第103話 砦の帳簿と、荷役としての名前
鉄匙亭の朝は、少しずつ落ち着き始めていた。
パンの焼ける匂いに、薄いスープ。
それに、がやがやした声。
全部いつも通りで、話題になるのも“戦”が中心だ。
「国境部隊から兵が少し戻ってきたらしいぞ」
「代わりに別の隊が出てったって話もある」
「鉄工所に軍の役人が来て、親方と何か話してたらしい」
勇者の話も、完全には消えていない。
「結局その裸の勇者ってのは本当にいるのか、いないのか」
「いた方が酒の肴にはなるな」
そんな声に、エルナがちらっとこちらを見た。
「……まだ、少し残ってますね、“勇者”の話」
「まあ、便利な言葉だからな」
俺はパンをかじりながら答える。
「全部あいつのせい、って言っときゃ、余計に考えなくて済むからな」
「それでも、“全部”って言う人は減ってきてる気がするわ」
リオナが、周りの卓を眺める。
「“鉄工所に軍の人が来た”とか、“街道の工事に人手が回る”とか、そういう話も増えてきたもの」
「エルステンさんの机から伝わった話ですね」
エルナの言い方は、ちょっとだけ嬉しそうだった。
そこへ、いつもの男が割り込んでくる。
「机から伝わってきたかどうかはともかくよ」
バルツが、パンを片手に俺たちの卓へ近づいてきた。
「荷の流れが変わってきてるのは確かだ」
「今日の仕事は?」
「午前は砦の中だ」
バルツは椅子の背に肘をおく。
「仮設の補給所に荷を運ぶ。乾物と道具と紙束。国境部隊行きじゃなくて、砦の中で使う類いのもんだ」
「兵士の腹と平和な仕事を支える荷ね」
リオナが笑う。
「言い方として、あってるでしょ」
「そうだ。今日の荷は腹と帳簿むけだからな」
バルツも肩を揺らした。
「砦の中の荷の行き先を見られる。お前らが好きそうな仕事だろ」
「好きってほどでもねぇけどな」
俺はスープを飲み干す。
「補給所なら、書き物をする人もいますよね」
エルナがぽつりと言った。
「昨日の若い書記官みたいな人」
「ああ、あいつか」
リオナが頷く。
「名前、まだ聞いてなかったわね」
「今日は、ちょっとは近くで見えるかもしれねぇな」
そう言って、俺たちは席を立った。
◇
砦の中は、いつもより人の流れがはっきりしていた。
兵士が列をなして歩き、荷車が決まった道を往復している。
怒鳴り声は少なくなり、短い指示だけが飛び交っていた。
「仮設補給所はあっちだ」
バルツが手綱を操り、荷馬車を砦の奥へと進める。
城壁の内側に、布張りの屋根と木の棚で作った簡素なスペースがあった。
樽や木箱が積まれ、兵士と書記らしい男たちが行き来している。
「荷の確認だ。止まれ」
入口で、槍を持った兵が手を上げた。
バルツが馬を止めると、別の兵が近づいてくる。
書類を手に、荷台の上をざっと見回す。
「乾物と道具と紙束、だな。便数は?」
「今日の三便目だ」
バルツが慣れた調子で答える。
「昨日までは前線行きの倉庫に運んでたが、今は“こっちに回せ”って話だっただろ」
「確かに、そう聞いてる」
兵が頷いたとき、後ろから別の声がした。
「その便について、少し詳しく聞いてもいいですか」
振り向くと、帳簿と書類の束を抱えた若い男が立っていた。
昨日、門の前で見た書記官だ。
年は俺と同じか、少し上くらい。
きちっとした服装だが、着慣れた感じで、動きにも無駄がない。
「リーベル王国の書記官見習い、ライネルです」
男は淡々と名乗った。
「補給所の帳簿整理を任されています」
「ハルト商会のバルツだ。荷を持ってきた」
バルツが短く返す。
「で、何を聞きてぇ」
「この荷は、もともとはどこへ送られていたものです?」
ライネルは紙束を片手に、もう片方の手で荷札を指した。
「荷札の貼り替え跡が見えます。国境部隊行きの荷札が剥がされて、“保管”になったのでは?」
「目ざといな」
バルツは少しだけ口の端を上げた。
「国境部隊の倉庫行きだった荷が、ここ数日は“一旦砦に戻せ”って話になってる」
「その“ここ数日”が知りたいんです」
ライネルは、紙の端を指で押さえながら続けた。
「いつから荷札が剥がされて、“保管”になったのか。同じような荷は、他にどれくらいあるのか」
「そういう細けぇ話なら」
バルツは荷台を親指で指す。
「実際に積んでるこいつらの方が詳しい。俺は“持ってけって言われたところに持ってく”だけだからな」
「なるほど」
ライネルがこちらを見る。
「では、少しお聞きしても?」
「雇われ荷役でよけりゃ、知ってる範囲で」
俺は荷台から飛び降り、埃を払いながら答えた。
「ここ数日で、国境部隊行きの荷札を剥がした荷が増えたのは確かだ。“先送り”と“保管”の荷札が、その分増えてる」
「その荷札が増え始めたのは、いつ頃からです?」
「一昨日くらいからだな」
リオナが、隣で口を挟む。
「鉄工所と鉄の街道の話が、酒場に出始めた頃と、だいたい同じタイミングです」
「鉄工所と鉄の街道?」
ライネルが目を細める。
「鉄工所の炉が古すぎるとか、鉄の街道の路面が持たないとか、そのあたりの話です」
エルナが補う。
「兵舎の近くでも、“鉄がないと続けられない”って言葉を聞きました」
「兵士たちが、そんなことを?」
ライネルの視線がエルナに向く。
「ええ。砦の倉庫に荷を戻しているときに、何度か」
エルナは落ち着いた口調で続けた。
「“このまま一旦止まるのか”“配置替えだろう”って話のあとで、“鉄が作れないと続けられない”って」
「……なるほど」
ライネルは短く相づちを打つ。
「札の貼り替えだけじゃなく、話でも“止める理由”が出始めていると」
「止めるってほどじゃねぇかもしれねぇけどな」
俺は肩をすくめた。
「“この道だけ守りたい”とか、“炉を使うのは勘弁してほしい”とか、そういう空気は感じる」
「荷の行先が変わるたびに、兵士の顔も少し変わってました」
エルナが付け足す。
「国境部隊行きの荷札が剥がされるときは、ほっとした顔の人が多かったです」
「逆に、“国境部隊行き”が貼られたときの顔は?」
ライネルが問う。
「……あまり良くはなかったですね」
エルナは少し言葉を選んだ。
「決意している顔もありましたけど、疲れている人が多いです」
「聞けて良かった」
ライネルは軽く息をついた。
「帳簿や荷札には、“品名”や“行先”は書かれていますが、“顔がどうだったか”なんて、余程のことがないと記録されませんから」
「祈りの言葉より、荷主の顔や荷の行先が、“今何が起きてるかか”を教えてくれる気がします」
エルナの口から、ぽろっと本音が漏れた。
自分で言っておいて、少しだけ頬を赤くする。
ライネルが、その言葉に目を細めた。
「面白い言い方ですね」
嫌味ではなく、素直な口調だった。
「確かに、荷札と顔を見ていれば、“今、どこで無理をしているか”は分かるのかもしれません」
「神様が聞いたら、ちょっと拗ねそうですけど」
リオナの冗談に、エルナが慌てて首を振る。
「いえ、祈りは祈りで大事ですけど、その……」
「分かっています」
ライネルは少し笑った。
「祈りと違って、札は誰でも読める、という話でしょう」
そう言うと、手にした帳簿をぱらりと開く。
「仕事の記録を付けます。荷の情報と一緒に、人の名前も残しておきたい」
「名前?」
俺は思わず聞き返した。
「今日この荷を運んだ人間がいた、という記録です」
ライネルは当たり前のように言う。
「どこかの誰かがここで荷を運んでいたでは、あとから見たときに分からない。少なくとも、名を名乗ってもらえれば、“この日この砦にはこういう荷役がいた”と残る」
大した意味もない、と言わんばかりの口調だった。
だが、「リーベル王国側の帳簿に名前が乗る」という言葉が、胸のどこかをざわつかせる。
「……シゲルだ」
少しだけ間を置いて、名乗る。
「雇われ荷役。剣は持ってるが、今は運ぶだけだ」
「リオナ。剣士。今は荷物持ち」
「エルナです。祈り手見習い、今は荷役です」
ライネルは三人の名前を、一人ずつ復唱し、帳簿にさらさらと書き留めていった。
「ありがとうございます」
ペンを止めると、顔を上げる。
「また、何か変化があったら教えてください。荷札でも、顔でも、噂でも構いません」
「噂も帳簿に書くのか?」
「全部は無理ですが、拾えるだけは拾います」
ライネルはそう言うと、短く礼をして補給所の中へ戻っていった。
残されたのは、積み下ろしを待つ荷と、帳簿に刻まれた三人の荷役。
「……なんか、変わった人ね」
リオナがぽつりと言う。
「上の偉そうなのより、よっぽど“仕事を見てる”って感じだった」
「数字の前に、荷札と顔を聞きたがってましたね」
エルナも頷いた。
「紙の上だけで考えてない分、厄介なタイプだな」
俺は荷台に手をかける。
「でもまあ、“勇者”じゃなくて、“荷役としての名前”が紙に残るなら、まだマシか」
「それはそうね」
リオナが笑った。
「“全裸で暴れた勇者シゲル”より、“荷物を運んだシゲル”の方が、だいぶ平和よ」
「余計な想像させる言い方すんな」
そんなやり取りをしながら、俺たちは黙々と荷を降ろした。
◇
夜の鉄匙亭は、少しだけ静かだった。
使者の話はまだ出ているが、どこか「終わりが近い」雰囲気が混ざっている。
「もう何日かで王国の使者は帰るらしい」
「砦の中で話がまとまりかけてるってよ」
そういう言葉が、酒の肴として飛び交っていた。
「今日のあの人、どう思った?」
夕食をつつきながら、リオナが問いかけてくる。
「ライネル?」
「そう。王国の書記官の人」
「どう、って言われてもな」
俺はスープをかき混ぜる。
「上の偉そうな連中よりは、よっぽど“ここで何が起きてるか”を見てる感じだったな」
「数字より前に、荷札の書き換えのタイミングとか、兵士の表情とか聞きたがってました」
エルナの言葉は、いつも通り丁寧だ。
「帳簿に書くより先に、目で見て覚えておきたい、って感じでした」
「紙の上だけで考えてねぇ分、ちょっと厄介だな」
俺は苦笑いと本音を漏らした。
「ただ、嫌いじゃねぇ」
「即答ね」
リオナが少し笑う。
「“荷札と顔を見ていたい人”って意味では、エルステンさんと似てる気もします」
エルナが言った。
「こういう人が、別の陣営にもいるって、ちょっと不思議です」
「まあ、神様だけじゃなく、人間も時々は似たようなこと考えるんだろ」
俺はパンをちぎる。
それから、さっきのことを思い出して口を開いた。
「……名前の話なんだが」
「帳簿に書かれたやつ?」
「ああ」
俺は視線をカップの中に落とす。
「王国側の帳簿に名前を乗せられるのって、正直、いい気分ばっかじゃねぇ。でも、“勇者としてじゃなく、荷役として名前が残る”って思うと、少しだけマシに感じる」
「悪さしてるわけじゃないしね」
リオナが肩をすくめる。
「荷物を運んだ日が紙に残るくらいなら、大したことないわ」
「名前が残ること自体は、悪いことじゃないと思います」
エルナが、カップをそっと置いた。
「誰かがいつか帳簿を見たとき、“ここに荷役がいて、荷を運んでいた”って分かるのは……ちょっと安心します」
「安心?」
「はい」
エルナは言葉を探しながら続ける。
「教会でも、寄付の帳簿に名前を書く人と、書かない人がいました。名前を残すのが嫌な人もいましたけど……」
「いたな、そういうの」
リオナが頷く。
「でも、あとで帳簿を見たときに、“この人が支えてくれていたんだ”って分かるのは、良かったです。名前があると、ただの数字じゃなくて、“誰かのしたこと”になるので」
「なるほどな」
俺は少しだけ笑う。
「荷役の名前が残って困るのは、荷を盗んだ奴くらいか」
「それはそうね」
リオナが笑い、エルナもつられて笑った。
「真っ当に荷を運んだ日が紙に残るなら、まあ悪くねぇ」
言葉にしてみると、胸のざわつきが少しだけ静まった。
上の方で駒を動かしている連中と、荷車の横で札を書き換えている人間は、別の場所にいる。
でも、その両方が、同じ荷を見ている瞬間がある。
俺たちが運んだ荷と、その行き先を見ようとしている書記官が、もう一方の側にいる。
その感覚が、妙に頭に残っていた。
「……まあいい」
飲み干したカップを、テーブルに戻す。
「明日も荷を運んで、“雇われ荷役のシゲル”を続けるだけだ」
「そうそう」
リオナがにやりと笑う。
「あんたがちゃんと荷を運んでくれれば、私はそれで十分」
「私は、荷札と人の顔を覚えておきます」
エルナの言葉に、俺も頷いた。
「じゃあ、俺はそれを忘れねぇようにしておくか」
砦の中では、まだ交渉が続いている。
そこでは、でどんな言葉が飛び交っているのか、俺には分からない。
でも、荷車の横で見た荷札と顔くらいなら、覚えておくことができる。
今のところは、それで十分なんだと思うことにした。




