第107話 荷役としての、仕事の仕上げ
鉄匙亭の朝は、日に日に静かになっていた。
パンとスープの匂いは変わらない。
木の椅子がきしむ音も、皿のぶつかる音も、いつも通りだ。
違うのは、客の顔ぶれと、話の内容だった。
「王国の使者は、もう帰国したんだとよ」
「見張りは相変わらずきっちりだがな。交代の話ばっかり増えた」
「鉄工所も、鉄の街道も補修で、当分仕事は尽きねぇってさ」
誰も「明日にでも戦だ」とは言わない。
そのかわり、「どこをどう直すのか」という話ばかりが飛び交っている。
「……使者の人たち、本当に帰ったんですね」
エルナが、パンをちぎりながらぽつりと言った。
「ああ、しっかり見送った」
隣の席にいた兵士が、肩をすくめる。
「だからって、こっちもすぐに楽になるわけじゃねぇけどな。国境部隊の組み替えと、街道の点検と、帳簿の書き直し。紙面の上の戦は続く」
その言い方に、どことなく慣れた諦めが混ざっていた。
「……空気が、だいぶ変わったわね」
リオナが小さな声で言った。
「最初ここに来たときは、“勇者がどうの”“祟りがどうの”って話が多かったけど、今は“仕事をどう続けるか”って話ばっかり」
「ああ」
俺はスープをすすりながらうなずく。
「勇者の噂だけで戦をはじめよう、って雰囲気じゃなくなった。みんな懐具合と炉の火力の方が、よっぽど気になるんだろ」
「懐具合って現実的ね」
リオナが眉を寄せる。
「まあ、実際そうなんでしょうけど」
エルナが苦笑したそのとき、テーブルの端を軽く叩く音がした。
「よう、今日も元気に雇われ荷役してくれるか」
バルツがカップ片手に立っていた。
「やるさ。やらねぇと給金が減るからな」
そう答えると、バルツはにやりと笑った。
「だったら朗報だ。今日もきっちり仕事がある。……ただし、今日でひと区切りだ」
「ひと区切り?」
エルナが首をかしげる。
「どういうことですか?」
「国境部隊の臨時増員は、とりあえず今日までって話になった」
バルツはパンをちぎりながら言った。
「炉の様子と街道の状態も落ち着いてきたんでな。これからは鉄工所と街道に増員して荷を運ぶそうだ。だから、お前ら三人の“雇われ荷役の契約”も、今日でいったん終わりってことになる」
リオナが、パンを皿に戻した。
「この先は?」
「この先は、お前らの好きにしろって話だ」
バルツはあっさりと言う。
「ガルダに残って別の仕事を探してもいい。王国側に戻るなら、国境までの荷を運ぶ分くらいは仕事をさせてやる」
「……ずいぶんあっさりしてるのね」
「仕事ってのはだいたいそんなもんだ」
バルツは肩をすくめた。
「縁があればまた一緒に荷を運ぶ。縁が無ければ、名前だけ覚えて別の荷を運ぶ。それが嫌なら、どっかの城にでも仕えるこった」
たしかに、その通りだ。
ここまでだいぶ濃い時間を過ごした気がしていたが、
最初の約束は「国境まわりの臨時の荷役を手伝う」だけだ。
「……どうする?」
リオナが俺を見る。
「ここでずっと荷役するって選択も、なくはないけど」
「エルステンさんにも、“報告”をした方がいいですね」
エルナが真面目な顔になる。
「勇者のことも、グラナードのことも、王国側に帰って話す仕事が残っています」
「ああ」
俺は、パンをもう一口かじってから言った。
「ガルダでの仕事は、ひとまずここまでだろ。ここから先は、王国に戻って片付けねぇと」
「じゃあ、決まりね」
リオナがうなずく。
「今日で荷役の仕事を辞めて、バルツの荷馬車で王国の国境まで戻る」
「そういうことだ」
バルツはカップを飲み干した。
「午前は鉄工所と倉庫。午後はハルト商会だ。エルステンが“締めの話をしたい”とよ。荷役らしく、最後まで荷を運んでから別れの挨拶に行け」
「了解」
短く答えて、俺たちは残りのパンを口に運んだ。
◇
午前中の仕事は、いつもとあまり変わらなかった。
鉄工所に資材を運び、補修用の材料を降ろす。
砦行きの荷を倉庫から運ぶ。
違うのは、鉄工所の連中の顔が、少しだけ柔らかくなっていることだ。
「おう、荷役。例の“床の揺れにうるさいやつ”らが来たぞ」
「昨日は助かった。炉は、まだちゃんと稼働してる」
そう声をかけられるたびに、
俺は「ただの荷役だ」と繰り返し答えた。
「昨日も言ったが、決めたのは主任だからな。俺は床の様子をちょっと口にしただけだ」
「そういう事に気づくやつが、現場には必要なんだよ」
年長の職人が笑う。
「また荷があったら頼む。今度は炉がもう少し機嫌良くなってるはずだ」
そう言って、俺たちを送り出してくれた。
倉庫でも、砦行きの荷を渡す兵士が、「今日で最後か」と残念そうにしながら、「お前らが居たおかげで、こっちは少し楽ができた」と笑ってくれた。
……どこへ行っても、俺たちは最後まで「荷役三人組」として扱われている。
それが、妙にありがたかった。
◇
午後になり、俺たちはバルツの荷馬車で、ハルト商会へと向かった。
半地下の応接室に下りると、紙とインクの匂いに混じって、少しだけ乾いた鉄の匂いがした。
エルステンは、いつものように地図の前に立っている。
ただ、その表情は前よりいくぶん柔らかい。
「来たか。座れ」
短くそう言うと、机の上の書類をどける。
「まず、国境の話をしよう」
俺たちが腰を下ろすと同時に、エルステンは手元の地図をめくった。
「国境部隊の配置は、少しずつ組み替えられている。だが、今のところ“すぐ戦になります”って空気ではない」
「にらみ合いは続くけど、すぐには動かない……って感じですね」
エルナが言う。
「ああ」
エルステンは地図の国境線を指でなぞった。
「見張りの持ち場を少し動かし、街道を延ばし、砦の倉庫を増やす。“長くにらみ合いを続けるための準備”が、書類の上でも現場でも進んでいる」
彼は指を止め、こちらを見た。
「炉の話も届いてきた。火力を無理に強くせず、補修を優先する方針が、上の方とも共有された」
リオナが目を瞬いた。
「そんなことまで伝わってくるんですか?」
「国境を守る側にとって、炉と街道は命綱だからな。“ここで炉と道を壊すな”って話は、真っ先に回ってくる」
エルステンは、ふっと笑った。
「“床の揺れに気が付く荷役がいて助かった”って噂も、少し混ざってたがな」
「……余計な噂までセットかよ」
思わず顔をしかめると、エルステンは肩をすくめた。
「悪い噂じゃない。勇者の噂よりは、よっぽどまともだ」
そこで、指先で別の紙を引き寄せる。
「勇者の話は、この数日ほとんど聞かない」
それは、ここに来てから一番落ち着いた声だった。
「酒場で酔っぱらいが“裸の祟り”を持ち出して笑うことはある。だが、素面で国境の話をする時に“勇者がどうの”なんて言い出す奴は、今はいない」
エルナが、小さく息をついた。
「よかった……」
「俺にとっても、仕事がしやすくなった」
エルステンは淡々と続ける。
「国境の話をする時に、祟りがどうとか、全裸がどうとかは、混ざってこない方がいい。そういうのは、酒の席だけで十分だ」
「噂を焚きつけてた連中は?」
リオナが尋ねた。
エルステンは、首を横に振った。
「相変わらず、名前は分からない」
胸の中で、男の名前が浮かぶ。
グラナード。
帝国から逃げ込んだ元参謀。
噂を焚きつけて、人と国の隙間を探す男。
だが、その名前を口に出すことはない。
ここではそれでいい。
「……少なくとも、この国境では、勇者の噂だけで戦にはならねぇ」
俺は静かに言った。
「ここの経済を回してるのは、炉と道。あと帳簿と、エルステンの頭だけだろ」
「荷役のくせに、偉そうなことを言う」
エルステンの口元が、少しだけ持ち上がる。
「だが、そうだ。ここではもう、“裸の勇者”は戦争の札にはならない。その確認ができただけでも、俺には十分だ」
そう言うと、机の引き出しを一つ開けた。
「これは、お前たちに渡しておく」
出てきたのは、封蝋のされた数通の書状だった。
「リーベル王国の商人と、ギルドに通じている何人かへの紹介状だ。ガルダの鉄の状況、街道の話、国境のにらみ合いの現状を書き添えてある」
「いいんですか? こんなものを預かって」
エルナが目を丸くする。
「本来なら俺が持っていくべきだが、こっちの仕事も残ってる。それに、お前たちは自分の目で鉄工所や街道を見てきた。俺の言葉だけより、伝わるものもあるだろう」
封筒を三通、俺たちの前に置く。
「名前は不明だが、帝国から流れてきた“何者か”が、この国境で火種を撒いていたことも書いた。ただし、あくまで“噂を弄ぶ連中”って書き方でな」
グラナードという名は、やはりどこにもない。
「……助かります」
エルナが深く頭を下げる。
「王国側に、ちゃんと届けます」
「頼んだ」
エルステンは軽く手を振った。
「お前たちには、荷を運んでもらった上に、余計な話まで運んでもらったからな。そのお返しと思っておけ」
「運んだのは、荷と噂と床の揺れくらいだろ」
俺がそう言うと、エルステンは鼻で笑った。
「荷役にしては運びすぎだ。……だからこそ、“勇者”にはする気はないがな」
その言葉に、思わず笑ってしまう。
「それでいいさ。ここで勇者扱いされたら、今度はガルダまで巻き込む羽目になる」
「そういうところは分かってるみたいだな」
エルステンは立ち上がり、手を差し出した。
「また荷を運びたくなったら来い。そのときは、勇者じゃなくて荷役として雇ってやる」
「そっちの方が、性に合ってるかもしれねぇな」
差し出された手を握り返す。
短い握手だったが、それで十分だった。
◇
夜の鉄匙亭は、いつもより少しにぎやかだった。
「明日で、あの三人組もおしまいか」
「砦と工房の間をよく走ってたな」
「床の揺れに気が付く荷役と、口の回る剣士と、やたら丁寧な祈り手」
俺たちが食堂に入ると、何人かが声をかけてきた。
「送別会、ってほどじゃないがよ」
カウンターの内側から、主人が笑う。
「バルツが“どうせなら一緒に飲ませろ”ってうるさくてな。スープだけ、少し具を増やしておいた」
「ありがたい話だな」
椅子に腰を下ろすと、鉄工所の若手と年長の職人、それに砦帰りの兵が何人か、近くの席に陣取った。
「お前ら、明日で本当に帰っちまうのか」
若手が、カップを片手に言った。
「もうちょっと炉の床の揺れを見てってくれてもいいんだぜ?」
「床の揺れを見るのは、あんたたちの仕事でしょ」
リオナが笑う。
「ここから先は、自分たちでちゃんと火加減見なさいよ」
「分かってるよ」
若手は頭を掻いた。
「主任にも、こっぴどく言われたしな。“止める勇気を持てねぇ奴は、火力を強くする資格もねぇ”って」
「いい上司ですね」
エルナが微笑む。
「国境は、そういう人たちに守られてるんだと思います」
「お前らもな」
今度は砦の兵が口を開いた。
「勇者が来るって噂だけ広がって、何もしないまま来られたら、こっちはどうしようもなかった。けど実際に来たのは、勇者じゃなくて荷役三人組で、結果としてはその方が都合が良かった」
「それは褒めてんのか?」
思わず眉をひそめると、兵は笑った。
「もちろん褒めてるさ。裸の勇者なんて本当に来たら、揉め事が増える」
「そこかよ」
周りが笑いに包まれる。
そのタイミングで、バルツがカップを掲げた。
「聞いたか、お前ら。裸の勇者の代わりに、地味な荷役三人が国境を少し持たせたって話だ」
「やめてくださいよ、そういうまとめ方」
エルナが慌てて手を振る。
「私たち、ただの雇われ荷役ですから」
「そうだそうだ」
誰かが茶々を入れる。
「なぁシゲル、本当は勇者じゃねぇだろうな?」
「勇者だったら、こんな安い宿で毎日パンかじってねぇだろ」
即答すると、テーブルのあちこちから笑いが起きた。
「勇者様ってのはな、もっといい飯といい部屋で寝てんだよ。こんな三人部屋で、ひしめき合って寝ねぇだろ」
「それもそうだな」
兵が腹を抱えて笑う。
「じゃあ安心だ。“裸の勇者”はやっぱり噂だけってことでいい」
それで、この場で勇者の話は終わった。
軽い冗談として扱われて、
誰も本気で「本物がいるかどうか」を気にしていない。
それが、なによりありがたかった。
◇
夜。三人部屋に戻ると、窓の外には砦の灯りが小さく見えた。
昼間より少し少ないが、ちゃんとそこにある。
「……この街では、一回も魔法の出番がなかったわね」
荷物の整理をしながら、リオナが言った。
「戦闘らしい戦闘もなかったし。せいぜい荷物と炉と床を相手に、あんたが頭を使ってただけ」
「頭を使ったなんて言えるほどじゃねぇよ」
腰を下ろし、ブーツを脱ぐ。
「勇者の噂を戦争から外すって話だったからな。ここで脱いで魔法ぶっ放したら、前提からひっくり返る」
「はい」
エルナが、きちんと座り直してうなずく。
「この街では、“勇者じゃなくてもできること”が、たくさんあったと思います。荷を運んで、話を運んで、炉を壊さないようにして。それで国境のにらみ合いが、少し穏やかになったなら……」
「それでいいわね」
リオナが肩を回す。
「ここは、そういう終わり方でいいと思う」
窓の外に目をやる。
砦の灯りの向こうには、国境の線がある。
向こう側には、リーベルの土地が続いている。
『ここじゃ、“荷役のシゲル”で終わる』
心の中で、改めてそう決めた。
『勇者は、また別の場所でやればいい。ここでの働きくらい、脱がずに済んでも罰は当たらねぇだろ』
「明日は、バルツの荷馬車で国境まで戻るんでしたね」
エルナの声が現実に引き戻す。
「お願いしますって、もう頼んじゃいました」
「世話になりっぱなしね、ほんと」
リオナが笑う。
「王国に戻ったら、今度はあっちでまた面倒が待ってるんでしょうけど」
「待ってるだろうな」
俺はベッドに背を預けた。
「噂を撒く奴も、きっとここだけじゃねぇ。でも――」
そこで、言葉を切る。
「ここを出るときに、“裸の勇者”を置き土産にしなくて済んだだけ、だいぶマシな旅路だと思う」
「「たしかに」」
リオナとエルナが、ほぼ同時に笑った。
部屋の灯りを落とすと、外の砦の灯りだけが、ちらちらと揺れている。
その灯りが、にらみ合いを続ける国境のしるしであり、
勇者ではなく荷役たちが運んだ「別の物語」のしるしでもあるような気がした。




