第104話 使者の帰国と、勇者の扱い
鉄匙亭の朝から、どこか『平時に戻る気配』がしていた。
いつものパンとスープ。
いつもの椅子の軋む音。
なのに、飛び交う言葉は、少しだけ違う。
「使者は明日には帰るらしいぞ」
「砦での協議は、もうほとんど終わりだってよ」
「国境部隊の兵が何人か戻ってきて、代わりに別の兵が動くらしい」
前みたいに「攻める」や「守る」みたいに、極端な声は減っていた。
その代わり、こんな話が増えている。
「兵の入れ替えがあれば、給金も変わるかねぇ」
「鉄工所の仕事、また増えるってさ。炉の補修だって」
「道の修理にも人が回されるって話だぞ。あの穴ぼこが、ようやく埋まるかもな」
戦そのものより、『これからどう食ってくか』の話が中心だ。
勇者の噂は、すっかり端っこに追いやられていた。
「結局、裸の勇者ってのは本当にいたのかね」
「さぁな。本当でも嘘でも、当分ここには来ねぇよ」
「来たら来たで、店の前だけでも服を着てほしいもんだ」
笑いながらそんなことを言っている。
「……だいぶ、落ち着いてきましたね、“勇者”の話」
エルナが、小声で言った。
「ああ」
俺はパンをちぎりながら、周りを見回す。
「“全部勇者の祟りだ”って言ってた連中が、今は“炉が古い”“道が持たねぇ”って言い始めてる。ようやく、噂より身近の話になってきたってことだろ」
「こっちの方が、現実っぽいわね」
リオナがスープをすすりながら頷く。
「戦がどうとかより、給金とか仕事量とか。結局そこに戻ってくるのよね、人間って」
「そこに戻ってくれてるうちは、まだマシだろ」
そう言ったところで、背中を軽く叩かれた。
「戻ってくるところがあるうちが、って言え」
バルツが立っていた。
パンを片手に、いつも通り眠たそうな顔だ。
「少なくとも、今のところは“仕事がなくて立ち尽くすしかねぇ”ってほどじゃねぇ」
「今日の仕事、あります?」
エルナが尋ねると、バルツはニヤリと笑った。
「もちろんだ。午前は砦の外だ。市場近くの倉庫に荷を運ぶ」
「砦じゃないのね」
「砦の中は中で、別の連中が走り回ってる」
バルツは肩をすくめる。
「それとだ。午後はまだ空けとけって、ハルト商会から話が来てる」
「エルステンから?」
「ああ。何か面白い話が出るんじゃねぇか」
バルツはパンを一口かじる。
「とりあえず、腹を満たして午前の荷を片付けろ。午後の話は、それからだ」
「了解」
パンをかじりながら、俺は心の中でため息をついた。
使者が帰るなら、それはそれで一つの区切りだ。
その前に、エルステンが何を確かめようとしているか――だいたい想像はつく。
荷と札と、顔の話だ。
◇
午前中は、ひたすら市場近くの倉庫を往復する仕事だった。
布と穀物の袋。簡単な道具。
どれも『戦の準備』というより、『人を動かすため』に近い荷だ。
「前より、“ここで使う物”が多い気がするわね」
荷を降ろしながら、リオナが言う。
「国境部隊行きじゃなくて、市場と倉庫で動いてる荷が増えてる」
「それだけ、ここでの暮らしを見直すつもりってことだろ」
俺は汗をぬぐう。
「戦の準備を続けるにしても、止めるにしても、街の動きを止めるわけにはいかねぇ」
「……それ、エルステンさんも同じこと言いそうです」
エルナが微笑んだ。
昼頃には荷が片づき、バルツが手を打った。
「よし、午前分は終わりだ。午後は――」
「ハルト商会ですね」
エルナが先に言うと、バルツは肩をすくめた。
「話が早くて助かる。商会に行け。エルステン様が、お前らの“話”を欲しがってる」
「話だけで済んでくれりゃいいんだがな」
軽口を叩きつつ、俺たちは商会へ向かった。
◇
半地下の応接室は、いつも通り紙とインクの匂いがした。
地図の上に紙束が広がり、その上をエルステンの指が忙しなく動いている。
俺たちに気づくと、彼はペンを置いた。
「来たか。座れ」
「砦の中で話は纏まりそうなのか?」
「一応、形にはなりつつある」
エルステンは短く答え、机の上の紙を二、三枚ひっくり返した。
「全部を止めるわけじゃない。だが、“この道、この倉庫、この橋”には、しばらく手を出さない、という線が引かれつつある」
指先が地図の上をなぞる。
「その代わり、ガルダは鉄と物資を安定して出せ、という条項が付く」
「鉄工所と鉄の街道の話が、ようやく協議に出たってことですね」
エルナが言う。
「わずかだがな」
エルステンは肩をすくめる。
「炉の補修、増員、街道の安全確保。言葉にすれば二言三言だが、その言葉のために、現場の人間がどれだけ話をしたかは記録には残らない」
「それでも、何も話さねぇよりはマシだろ」
俺は地図を覗き込む。
「“足りないから無理だ”って言葉が、“だから増やす必要がある”に変わったなら、それだけで一歩前進じゃねぇか」
「そう思うか」
エルステンの視線が、一瞬だけ俺に向いた。
「“勇者”については?」
リオナが尋ねる。
「協議には、ほとんど出ないようだ」
エルステンは、別の紙を指で叩いた。
「“噂の域を出ない存在”として、触れずにおく。開戦を早める材料にも、遅らせる材料にもなりうる“曖昧な駒”として、あえて出さずにおこうとしている」
「やってもねぇことを盾にも矛にもされかけた挙げ句、“噂でした”で片づけられそうってことかよ」
思わず苦笑が漏れた。
「まぁ、戦を煽るために噂を振り回されるよりは、だいぶマシか」
「その通りだ」
エルステンはあっさり頷く。
「“勇者の祟り”一つで戦が始まるより、“鉄が足りない”“道が持たない”の方が、まだ話ができる」
それから、少し声を落とした。
「リーベル王国の若い書記官――ライネルのことは覚えているな」
「もちろん」
リオナが即答する。
「数字の前に、荷札や顔の事を聞きたがる人ね」
「そいつだ」
エルステンは、机の端の小さなメモに目を落とす。
「帰る前に、補給所や倉庫をもう一度見て回っている。書類の上だけじゃなく、実際の荷の流れを確認してから帰るつもりらしい」
「エルステンさん、ちょっと嬉しそうですね」
エルナが言うと、エルステンはわずかに口元をゆがめた。
「街を数字でしか見ない連中ばかりじゃない、という話だ」
それだけで、エルステンにしては上等な評価だ。
「そこでだ」
彼は、俺たちの方をまっすぐ見た。
「今日の夕方前に、砦前の倉庫の荷を整理しに行ってくれ。そこにリーベルの書記官も来る」
「ライネルが?」
「可能性は高い」
エルステンは頷く。
「協議がどうなろうと、現場の記録は別に残る。そこに、お前たちがいれば良い」
リオナが目配せをしてくる。
俺は肩をすくめて笑った。
「荷を運んで、荷札と顔の話をするだけなら、いつも通りだな」
「そうだ。いつも通りでいい」
エルステンはそれ以上、多くを語らなかった。
俺たちは立ち上がり、砦前の倉庫へ向かった。
◇
夕方前、砦前の倉庫には、朝とは別の静けさがあった。
陽の光は少し傾き、石畳に影が長く伸びている。
兵士たちの動きも、朝のせわしなさから、段取りを確認するような歩調に変わっていた。
「ここか」
バルツの荷馬車が止まり、俺たちは荷台から飛び降りる。
倉庫の中には、荷札を貼り替えられた木箱が並んでいた。
「先送り」、「保管」の文字。
新しい「国境部隊行き」の荷札は、目に見えて少ない。
「送り先が固定されてきた感じね」
リオナが、棚の一角を見て言う。
「“送り先が決まった荷”から、“しばらくここに置いておく荷”に変わってる」
「国境部隊行きの荷札を貼る事が、少なくなってるな」
俺は運びながら答えた。
「貼るたびに、貼る方も見る方も顔が曇るんじゃ、無理もねぇ」
そこへ、聞き覚えのある声がした。
「荷札の送り先を覚えている荷役は、帳簿を書く側としては、とても助かりますね」
振り向くと、帳簿と書類を抱えたライネルが立っていた。
前より少し疲れた顔をしているが、視線は相変わらずよく動いている。
「また会いましたね」
ライネルが軽く頭を下げる。
「今日は、帰り支度の帳簿整理です」
「明日、発つのか?」
「ええ。こちらの砦での仕事は、ひとまず終わりです」
ライネルは倉庫の中を一望した。
「その前に、荷と札の話を、もう一度だけ聞いておきたいと思いまして」
「好きねぇ、そういうの」
リオナが苦笑する。
「ここ数日で、何が変わったか。教えてもらえますか」
ライネルは、帳簿を開きながら言った。
「噂でも、荷札でも、兵士の顔でも構いません」
「噂なら」
リオナが答える。
「勇者の話は、ほとんど酒の席だけになったわ。“本当にいたのかね”って笑い話」
「その代わりに、鉄工所の話や街道の話が増えました」
エルナが続ける。
「炉を直すとか、人を増やすとか、道の穴を埋めるとか……そういう話です」
「戦をどうするか、より、“これからどう暮らすか”の方に近づいてるな」
俺は木箱を棚に押し込みながら言う。
「兵の入れ替えとか、給金とか。戦になるにせよ、一回止まるにせよ、腹は空くし、荷は動く」
ライネルは、静かにメモを取っていく。
「荷の流れは?」
「“先送り”と“保管”が増えてきた」
俺はちらっと札を指さす。
「前は、どこに送るか迷ってる感じだったが、今は“ここに置く”って決めてきてる。逆に、新しく“国境部隊行き”が増えた感じはねぇ」
「兵士たちの顔つきは?」
「戸惑いのあとに、現実って感じです」
エルナが答えた。
「“一旦止まるのか”“配置替えだろう”って迷っていた人たちが、今は“進むにせよ止めるにせよ、鉄がないと無理だ”って、半分諦めたように言っています」
「諦め、ですか」
「完全に希望を失ってるわけじゃないです」
エルナは首を振る。
「ただ、“祈りだけではどうにもならない”ことを、分かっている目でした」
ライネルは少しだけ目を伏せ、また帳簿にペンを走らせた。
「……こちら側でも、似たような言葉が出ました」
「そっちでも?」
「“勇者に頼るな”“魔法に頼るな”“武器と装備を数字で見ろ”と」
ライネルは、少しだけ苦笑する。
「“勇者”という言葉を正式な書類に書くのは、結局避けられました。開戦を早める材料にも、長引かせる材料にもなりうる曖昧な駒として、あえて外に置かれた形です」
「……噂でした、で済ませるわけか」
俺は息を吐いた。
「まぁ、勇者の祟りで戦が始まるよりは、だいぶマシだな」
「代わりに、“補給路”“鉄”“炉”“道”という単語が、条文の方に乗りかけています」
ライネルは顔を上げる。
「それだけでも、ここで荷を運んでいる人たちの話を聞いた甲斐はあったと思っています」
「……エルステンが聞いたら、ちょっとだけ笑うな」
俺が言うと、リオナがくすっと笑った。
「多分、“二言三言だがな”って付け足すわね」
「想像できます」
ライネルも、わずかに口元をゆるめた。
それから、手元の帳簿をぱらりとめくる。
「前にあなた方の名前を記録しました」
そこには、三つの名前が並んでいた。
「シゲル。リオナ。エルナ。今日の分も、同じページに書き足します」
「また増えるのか」
俺が言うと、ライネルは首を横に振った。
「数を増やすわけではありません。“この日、この砦で荷を運んだ雇われ荷役たち”として、同じ名前があったと残すだけです」
「……それで、いいのかって聞いてるのか?」
「ええ」
ライネルは少しだけ真面目な顔つきになった。
「あなた方は、それでいいのですか。もっと別の名前で記録されたいと思ったことは?」
一瞬、倉庫の中が静かになった。
リオナがこちらを見る。エルナも、不安そうでもなく、ただ待つような目で見ている。
俺は、笑った。
「どこにでもいる荷役の一人でいいさ」
肩の力を抜いて、言葉を続ける。
「少なくとも、この街じゃ、“裸の勇者”より、その方がまだ役に立つだろ」
リオナが、ふっと息を漏らした。
「私は、“雇われ荷役”としてここに来てるから、それで十分よ」
エルナも穏やかに頷く。
「誰かが帳簿を見たとき、“この日に荷役がいた”って分かれば、それで嬉しいです」
ライネルは、ゆっくりと頷いた。
「分かりました」
ペンの走る音が、静かな倉庫に響く。
「いつか、誰かがこの帳簿を読むかもしれません。そのとき、“ここで荷を運んだ人たちがいた”と分かるなら、私はそれでいいと思います」
それから、少しだけ言いにくそうに付け足した。
「私も別の場所で、協議の話をするとき、今日あなた方から聞いたことを思い出すでしょう。“勇者の噂”ではなく、“荷札と顔の話”として」
それは、リーベル王国側の人間の言葉にしては、ずいぶん率直なものに聞こえた。
「また会うことはあると思うか?」
俺が尋ねると、ライネルは少し考えてから答えた。
「世の中は、あまり親切ではありませんからね」
どこかで聞いた台詞を、別の調子で言う。
「“二度と会わない”と言い切るほど、都合よくできてはいないでしょう」
「……それ、エルステンも似たようなこと言ってたな」
「そうですか」
ライネルは、ほんの少しだけ笑った。
「では、またどこかで」
そう言って、帳簿を抱えると、砦の中へと戻っていった。
俺たちはしばらく、その背中と、夕方の光に染まる城門を見送っていた。
◇
夜の鉄匙亭は、静かというほどではないが、どこか『終わりかけの祭り』みたいな空気だった。
「使者は明日発つらしいぞ」
「砦の中の話は決まったってさ。細けぇことは知らねぇけどな」
「国境部隊の配置替えがあるとか、ないとか」
酒と一緒に、そんな言葉が流れていく。
「名前、増えましたね」
スープを飲みながら、エルナがぽつりと言った。
「帳簿に、ですけど」
「ああ」
俺はパンをちぎる。
「増えたっつうか、同じ名前がまた書かれただけだろ」
「それでも、“ここに何度も来て荷を運んだ”って分かるわ」
リオナが言う。
「“一回だけ荷を運んだ誰か”じゃなくて、“何日かここにいた誰か”になる」
「名前が残ること自体は、悪くないと思います」
エルナはカップを両手で包んだ。
「教会でも、帳簿に名前を書く人と書かない人がいました。あとで帳簿を見たときに、“この人が支えてくれていたんだ”って分かるのは、良かったです」
「じゃあ、荷役の帳簿も、そういうもんだと思っとくか」
俺は肩をすくめる。
「真っ当に荷を運んだ日が紙に残るなら、それで十分だ」
「そうそう」
リオナが笑う。
「悪いことしてないんだから、紙に名前が残るのは悪い話じゃないわ」
「勇者として書かれるより、よっぽどね」
「それはほんとにそうですね」
エルナも笑った。
上の方で駒を動かしている連中のことは、相変わらずよく分からない。
けど、荷札と顔を覚えておこうとする書記官が、上にも一人くらいはいる。
そう思えるだけで、この数日の荷運びも、少しは報われる気がした。
「……明日も、荷を運ぶか」
飲み干したカップを、テーブルに戻す。
「“雇われ荷役のシゲル”の仕事は、まだ残ってる」
「じゃあ私は、“荷札と顔を覚えるエルナ”でいます」
「私は、“適度にツッコんで、適度に剣を振るうリオナ”でいいわね」
「欲張りな役だな、おい」
そんな他愛もない会話をしながら、俺たちは今日を終えた。
帳簿のどこかに刻まれた名前と、砦の上で揺れる旗。
その両方を、頭の片隅にしまい込んだまま。




