第19話 風下のざわめき
朝、屋根裏の隙間から差し込む光がまぶしかった。
寒さで鍋のスープは凍り、俺は鼻をすすりながら立ち上がる。
「……あー、今日も貧乏が染みるな」
扉を開けると、通りの向こうでパンをかじるリオナの姿があった。
「おはよう、貧乏顔」
「おはよう、毒舌」
軽く手を上げて笑うと、リオナはじっと俺を見た。
「……ねえ、最近一人で喋ってない?」
「寝言だ! 寝言だから!」
あぶない。ジジイ(神)と話してたのがバレるところだった。
◇
ギルドに向かう途中、通りの風が妙に逆方向に吹いていた。
旗が逆立ち、パン屋の看板がゆらゆらと揺れる。
「風、変じゃない?」
「そうか? 俺の寝癖のほうが変だと思うけど」
「……そうね、確かに」
納得するなよ。
その瞬間、パン屋の屋根の旗が強く煽られ――一瞬だけ白く光った。
目を瞬かせた次の瞬間、突風が吹き荒れ、露店の果物が宙を舞う。
「おい、帽子が飛んだー!」
「ぎゃー! パンが!」
「おいおい、また俺が拾う係かよ!」
リオナと一緒に走り回り、転がる木箱や吹き飛ぶ布を押さえる。
髪が乱れ、砂ぼこりが舞い上がる。
風の音が低く唸り、まるで誰かが笑っているようだった。
「リオナ、屋台を押さえろ!」
「了解!」
二人で力を合わせ、倒れかけた屋台を支える。
パンの香ばしい匂いがふわっと戻ってきたとき――風は、嘘みたいに止まった。
「……収まった?」
「どうやらな」
振り返ると、通りの人々が拍手をしていた。
「さすがだ! 風退治の勇者さまだ!」
「やめろ、それ流行らせるな!」
リオナが肩をすくめて笑う。
「もう名物ね、シゲル。光らないだけマシじゃない?」
「うるせぇ……」
◇
昼過ぎのギルドはいつもよりざわついていた。
セリナがカウンター越しに手を振る。
「おかえりなさーい、風の勇者さん!」
「だからその呼び方やめろって!」
奥の机では、マリアが冷静に書類を整理していた。
「例の突風事件、被害は軽微。ですが――」
マリアが数枚の報告書を並べた。
「西方の農村でも、“黒い風”が作物を枯らす報告が相次いでいます」
「黒い風……?」
リオナが眉をひそめる。
「原因は?」
「現状不明。ですが、魔力の偏りが観測されています」
俺は思わず息を飲んだ。
黒い風……嫌な予感しかしない。
「その……風って、光ったりとかしてないですよね?」
「光?」
「いや、なんでも。日当たり的な、あれです」
「意味がわかりません」
マリアの冷たい視線が刺さる。
リオナが苦笑して肩をすくめた。
「まあまあ、シゲルは風にも嫌われてるから」
「お前も言うな!」
ギルドの空気が少し和み、笑いが起きた。
セリナが小声で囁く。
「でも、ほんとに風が喋ったら怖いですね」
「……それ、冗談じゃ済まない気がするんだよな」
◇
夕暮れの通りに戻ると、街の屋根の上を風がゆっくりと流れていた。
空気の端がざわつく。
遠くで子どもたちの笑い声が響く。
俺はふと立ち止まり、つぶやいた。
「……この街、ほんとに落ち着かねぇな」
屋根裏部屋に戻ると、毛布にくるまりながら俺は天井を見上げた。
「……黒い風、か。まさかお前の仕業じゃないよな、神」
静寂のみ……。
しばらくして、どこからともなく声が響く。
『ふむ……ワシのものではない。風は、ワシにも逆らう時がある』
「風が逆らう? お前の管理甘くないか?」
『甘い方が世は回るのじゃ。おぬしも、服を着ておる時ぐらいは大人しくしておれ』
「そっちの管理も甘いだろ!」
毛布を頭まで被ってため息をつく。
「……結局、答えになってねぇし」
――
翌朝、通りのパン屋の旗がまた逆風に揺れていた。




