第102話 荷車の行き先と交渉の行方
鉄匙亭の朝は、昨日と同じ匂いなのに、やっぱり空気が違っていた。
パンと薄いスープ。
木の椅子の軋む音。
そこまではいつも通りだ。
違うのは、話題だ。
「兵士を減らす話が、だいぶ進んでるらしいぞ」
「いや、条件が厳しすぎて揉めてるって聞いたぞ」
「勇者をガルダから戻せって言われたんだとよ」
「ガルダには勇者なんかいねぇって、今も言ってるはずだろ」
誰も本当のことは知らないくせに、噂だけは山ほど転がっている。
その合間に、別の話も混ざっていた。
「鉄工所は、人が増えるかもしれねぇって話だ」
「街道の方にも、修理の人手が回るとかなんとか」
“祟りの勇者”でまとめてしまうには、少しだけ現実的すぎる話だ。
「……なんか、いろいろ混ざってきたな」
思わず漏らすと、向かいのリオナがパンをちぎりながら首を傾げた。
「何が?」
「使者の話と、炉と道の話だよ。兵士を減らすだ勇者を戻すだって言いながら、“鉄が足りないから工場に人を回せ”とか、“道を直さねぇと荷が動かねぇ”とか、急に具体的になってきてんだろ」
「確かに」
リオナは周りの卓をちらっと見る。
「“勇者の祟りだから仕方ない”って言ってた人たちが、“炉が古い”“荷が重すぎる”って言い出してる」
「エルステンさんの机の上から、少しずつ話が伝わってきてる感じですね」
エルナはスープを一口飲んで、静かに言った。
そこへ、聞き慣れた声が飛んでくる。
「伝わってきてるかどうかは知らねぇがよ」
バルツが皿を片手に近づいてきた。
「荷の動きが、ちょっと変わってきてるのは確かだ」
「今日の仕事は?」
「午前は砦近くの兵舎まわりに、乾物と道具を運ぶ。それから、別の倉庫に“戻ってきた荷”を運び替える」
「戻ってきた荷?」
リオナが目を瞬かせる。
「国境部隊行きだった荷が、砦の中で停滞してるってことだ」
バルツは肩をすくめた。
「“兵士行き”って札が貼られた荷もあった。戦を始める前に、物の方が先に動き方を変え始めてる」
「なるほどね」
リオナが小さく笑う。
「戦を始めるにしても止めるにしても、最初に変わるのは“物資の行き先”ってわけ」
「だから“荷役の目”が欲しいって、エルステンは言ってたんだろうな」
俺はパンを口に放り込みながら呟く。
「上の方が何をしゃべってるか知らなくても、荷札を見てりゃ、どっちに傾きかけてるか分かるって話だ」
「そういうこった」
バルツは手を打った。
「飯を終わらせろ。今日も“祟りとは関係ねぇ荷物”が山ほど待ってる」
「「「はいはい」」」
俺たちはスープを飲み干し、椅子から腰を上げた。
◇
午前の荷役がひと区切りついた頃、ハルト商会の使いがやって来た。
「バルツさん、荷役の三人、今空いてますか?」
「さっき積み終わったところだ」
バルツが顎で俺たちを示す。
「こいつらでいいなら、勝手に連れてけ」
「では、三人とも。エルステンさんがお呼びです」
そう言われれば、断る理由はない。
俺たちは荷台から飛び降り、商会へ向かった。
商会に入り階段を下りると、いつもの地図と紙の匂いが迎えてくれる。
机の向こうで、エルステンがペンを置いた。
「来たか。座れ」
「砦の中の話、少しは分かってきたのか?」
「ほんの少しだけな」
エルステンは紙の束を軽く叩く。
「交渉はまだ途中だが、一つ案が出ている」
「案?」
「いくつかの部隊で、“補給路の安全確保”を名目に、兵士を減らすという案だ」
エルステンは地図を指でなぞる。
「全ての戦の備えを止めるんじゃない。だが、“この道と、この橋と、この倉庫だけは、しばらく手を出さない”という線を引こうとしている」
「その代わりに、ガルダは鉄と物資を安定して出せ、ってことですね」
エルナが続ける。
「そうだ」
エルステンはため息を一つ。
「鉄工所と鉄の街道の話が、そこで効いてくる。“炉を直さないと、この線は維持できない”“道を整備しないと荷が届かない”と、数字の上でようやく認められ始めている」
「戦を始める話から、“鉄と道をどうするか”って話に少しだけずれてきてるってことか」
リオナが地図を覗き込む。
「“戦う”から、“直す”に変わるのは、けっこう大きいわね」
「問題は、そこで“勇者”がどう扱われているかだ」
エルステンが別の紙を広げた。
「王国側の中には、“勇者を前線に立てればガルダは負ける”と言いたい連中がいる。同時に、“勇者が暴れれば戦が長引くから、戦場には出すな”と言っている連中もいる」
「どっちも勝手なこと言ってんじゃねぇか」
「ガルダ側は?」
リオナが尋ねる。
「“勇者などいない”と言い張りつつも、“もし本当にいるなら盤上に出されたくない”というのが本音だろう」
エルステンは肩をすくめる。
「結果としてだ」
「結果として?」
「“しばらく勇者を盤の外に置いておく”ことに、双方が暗黙の了解としようとしてる」
少しだけ、静かな間が開いた。
「……つまり」
俺は頭をかいた。
「やってもねぇのに駒扱いされて、今度は“使わない駒”として合意されかけてるってことかよ」
「そういう言い方もできるな」
エルステンの口元に、ほんの少しだけ笑みが浮かぶ。
「だが、それはお前にとって悪い話ばかりではない。今、“裸の勇者”の噂で戦を煽る流れにブレーキがかかりつつある。お前が静かに荷車を押している時間も、盤外のカードとして効いている」
「何にせよ裸にはなってねぇからな」
苦い笑いが出た。
「それで話が少しでもマシな方向に転がるなら、安いもんかもしれねぇ」
「それからもう一つ」
エルステンは別の紙を取り上げた。
「昨日、お前たちが見た若い書記官がいただろう」
「ああ、あの人ですね」
エルナが身を乗り出す。
「砦や店や人をよく見ていた方」
「あいつの名前はライネルだ」
初めて聞く名前だった。
「王国側の文官見習いだが、数字だけじゃなく現場を見る目があると聞いている。“この街がどう動いているか”に興味があるらしい」
「……こっち側に来たら、エルステンと気が合いそう」
リオナがぼそっと言う。
「どうだろうな」
エルステンは笑いもせず、淡々と続けた。
「どちらにせよ、“街の動きで物を考える人間”は覚えておいて損はない。敵か味方かを決めるのは後でいい」
「俺たちが会うことはありそうか?」
「あるともないとも言い切るほど、世の中は簡単じゃあないさ」
珍しく、エルステンの口調に少しだけバルツに似た響きが混ざる。
「だからこそ、お前たちにはしばらく――」
「“荷の行き先と、兵士の口の動きを見ておけ”だろ?」
俺が先回りすると、エルステンはわずかに眉を上げた。
「話が早くて助かる」
「言ってることは、いつもそんなに難しくねぇからな」
「なら、頼んだ」
エルステンはそれ以上多くを語らず、再び紙の束に視線を落とした。
俺たちは半地下を出て、砦まわりの午後の仕事へ向かった。
◇
砦の近くは、昨日よりさらに慌ただしかった。
前線行きの荷を積んだはずの倉庫から、札を貼り替えた荷車が出てくる。
「先送り」と書かれた札。
「保管」と書き直された札。
「これ、さっきまで“国境部隊行き”って書いてなかった?」
リオナが、積み込みを手伝いながら眉をひそめる。
「書いてたな」
俺は荷札を見ながら答えた。
「剥がして“保管”になってる。どっか別の部隊に回すのか、それとも“様子見”か」
「兵舎の方にも荷が戻ってきてるみたいです」
エルナが指さす方では、別の荷車が兵舎近くの倉庫に箱を運び込んでいた。
その横で、兵士たちが小声で話している。
「このまま一旦止まるのか?」
「さぁな。配置替えだって話もある」
「鉄が作れるようにならねぇと、どっちにしろ続けられねぇって話を聞いたぞ」
鉄工所と鉄の街道の話が、兵士の口にも少しずつ混ざってきている。
「戦の話が、“敵が何人だ”から、“鉄が何本だ”に変わってきてる気がするわね」
リオナがぽつりと言う。
「祈りの言葉より、搬入口の札の方が、“今どっちに傾きかけているか”教えてくれますね」
エルナの言葉は、妙に実感がこもっていた。
「神様が聞いたら、ちょっと拗ねそうだな」
俺は荷箱を担ぎながら、冗談みたいに言った。
「でも、今はこっちの方が分かりやすい」
そう思うのも本音だった。
夕方までに荷の運び替えを終えると、砦の中も外も、少しだけ息をついたように見えた。
走り回っていた兵士の足が少しゆっくりになり、怒鳴り声よりも普通の会話が増える。
明日どうなるかは分からないが、「今すぐ戦はしない」という空気だけは伝わってきた。
◇
夜の鉄匙亭は、朝より少しだけ静かだった。
使者の話はまだ続いているが、朝のような熱はない。
代わりに「部隊の動きが鈍っている」「兵の入れ替えがありそうだ」といった現実的な噂が増えていた。
「今日も疲れたわね」
リオナが椅子にどさっと座る。
「荷札を見てるだけで頭がこんがらがりそうでした」
エルナもスープを前に、ほっと息をつく。
「まあ、荷物の相手してる分には、矢は飛んでこねぇからな」
俺はパンをかじりながら、昼間の光景を思い出した。
「上の話はまだ分かんねぇけどよ。荷と人の動きは、確かに“止まる方向”と“続ける方向”の間で揺れてる」
「鉄工所に人が増えるかもって話と、兵士行きの荷が“保管”になってる話。どっちも、“ひと息つきたい”って気持ちが見えるわね」
リオナが指で卓をとん、と叩く。
「明日にはまた“やっぱり続ける”ってなるかもしれないけど」
「それでも、揺れてるってこと自体は本当ですね」
エルナが頷く。
「戦を続けたい人と、止めたい人と、“とりあえずここだけ守りたい人”と。いろんな気持ちが、荷の行き先に出ている気がします」
「……そうだな」
俺は視線を卓から上げる。
「どっちに転んでも、俺たちはその揺れ方を見ておくしかねぇ」
上の方で、どんな言葉が飛び交っていようが。
王国の使者がどんな顔をしようが。
俺の手が届くところにあるのは、今日運んだ荷と、すれ違った荷だけだ。
「それをちゃんと覚えておくのが、今の俺の仕事なんだろうな」
「ん、いいこと言った」
リオナがにやりと笑う。
「明日もちゃんと荷を運んで、“雇われ荷役のシゲル”を続けなさい」
「分かってるって」
エルナも、少しだけ楽しそうに笑った。
「じゃあ私は、“荷札の文字と人の顔を覚える係”をします」
「それ、多分一番重要な係だぞ」
そんな他愛もない会話を交わしながら、俺たちは今日を終えた。
砦の中で続いている交渉の影を、荷車の軋む音越しに感じるくらいの距離を保ったままで。




