第106話 炉の火力と、止める判断
鉄匙亭の朝は、今日もパンとスープの匂いで満ちていた。
皿が行き交い、椅子がきしみ、人の声が交差する。
けれど耳に入ってくる言葉は、少しずつ変わってきている。
「炉の補修が決まったと思ったらよ、生産量をもう少し増やせって話までついてきやがった」
「国境の駐屯地まで鉄を運びやすくするために、街道も手を入れるんだとよ」
「にらみ合いを長く続けるためだってさ。こっちは骨が折れる一方だ」
鉄工所の連中が多く泊まっているせいか、食堂の空気もいつもより熱気がある。
「でもよ、どうせ増産するなら、一気に見せつけてやりゃいいんだよ」
ひときわ声の大きい若い工員が、パンを片手に身を乗り出した。
「“ガルダは鉄をまだまだ作れる”ってところを、はっきり見せりゃいい。そうすりゃ向こうだって、うかつに国境の線を動かせなくなるさ」
「お前はすぐそう言う」
向かいの年長の男が苦笑する。
「炉は根性で動かねぇんだ。火力を強くしすぎて壊したら、国境どころか街の熱気が冷えるぞ」
「だからって、いつまでも様子見ばかりじゃ進まねぇだろ」
若い鉄工は引かない。
「にらみ合いを続けるにしたって、“こっちはやる気があるぞ”ってところ見せなきゃ、向こうになめられるだけだ」
勇者という単語は、誰の口からも出てこない。
その代わりに、「根性」とか「踏ん張りどころ」とか、曖昧だけど勢いのある言葉が交じっていた。
「……勇者の祟りがどうこうよりは、だいぶマシな話になってきたわね」
向かいでパンを齧りながら、リオナが小声で言った。
たしかに最初のころの空気に比べたら、今の雰囲気はまだ現実的だ。
『勇者の噂が、形を変えて残ってるって言い方もできるかもしれないけどな』
心の中でそんなことを思いながら、スープをすすった。
「でも、“勇者の祟りで国境が動く”って真顔で言われるよりは、“炉の火力をどうするか”って話になってる方が、まだ話が通じる気がする」
「そうですね」
エルナが、カップを両手で包みながらうなずく。
「少なくとも、“祟り”じゃなくて、“炉の限界”とか“街道の状態”とか、目で見えるものの話になってますから」
「お前ら、朝から難しい話してんじゃねぇ」
背中を軽く叩かれた。
「荷役の仕事は、難しい顔してたら給金が増えるのか?」
振り返ると、バルツがカップを片手に立っていた。
「増えねぇな」
素直に答えると、バルツはにやりと笑った。
「じゃあ、飯はさっさと食って稼げ。今日は鉄工所まわりの荷が多い」
「鉄工所?」
リオナが顔を上げる。
「昨日の話の続きか?」
「まぁな」
バルツは椅子を引いて腰掛けた。
「炉の補修だの、街道用の資材だの、砦に回す分だの。国境のにらみ合いを続けるための荷ってやつだ」
「戦じゃなくて、“にらみ合いを続ける準備”ってのが、また……」
俺が苦笑すると、バルツは肩をすくめた。
「そういう時期ってことだ。しばらくは、どの国も“引けねぇけど殴れねぇ”って顔して相手を見張る」
「そういえば、さっき勇者の話してる人はいませんでしたね」
エルナが首をかしげる。
「“見せつける力”とか“根性”とか、そんな感じの言葉はありましたけど」
「勇者の話は飽きたんだろ」
バルツは残りのパンをちぎりながら言った。
「裸の勇者がどうとか、国境の祟りがどうとか、散々聞かされりゃな。今は、それより“炉を壊さずにどこまで火力を上げられるか”の方が、あいつらにはよっぽど切実だ」
『それはそれで、あんまり無茶しないといいんだが』
胸の中でだけ、小さくため息をついた。
◇
鉄工所は、いつもどおり煩かった。
炉の中で燃える火の音。
鉄を打つ槌の音。
蒸気の抜ける音と、人の怒鳴り声。
その全部が混ざり合って、耳の奥まで響いてくる。
「今日は裏口から回れ」
バルツに言われ、俺たちは荷馬車を工場裏の搬入口に回した。
扉が開くと、熱気がまとまって流れ出てくる。
「おう、バルツ。また仕事を持ってきたのか」
迎えに出てきたのは、白髪混じりの技師だった。
工場の現場を束ねている主任格の男だ。
「炉の補修材と、街道の杭になる木材だ。それから砦の備蓄に回す工具も少し」
バルツが荷の内容を告げると、技師は手早く目を走らせた。
「確認した。……で、そっちの三人はいつもの荷役か」
「給金安めの荷役だよ」
俺は肩をすくめる。
「荷を落っことしたら、さらに減るんだ」
「落とすなよ」
技師は短く笑ってから、真面目な顔に戻った。
「今日の炉は、いつもより少し火力を上げる。補修前にできる範囲で、どこまで持つかを試す。その間、搬入口に余計な荷は置くな。逃げ道が塞がる」
「試す?」
リオナが聞き返す。
「炉の機嫌を見るってことか?」
「ああ」
技師は手に持った紙を軽く叩いた。
「上から“生産量を増やせ”って指示がきた。だからって、無理に火力を強くする気はねぇがな。規定の範囲内で火力を上げて、異常が出たらすぐ落とす。それで駄目なら、“これ以上は無理だ”って突き返すしかない」
「主任、根性が足りねぇなぁ」
背後から、聞き覚えのある声が飛んできた。
振り向けば、鉄匙亭で景気のいいことを言っていた若い工員が、手を振っていた。
「ここで“まだ増産出来る”ってところ見せれば、国境のにらみ合いだって、向こうへの脅しになるんだぜ?」
「炉は脅し道具じゃねぇよ」
技師はため息をついた。
「炉が吹っ飛んだら、国境を守る鉄も作れねぇんだ」
「分かってますって。だから、規定の範囲で“目いっぱい”火力を上げてみようって話ですよ」
若手の工員は悪びれもせずに笑う。
「ここでびびってたら、一生このままですよ。にらみ合いを続けるだけで、何も変わらない」
「……口だけは達者になったな」
年長の職人が肩をすくめた。
「この前、自分で火加減を読み違えて、鉄を半分ダメにしたのは誰だったっけ」
「経験ってやつですよ」
若手は頭をかいた。
「失敗したからこそ、次は成功させたいって思うもんでしょう?」
技師はしばらく黙って、炉の方へ視線を向けた。
ごうごうと燃える火。
真っ赤に染まる炉口。
その周りで鉄が運ばれ、打たれ、形を変えていく。
「……いいか」
やがて、低い声で口を開く。
「補修前にできるのは、一時的に火力を上げて様子を見るところまでだ。火の強さはこの値までで、時間も決める。少しでもおかしな音がしたら、すぐに火力を弱める。それ以上はやらねぇ」
若手は、満足そうに親指を立てた。
「それで十分です。主任がそう言うなら、全員従いますよ」
その言葉に、周りの職人たちも無言でうなずく。
技師の決定には、なんだかんだ言って誰も逆らわない。
それだけの信頼があるのだろう。
……信頼はあるとしても、無茶は無茶だ。
『この前まで“祟りがどうの”って言ってた連中が、今度は“根性で火力上げます”って言い出すんだから、世話ねぇな』
心の中でぼやきながら、俺たちは荷を降ろし始めた。
◇
炉の火力が、いつもより少しだけ強くなった。
見た目には、大きな違いはない。
けれど、空気の熱が、じわじわと変わっていく。
「うわ、これ、顔が焼けそうね……」
リオナが額の汗をぬぐいながら眉をひそめる。
「空気が熱い感じがします」
エルナも、ローブの胸元を少しつまんだ。
俺は、荷を肩に担ぎながら、床の感触に意識を向ける。
鉄工所に出入りするようになってから、
重い荷物を運ぶたびに、床の揺れや音にも敏感になった。
今も、足の裏に伝わる振動が、いつもとは違っているのが分かる。
『……響き方が、少し鈍くなってきてるな』
槌の音や足音が、床を通して伝わってくるときの、あの心地よい反響。
それが今日は、どこかで引っかかっているような感じがする。
炉の側面から伝わる低い唸りも、さっきより鈍くなった。
「主任、火力を上げすぎじゃありませんか?」
年長の職人が近寄って声をかける。
「規定の値は越えてねぇ」
技師は炉の温度を示す目盛りを見ながら答える。
「まだ、規定の限界まではいってねぇ。……だが、もう少し様子を――」
「主任、もうちょっとだけですよ」
若手が横から口を挟んだ。
「せっかくここまで火力を強くしたんです。“まだ余裕ある”ってところ、記録にも残しましょうよ」
技師は、若手と炉とを交互に見て、わずかに眉をひそめた。
『このまま火力を保ち続けたら、どっかの継ぎ目が先に音を上げる』
そんな予感が、胸の底に沸いてくる。
何かあっても、魔法が使えれば話は早い。
全裸になれば、水か風の魔法で一気に温度を落とすことも、炉の周りの熱の流れを変えることもできる。
けれど――それをやったら、その瞬間に終わりだ。
国境の噂から必死に消したはずの『裸の勇者』が、今度は鉄工所のど真ん中で再登場することになる。
『ここで脱いだら、本末転倒もいいところだろうが』
自分で自分に言い聞かせる。
『この街じゃ、魔法抜きで何とかしねぇと意味がねぇ。勇者抜きの物語にするために来たんじゃねぇのか、俺』
荷を下ろすふりをして、炉の側の壁に手を当てる。
熱い。けれどそれ以上に、震え方が嫌な感じだ。
「……バルツ」
少し離れたところで荷の確認をしていたバルツに、声をかける。
バルツは一瞬こちらを見て、状況を察したらしい。
若手連中の注意が炉に向いている隙を見て、追加で運び込まれてきた燃料袋を、さりげなく搬入口側に戻し始めた。
「おい、その袋は――」
「こいつ、底が抜けかけてる」
バルツは平然と返す。
「炉のそばでばら撒いたら危ねぇ。詰め直してから持ってこい」
若手は舌打ちしたが、そこまで強くは言わない。
燃料の一部が遠ざかったことで、ほんの少しだけ時間が稼げた。
俺は、荷を置くふりをしながら、技師の近くに寄った。
「主任」
声のトーンを落とし、炉の音に紛れる程度の大きさで話しかける。
「素人なんで、炉のことは分かんねぇんですけど……」
「なんだ」
「さっきから、この辺の床と壁の振動が、さっきまでと違ってきてます」
足元と、手のひらを当てた壁を軽く触ってみせる。
「荷を運んでると、たまにあるんですよ。“この揺れ方のときは、このあとどこかが壊れる”ってやつが」
技師の顔つきが変わった。
「……どこだ」
「炉の、この辺りです」
俺は、炉の側面の一角を指さした。
「音も少し、低くなってます。さっきまでは、槌の音と一緒に響いてたのが、今は、こっちは別に震えている感じです」
技師は、俺の指差した場所に手を当てた。
しばらく黙って、壁面の様子を調べる。
隣では年長の職人も目を細めている。
「主任」
職人が小さく言った。
「俺も、ちょっと嫌な感じがします。火力をもう少し強くしたら、ここが先に逝きそうな」
技師は短く息を吐いた。
「……火力を弱める」
職人たちに告げる。
「ここまでだ。規定の値はまだ上だが、炉の機嫌が悪い。今は、“規定の数字”より経験を信じる。火力を落とせ!」
その声に、周囲が一斉に動き出す。
「おい、まだ――」
若手が言いかけたが、技師が鋭くにらんだ。
「ここで炉を壊したら、国境に出す鉄が全部止まる。根性を見せる前に、自分の立場を壊す奴は、ただの馬鹿だ」
若手は口をつぐんだ。
火力を弱めていくと同時に、
炉の側面から「バチン」という音が一つ響いた。
全員の動きが止まる。
嫌な汗が背中を伝った。
「……今のは?」
リオナが、小さな声でつぶやく。
「継ぎ目が少し動いただけだ」
技師は、炉の表面を手のひらでなでるように触れた。
「今火力を落としたから、この程度で済んだ。まだ強くしてたら、ここが割れてたかもしれねぇ」
若手は、顔色を変えて炉を見つめていた。
「主任……」
「あとで一緒に、ここの補修計画を練るぞ。中を見て状況をしっかりと確認するんだ」
技師の声は厳しいが、怒鳴り散らすものではなかった。
若手は、ゆっくりとうなずいた。
「……はい」
◇
日が傾き始めるころ、炉の火は安定した。
火力はいつもより少し弱いくらいに落とされている。
鉄工所の空気も、昼間のピリピリした感じが抜けていた。
「さっきは助かった」
片付けをしていた俺たちに、技師が歩み寄ってきた。
「荷役のくせに、床と壁の様子をよく見てたな」
「荷を落としたら給金が減るからな」
俺は肩をすくめた。
「荷が落ちる前に、床の揺れ方で分かることもある。……炉だって、似たようなもんなんじゃねぇかと思っただけですよ」
技師は、ふっと笑った。
「理屈としてはめちゃくちゃだが、現場としては分かる話だ」
そう言ってから、真面目な顔に戻る。
「ここで炉を壊してたら、国境のにらみ合いどころじゃなかった。にらみ合いを続けるにも鉄が要る。その鉄を作る炉を、自分たちでぶっ壊すところだった」
「“根性で火力を上げる”ってのは、ほどほどにしてくださいね」
横からリオナが口を挟む。
「見せつけるのは大事かもしれませんけど、炉が爆発したら、見せるものが無くなりますよ」
「耳が痛ぇ」
後ろで聞いていた若手が、頭を掻いた。
「でも、止める勇気を出したのは主任だろ。俺は、あそこで火力を落とせって言えなかった」
「次は言え」
技師はきっぱりと言った。
「“止める勇気”を持てる奴じゃねぇと、火力を上げる権利もねぇ」
エルナが、小さくうなずく。
「勇気って、無茶することだと思ってましたけど……長く続けるために、やめる勇気も必要なんですね」
「説教みてぇなこと言うな」
技師が苦笑する。
「まぁ、今日に限っては、その通りだがな」
そう言って、俺たちの方に向き直った。
「荷役三人組。お前らの分の給金は、いつもの取り決め通りだ。
……だが、今日の分だけは“炉一つと、鉄工所を守った手当て”だと思って受け取ってくれ」
「じゃあ、遠慮なく」
リオナが笑う。
「この街で食べる最後の飯が、ちょっとだけ豪華になるかもね」
「最後、ね」
エルナが小さく繰り返した。
技師はそれ以上は聞かず、「またな」とだけ言って工場の方へ戻っていった。
◇
鉄匙亭へ戻る道すがら、夕焼けが街の屋根を赤く染めていた。
遠く、砦の方角にも、見張りの明かりが灯り始めている。
「さっきは、ちょっと危なかったわね」
リオナが言う。
「炉の側面が割れてたら、あそこにいた人たちも、あんたもただじゃ済まなかったわよ」
「割れる前に火力を弱められて良かったですね」
エルナが胸をなで下ろす。
「シゲルさんが床の揺れ方に気づいてくれなかったら、主任もあそこまで早く決断できなかったかもしれません」
「俺はあくまで“荷役”だ」
俺は苦笑した。
「荷と一緒に少し余計なことも運んだだけで、決めたのはあの主任だよ」
「それでも、あんたが動かなきゃ、火力を弱めるのはもう少し遅れてたでしょうね」
リオナが横目で俺を見る。
「……で、本音を言うと?」
「本音?」
「もし誰も気づかなかったら、あんた、脱いで水ぶっかけるつもりだった?」
図星を突かれて、言葉に詰まった。
「……考えなかったって言ったら嘘になるな」
やっとのことで答える。
「でも、やったら終わりだ。鉄工所のど真ん中で全裸になって水をぶっ放してみろ。明日からこの街は、“全裸の勇者が炉の火を消した”って話で持ちきりだ」
「でしょうねぇ」
リオナは盛大にため息をついた。
「せっかくエルステンさんたちと一緒に“勇者の噂を消した”のに、ここで勇者が出てきたら笑えないわよ」
「だから、あそこで決めたのは主任でよかったんです」
エルナが微笑む。
「魔法も勇者も使わないで、それでも炉が壊れずに済んで、国境のにらみ合いも続けられる。……そういう勝ち方があるんだって分かって、ちょっと安心しました」
「安心ねぇ」
空を見上げる。
砦の灯りが、夕闇の中でゆっくりと揺れている。
『勇者の噂で国境を動かそうとした筋書きは、この街じゃもう通じない。代わりに、炉の火力と街道と、止める勇気が国境を支えてる』
それでいい。
少なくとも、この仕事の終わり方としては、それで十分だ。
「……まぁ、俺は今日も“荷役のシゲル”で終わりだな」
ぽつりと言うと、リオナとエルナが顔を見合わせて笑った。
「いいんじゃない?」
リオナが言う。
「“荷役のシゲル”が守った炉で、国境のにらみ合いが、もう少しだけ続くならね」
「はい」
エルナが、まっすぐな言葉で続けた。
「勇者の出番は、また別の場所でもいいと思います」
その言葉に、俺も小さく笑った。
鉄匙亭の灯りが、すぐそこに見えてきていた。




