第105話 使者の去った砦と、消えた噂の出処
鉄匙亭の朝は、最近同じ匂いがする。
焼きたてのパンと、薄いけれど温かいスープ。
木の椅子がきしむ音と、皿のぶつかる小さな音。
変わったのは、その合間に飛び交う言葉だった。
「王国の使者、一昨日には砦を発ったらしいぞ」
「国境の見張りはそのままだけどよ、持ち場の入れ替えがあるんだと」
「鉄工所の連中は、炉の補修だなんだで、しばらく忙しくなるってよ」
話から戦の色が薄くなった。
そのかわりに、国境のにらみ合いをどう長く持たせるか――そんな話ばかりが出てくる。
「国境の兵を引き上げるって話は、やっぱり出なかったみたいだな」
「そりゃそうだ。王国もこっちもまだピリピリしてるんだ。ちょっと気を抜いたところを突かれたらたまんねぇ」
奥の卓で、ひげ面の男が呟き、向かいの男がうなずく。
「でもよ、鉄が足りねぇのに、にらみ合い続けるなんて言ってもなぁ。鉄工所の炉は、このままじゃ長くもたねぇぞ」
「だから補修と増員の話が出てんだろ。鉄の街道も直さねぇと、荷馬車が壊れちまう」
話題の真ん中にいるのは、兵でも戦でもなく、鉄と道と仕事だ。
それが、この街の現実ってやつなんだろう。
「……勇者の話は、すっかり隅っこね」
向かいでパンをちぎりながら、リオナが小声で言った。
耳を澄ませば、たしかに「勇者」という単語もまだ時々、聞こえてくる。
「結局、裸の勇者とやらは国境まで来なかったな」
「来ても困るけどな。砦の前で全裸で暴れられてみろ、話が余計ややこしくなる」
そんなふうに笑って言われている。
呼ばれた身としては、笑えねぇ冗談だ。
「……少なくとも、“勇者の祟りで兵士が動く”って話は、もう真顔じゃ語られてねぇな」
スープをすすりながら、俺は呟いた。
「まだにらみ合いは続いてるが、あの噂だけで一気に火がつく空気じゃねぇ。それだけでも、だいぶマシじゃねぇか」
「そうですね」
エルナが、両手でカップを包みながらうなずく。
「ここ数日は、“誰がどこで働くか”“鉄をどう作るか”の話ばかり聞きました。勇者の話は……本当に、酒の肴ですね」
「さすがに、“勇者の祟りで国境が燃る”って真顔で言われても困るもの」
リオナが肩をすくめた。
「こっちはこっちで、飯代と宿代をどう稼ぐかで精一杯だしね」
そのとき、背中を軽く叩かれた。
「精一杯なら、口より先に手を動かせ」
バルツが立っていた。片手にはパン、もう片方にカップ。
「今日の“雇われ荷役”の仕事を教えてやる」
「はいはい、雇われ荷役ですとも」
リオナが苦笑しながら椅子を引いた。
「今日はどこ?」
「午前中は、いつも通り市場と倉庫だ」
バルツはパンをかじりながら言う。
「砦に持ってく荷もあるが、国境部隊の持ち場が大きく変わるわけじゃねぇ。物資の入れ替えと、帳簿の書き直しがメインだな」
「戦の準備じゃなくて、“にらみ合いを続けるための準備”ってやつか」
俺が言うと、バルツは鼻を鳴らした。
「言い方はどうでもいい、荷は荷だ。で、午後はハルト商会だ」
「エルステンから?」
「そうだ。前らに来てほしいとさ」
バルツはカップの中身を一気にあおった。
「戦の話もしばらく動いてない。使者が帰った後だ、“これからの話”を整理したいんだろ」
「“これから”ね」
エルナが、短く繰り返した。
勇者の噂が薄れたあとで残るのは、鉄と道と、国境のにらみ合い。
その中で俺たちがどこまで関われるのか――それを確かめる一日になりそうだった。
◇
午前中は、ひたすら倉庫と市場の往復だった。
小麦の袋、干し肉、工具、布。
砦に向かう荷もあるが、どれも『国境部隊を維持するため』の物ばかりだ。
「前みたいに、“いつ戦が始まってもいいように”って緊張感とは、ちょっと違うわね」
麻袋を肩に担ぎながら、リオナが言う。
「“いつ始まるか分からないけど、とりあえず今は持たせる”って感じ」
「確かにそうだな」
俺は荷台に袋を積みながら答える。
「鉄工所では、どれだけ炉を修理するか。鉄の街道は、どこを手直しするか。そんな話ばかりだ」
「国境部隊で働いてる人たちの顔も変わってきました」
エルナが木箱を押しながら言った。
「“明日にも戦かもしれない”って顔から、“いつまで続くんだろう”って顔に」
「にらみ合いが長引けば長引くほど、現実の話になってくんだろうな」
俺は息を吐いた。
「勇者の噂だけで戦が始まる筋書きは、もうこの辺じゃ通じねぇ。そういう空気になってきてる」
汗が額を流れる。
けれど、胸の中には少しだけ、冷静な手応えもあった。
◇
昼過ぎに荷を一通り降ろした俺たちは、バルツと別れてハルト商会に向かった。
半地下への階段を降りると、紙とインクの匂いがいつもより少し強く感じられる。
応接室兼倉庫では、エルステンが地図の前に立っていた。
机の上には書類の山。
端には例の帳簿が積まれている。
「来たか。座れ」
短い言葉が飛んできた。
俺たちが椅子を引くと、エルステンは一枚の紙を指で弾いた。
「国境の話を先に済ませる。王国の使者は、予定通り砦を発った」
「……国境の兵は?」
リオナが尋ねる。
「持ち場は、そのままだ」
エルステンは肩をすくめた。
「一気に兵を引くほど、世の中甘くない。ただ、すぐにぶつかる空気でもないが」
「にらみ合いは続く、ってことですね」
エルナが言う。
「ああ」
エルステンは地図の上で指を滑らせた。
「国境沿いの見張りを減らす話は、まだ出てない。その代わり――」
指が、ガルダの街とその周辺を囲むように動く。
「炉の補修、鉄の街道の維持、国境部隊への物資の流れ。“戦を避けたまま国境のにらみ合いを続ける”ための条件が、地図の上でも一応、形になった」
「条件、ですか」
「炉が止まれば国境の緊張が高まる。鉄が運べなきゃ、にらみ合いどころじゃなくなる。それくらいは、向こうの書記官も分かってた」
そこでエルステンは、ふっと目を細めた。
「……お前らが鉄工所や街道で聞いた話を、伝えてくれたおかげだ」
「俺たちは荷運びしただけだろ」
思わず口をはさむと、エルステンは鼻で笑った。
「荷と一緒に“現場の様子”も運んでただろうが。そういう話は、数字だけじゃ伝わらない」
そう言ってから、話題を変えるように机の端の紙を一枚めくった。
「もう一つ、気になる話がある」
「勇者ですか?」
エルナが、少しだけ緊張した声で問う。
「勇者そのものじゃない」
エルステンは首を横に振る。
「この街で、勇者の噂をやたら焚きつけてた連中がいたのは知ってるな」
「瓦版屋とか、軍人がいる事務所とかで、“裸の勇者がどうの”っていう瓦版の関係者たちね」
リオナがうなずく。
「あいつら、ここ数日動きがない」
エルステンの声が少し低くなる。
「酒場の主人や情報屋に当たっても、“急に見なくなった”って話ばかりだ。そいつらと繋がってたらしい連中も、まとめて姿を消してる」
「逃げた、ってことですか?」
「この街からはな」
エルステンは隣の紙を引き寄せる。
そこには、別の国境線の簡単な図が描かれていた。
「商人筋から入った話だ。別の国境――リーベル王国とも帝国とも違う国だが、そこで“勇者”に似た噂をばらまいてる連中がいるらしい」
「似た噂?」
エルナが首を傾げる。
「“どこかの国に、人の形をした災いがいる”とか、“見えない力を操る者が国境を越える”とか。中身は違うが、やり口が似てる」
エルステンは指先で紙を叩いた。
「ここで勇者の噂を焚きつけてた連中が、そのまま別の国に移ったと見ていいだろう」
静かな半地下に、その言葉が消える。
「つまり――」
リオナがゆっくりと口を開いた。
「ここで、“勇者の噂で戦を起こす”って筋は、もう諦めたってことね」
「少なくとも、この街ではな」
エルステンは淡々と答えた。
「今さら裸の勇者の噂一つで、戦を起こそうって奴はいないだろう。鉄工所や街道で貰う給金の方が、よっぽど生活がうるおう」
そこで、少しだけエルステンの表情が和らぐ。
「噂は簡単には消えない。酒の席で“裸の勇者がどうの”って話は、当分続くだろうさ」
「でも、“戦の切り札”にはならない」
エルナが、そっと言葉を継いだ。
「そういうことだ」
エルステンはうなずいた。
「それだけは、ここ数日お前らが荷を運んで、話を聞いて回った成果だと、俺は思ってる」
「荷役の成果としては、ちょっと高すぎる評価じゃねぇか?」
苦笑しながら言うと、エルステンは肩をすくめた。
「重い話を軽く運べる奴ってのは、そう多くない。お前らは、それをやってくれたってことだ」
言い終えると、彼はまた地図に視線を落とした。
「国境の方はしばらく、大きくは動かないだろう。だが、この街全体にとっての“この先”は、まだ決まっちゃいねぇ」
それは、俺たちに向けられた言葉でもあり、
紙の上の線に向けられた独り言でもあった。
◇
その夜、鉄匙亭の三人部屋で、俺たちは改めて昼間の話を振り返っていた。
窓の外では、遠く砦の方角に灯りが揺れている。
国境の持ち場を見張る火だ。
「……あの“噂を焚きつけてた連中”」
先に口を開いたのはリオナだった。
「ほぼ間違いなく、グラナードのようね」
「ああ」
俺は床に敷いた毛布に座り、天井を見上げた。
「帝国から逃げてきた元参謀様。戦ってねぇ国境を探しては、噂を撒いて、火が付きそうなら残る。火が弱けりゃ、さっさと別の場所に移る」
「前にも、似たようなことがありました」
エルナが膝の上で手を組む。
「“勇者が現れた”とか“神に選ばれた人が光っている”とか、噂をわざと広めて、人の不安を煽って、国力を弱らせる……」
「で、肝心の本人は、前にも出てこねぇ」
俺は苦笑した。
「やり口はまるっきり変わってねぇな。今回も、ここで勇者の噂が思ったほど炎上しねぇと見るや、さっさと別の国に移ったってわけだ」
「でも、“炎上しなかった”んですよね」
エルナが、少しだけ安堵の色を浮かべる。
「ここでは、勇者の噂だけじゃ国境は動かない。エルステンさんや、鉄工所の人たちや、鉄の街道の人たちが、鉄とか道とか給金の話を、ちゃんと広げてくれたから」
「あんたもな」
リオナが、俺に目を向けた。
「荷運びしながら、あちこちで話を聞きまくってさ。“誰がどこで困ってるか”を、エルステンに渡してたでしょ」
「荷役は、荷札の送り先に荷を運ぶくらいだと思ってたがな」
俺は肩をすくめた。
「今回は、もうちょっと余計なもんを運んじまったかもしれねぇ」
「余計じゃないですよ」
エルナが首を横に振る。
「それがあったから、勇者の噂だけで戦を始めようとする筋書きが、ここでは止まったんです」
その言葉に、部屋の空気が少しだけ静かになった。
窓の外で、砦の灯りがひとつ、ゆっくりと揺れる。
「……グラナード本人は、取り逃がしたままだ」
俺はぽつりと言った。
「捕まえたわけでも、説教して改心させたわけでもねぇ。別の場所でまた、似たようなことをやるだろうな」
「それでも、ここでの筋書きは消えたでしょ」
リオナの声は、変に力んでいなくて、ちょうどいい心地だった。
「“勇者の噂でガルダとリーベルをぶつける”って筋書きは、もうここではもう通じない。それなら、この国境に関しては勝ちよ」
「……ああ。そういうことにしとくか」
自分で口にしてみると、不思議と胸のあたりが軽くなった。
勇者として戦ったわけじゃねぇ。
脱いでもいない。魔法も使ってない。
それでも、
『ここじゃ、勇者の噂だけで国境は動かない』
そう言えるくらいには、何かを運んできたってことだ。
「エルステンさんに、グラナードの名前を伝えなくてよかったんでしょうか」
エルナが、少し迷いながら尋ねた。
「エルステンさんなら、受け止めてくれそうな気もしますけど……」
「受け止めてくれるからこそ、言わねぇ方がいい」
俺は即答した。
「帝国の元参謀が裏で糸を引いてたなんて話は、国どうしがにらみ合ってるときには、火種にしかなんねぇ」
言葉を選びながら続ける。
「“勇者の噂を広げる謀略屋がいる”くらいの噂なら、まだいい。でも名前まで伝えちまえば、どっかで“帝国が公式に仕掛けてきてる”って話になるかもしれねぇ」
「そうなったら、今度こそ戦争の口実になりますね……」
エルナが小さく息を呑む。
「ああ」
俺はうなずいた。
「それに、エルステンは街を守る役目の人だ。俺らの“宿題”まで背負わせる必要はねぇよ」
「宿題、ね」
リオナが苦笑した。
「グラナードのことは、あくまで“王国から私たちに出てる指示”ってことね。商会と街の人たちをそこまで巻き込むのは、違うってわけだ」
「そういうこった」
そう言ってから、窓の外に目をやる。
砦の灯りは、相変わらず一定のリズムで揺れている。
国境のにらみ合いは、これからもしばらく続くだろう。
けれど、その力を押し出すのが「裸の勇者の噂」じゃないってだけで、この仕事の終わりとしては、十分だと思えた。
「ここじゃ、“荷役のシゲル”で終わっとく」
小さく呟く。
「勇者は……また別の場所でケリをつけりゃいい」
その言葉に、リオナとエルナが目を見合わせて、ふっと笑った。
部屋の灯りが、静かに揺れる。
その揺れの向こうに、まだ見えない次の境界線と、見えない宿敵の影がぼんやりと伸びている気がした。




