ流れて消えた。
戦闘後、牧場主が頭を下げた。
「助かったよ兄ちゃん。……あんた、服は?」
「風の仕業です」
「……そ、そうか。風って怖ぇな」
リオナが呆れ顔で肩をすくめる。
「もう、あんたが一番怖いわよ」
「褒め言葉として受け取っとく」
報酬の金貨二枚を受け取り、財布が少しだけ温かくなる。
夕暮れの風は穏やかで、牧場の草が金色に揺れていた。
「働くって、悪くないな」
「脱がずに済めば最高ね」
俺は苦笑しながら空を見上げる。
春の風の中に、ほんの一瞬、黒い影が揺らめいた。
けれど、それに気づいたのは、きっと俺だけだった。
◇
――こうして俺の異世界生活、第一章は静かに幕を閉じた。
働いて、食って、ときどき脱いで。
思えば、転がり込んだ屋根裏の天井の下にも、ちゃんと“日常”ってやつはあったんだな。
……問題は、この平和がいつまで続くかってことだけどな。
(第1章 完)




