第15話 平和と勇者まんじゅう
パンの焼ける香りで目が覚めた。
異世界に来てからというもの、朝のにおいで幸せを感じるようになったのは進歩だと思う。
ただし、胃が拒否反応を起こすにおいだけは別だ。
「おはようございます、シゲルさん!」
階下に降りると、白風亭の看板娘――エマが満面の笑みで袋を抱えていた。
「はいっ、“勇者まんじゅう”! 在庫がいっぱいあるので、食べ放題です!」
テーブルに積まれた山。
表面には、俺の顔に似たような――いや、似てない? いや、似てる?
よくわからない笑顔が焼印で押されていた。
「……おいエマ。これ、まだ売ってたのか」
「はい! バルドン商会さんが在庫処分で全部置いていきました!」
「いや、押し付けていったんだろ、それ……」
ガストンさんの渋い声が厨房から飛ぶ。
「味は悪くねぇんだがな。問題は顔だ」
「しかも皮が厚くて中身が少ない、まるで俺みたいだな……」
ため息をついていると、リオナがやってきた。
腰の剣を下ろして、椅子にどかっと座る。
「おはよう、勇者さま」
「やめろ、その呼び方は。胃が痛くなる」
「でも街の人、まだ呼んでるわよ。“光る勇者”って」
「だから光ってねぇんだよ、あれは反射だって……」
言い訳しても信じてくれない。
“勇者ブーム”の余波はまだ街に残っていた。
とはいえ、以前の混乱と比べれば、いまの街は穏やかそのものだ。
◇
昼前、ギルドに顔を出す。
ドアを開けた瞬間、久々に静かな空気が迎えてくれた。
紙束と香ばしいインクの匂い、受付の前には穏やかな列。
これが俺の知ってる“平和なギルド”だ。
「おはようございます、シゲルさん」
マリアが顔を上げ、微笑む。
「騒動のあと、依頼も落ち着いてきました」
「よかったです……街の空気、すっかり戻りましたね」
「ええ、“光る勇者”のおかげで」
「だから違うんですってば!」
隣ではセリナが依頼札を整理していた。
「勇者関係の依頼、全部削除しました〜。代わりに“パン配達”が三枚増えてますけど」
「……なんかまた始まりそうで怖い」
リオナが肩をすくめる。
「パンかまんじゅうか、どっちにしてもあんたに縁があるわね」
「勘弁してくれ、俺は炭水化物の加護なんて要らない……」
◇
昼下がりの市場は穏やかで、どこか懐かしい。
空の青さ、パンの匂い、そして――
「勇者Tシャツ、一枚銀貨一枚!」
「光る勇者のフィギュア、半額だよー!」
……うん、完全には終息してなかった。
店先の露店では、俺の顔を模した商品がまだ並んでいた。
しかも微妙に出来が良い。腹が立つ。
「シゲル、ほら、似てるじゃない」
「リオナ、やめろ。笑うな。絶対買うな」
「ふふ、これ旅の記念に……」
「記念にするな! 燃やすぞ!」
その時、子どもが勇者像を転がして遊んでいた。
木製のそれは、俺の全裸モザイク姿を模している。
しかもモザイク部分が光るギミック付き。
「なぁ……あれ、楽しんでるか?」
「ううん、転がしてるだけね」
「……俺の尊厳も一緒に転がされてる気がする」
「いいじゃない。街が笑ってる。それで十分よ」
リオナの言葉は、どこかあたたかかった。
◇
夕方、白風亭の屋根の上で、俺は夕陽を見ていた。
赤い光が街を包み、煙突から上がる煙がゆるやかに流れていく。
リオナが隣に腰を下ろす。
「いい夕陽ね」
「うん。事件がないって、こんなに静かなんだな」
「静かすぎて、逆に落ち着かないでしょ?」
「……まぁ、否定はしない」
彼女は笑って、袋から何かを取り出した。
「エマからもらった“勇者まんじゅう”。最後の一個」
「胃が……胃がもう無理だ」
「そう言わずに。これで全部終わりってことよ」
俺は小さく笑って、まんじゅうを受け取った。
沈みゆく夕陽の中、少し冷めた皮が指に張りつく。
ああ、なんだかんだで――この街、悪くない。
『のう、シゲルよ』
「うわっ、出たな神!」
『平和な日々というのはの、退屈ゆえにこそ尊いのじゃ』
「……いいこと言ったと思ったけど、どうせオチあるだろ」
『うむ、“勇者まんじゅう味の胃薬”でも授けようかと思ってな』
「いらねぇぇぇぇ!」
屋根の上で、リオナが笑ってる。
夕陽の赤が二人の顔を染める。
街にようやく、ほんとうの“平和”が戻ってきた気がした。
◇
夜、白風亭の窓辺で、俺は手帳を開いた。
“冒険者生活、二十七日目。収入、金貨十二枚。胃もたれ、一日半。”
ペンを置き、ふっと笑う。
人に笑われて、恥ずかしくて、それでも――
この街で生きるのも、悪くない。




