第2話 草原の朝と全裸の現実
風の音がした。
耳の奥をくすぐるような、柔らかく乾いた音だった。
頬を撫でる風が心地いい。草の匂い、湿った土の匂い――確かに生きた大地の香り。
ゆっくりとまぶたを開ける。
目に飛び込んできたのは、どこまでも広がる青い空。
雲が流れ、風が通り抜け、遠くで鳥の声がした。
……ああ、これが異世界ってやつか。
立ち上がると、腰まである草がざわりと揺れた。
空の色が地球よりも深く、空気がやけに澄んでいる。
見渡しても建物も道もない。ただ、緑と光と風だけ。
――そして、全裸だった。
「……おいおい、マジかよ」
軽く腕を上げただけで、風が肌を抜けていく。
冷たい感触に鳥肌が立つ。
「あの神……本当にやりやがったな」
自分の腕を抱え、ため息をついた。
神が言っていた。「服を着ると魔力が滞る」。
それが本当だとしても、もう少しどうにかならなかったのか。
「……まずは服だろ、普通」
周囲を見渡すと、少し離れた草の上に、布袋が置かれていた。
陽の光を反射して、どこか神々しい。
恐る恐る近づき、中身を確認する。
粗末な布袋の中には、旅人用の服、靴、そして小さな袋。
小袋の口を開くと、金色の硬貨が光を反射した。
「これが……金貨か」
手に取ると、ずしりと重たい。
表には王冠の刻印、裏には羽ばたく鳥の紋章。
どうやら本物らしい。
十枚ほど――神が言っていた通りの“当座の資金”だ。
「……いや、でもさ」
思わず口に出た。
「裸のままカネ持ってても、ただの変質者だろ」
ひとまず服を着ようとした。
袖に腕を通し、布の感触が肌に触れた瞬間――胸の奥で何かが沈むような感覚。
……ん?
身体の内側から、力の流れが止まったような妙な違和感が。
息を整えて意識を集中してみる。
何も感じない。
静かすぎる。
まるで、自分の中の何かが“眠った”ようだ。
服を脱ぐ。
風が当たった瞬間、身体の奥が微かに震える。
血流のような、しかし熱を帯びた流れ――それが全身を巡る。
これが……魔力か?
目を閉じて掌を見つめる。
指先に熱が集まり、かすかに光が揺れた。
火花のような小さな閃光だ。
息を呑む。
「おお……出た……」
念じてみる。
「火よ――」
ピッ、と赤い火花が弾けた。
次の瞬間、草の先端に小さな炎が灯る。
「うおっ、待て待て!」
慌てて足で踏み消す。
焦げた匂いが漂い煙が上る。
心臓が跳ねるほど驚いたが、確かに今のは――俺の魔法だ。
裸一貫か。恥ずかしさと感動が入り混じる。
「……これが異世界の力ってやつか」
しかしすぐ現実が押し寄せた。
――全裸で火を出してる大学生。
どう考えてもヤバいやつだ。
「……くそ、神ってやつはロクな趣味してねぇ」
ため息をついて服を手に取る。
だが着るたびに、魔力が止まるのがはっきりわかる。
まるで体内の回路が布で塞がれるような感覚だ。
「ほんとに……服が封印なんだな」
ため息をつきながらも試してみたくなる。
再び服を脱ぎ、もう一度魔法を試す。
「……今度は水で」
手をかざし、心の中で強く念じる。
掌の前に透明な水の玉がふわりと浮かんだ。
陽の光を受けて虹色にきらめく。
「……きれいだな」
ぼんやり見とれていたら、球が弾けて顔に水がかかった。
「冷たっ!」
びしょぬれのまま笑いがこみ上げた。
恥ずかしさと呆れ、でも――不思議と心地いい。
「……ま、いっか。神の言うこと、案外本当だったし」
服を拾い上げ、再び袖を通す。
その瞬間、また魔力が沈黙した。
やはり着衣時は完全に無効か。
「……よし、理解した」
着衣=魔力封印。全裸=魔力解放。
納得はできないが、理屈はわかった。
空を見上げる。
雲がゆっくりと流れていく。
風の中に自分の心臓の音が混ざる。
「俺の力……たぶん、使い方次第なんだろうな」
でも問題は一つ。
魔法を使うたびに脱ぐ必要があるという、絶望的仕様。
「……これ、人前でどうすんだよ」
神の顔が脳裏に浮かぶ。
あの白髭、あの笑い。
“羞恥を超えてこそ真の力が目覚める”とか、そんなノリでやってそうだ。
「……いや、絶対わざとだ。あの神、俺で遊んでやがる」
拳を握りしめ空を睨む。
「聞こえてんだろ! 変態ジジイ!」
その瞬間、どこからともなく微かな声が風に混ざった。
『ふぉっふぉっ……聞こえておるぞぉ』
「ほんとに聞こえてたぁ!?」
周囲に誰もいない草原で、俺はひとりツッコむ。
鳥が驚いて飛び立ち、草が揺れた。
しばらく呆然としたあと、もう一度深呼吸。
笑うしかない。
「……まあ、いい。とにかく、ここで生きてくしかないんだ」
金貨を腰袋に入れ服を整える。
風が強くなり、草が一面に波打った。
その波の向こうに、遠く、木々の影が見える。
「あっちに……人がいるかもしれない」
小さく呟いて、一歩を踏み出した。
柔らかな草の感触が足裏に伝わる。
心臓が少しだけ高鳴る。
怖さよりも期待が勝っていた。
まだ何もわからない。
この世界で何が待っているのかも。
でも――
「……いつか、安心できる場所を見つけよう」
その言葉が自分でも意外なくらい、静かに口をついて出た。
誰かと出会える場所かもしれない。
誰にも見られずに裸でいられる場所かもしれない。
もしかしたら心が落ち着く場所かもしれない。
それがどんな形であれ、俺はきっと、そこを探すのだろう。
風が背を押した。
遠くで雷が小さく鳴ったような気がした。
まるで、神の笑い声みたいに。




