第101話 城門の旗と、影から見る王国の使者
鉄匙亭の朝は、いつもより少しだけ落ち着きがなかった。
パンとスープの匂いは変わらない。
違うのは、客の視線がときどき一斉に同じ方向――砦の方角に向くことだ。
「今日だろ、王国の使者が来るの」
「十人だか二十人だかって聞いたぞ」
「停戦の話か? それとも、“もっと鉄をよこせ”って脅しに来るのかね」
まだ勇者の“ゆ”の字も出ないが、噂は「使者」が主役になっていく。
「勇者を引き渡せって話じゃねぇかって言ってた奴もいたぞ」
「じゃあ誰を差し出すんだよ。噂の勇者は、誰も顔すら知らねぇのに」
笑い混じりの声の奥に、少しだけ本気の不安が混ざっていた。
「なんか、そわそわしてるわね、みんな」
向かいでスープを飲んでいたリオナが、ぽつりと言う。
「服も、いつもよりきちんとしてる人が多い気がします」
エルナが周囲を見回す。
確かに、髪を整えていたり、上着の埃を丁寧にはらっていたりする客が目についた。
「上の偉い連中が動く日は、下の連中も“とりあえず身なりだけでも整える”ってなるんだろ」
「妙に分かったような言い方しないでよ」
そこへ、横から言葉がかかる。
「勇者様、朝飯は終わったか」
「だからその呼び方やめろって」
バルツが、パンの欠片をつまみつつ俺たちの卓を覗き込む。
「今日はな、砦に近い倉庫に荷を運ぶ。時間は、使者が門をくぐる前に終わるようにしてある」
「わざわざ合わせたのか?」
「仕事のついでに様子くらいは見とくべきだろ」
バルツは肩をすくめる。
「ただし、門の真正面には突っ立つな。横から“ああ、なんかやってるな”くらいに眺める。それくらいがちょうどいい」
「俺としては、わざわざ見に行かねぇ方が楽なんじゃねぇかって気もするけどな」
「ダメ」
リオナが即座に切り捨てた。
「“使者を見た”って話を、あとでエルステンに伝えるんでしょ」
「見なかったことは話せませんから」
エルナの言葉は正論だ。
「……はいはい。じゃあ、横から“なんかやってるな”って顔だけしに行くか」
「そう。それでいいの」
リオナが笑い、エルナも小さく頷いた。
俺たちはパンを平らげ、鉄匙亭を出て砦の方へ向かった。
◇
砦に近づくにつれ、空気が少しずつ変わっていくのが分かる。
いつもより鎧姿が多い。
兵士が増え、自警団の連中まで、いつもよりきちんと武装している。
「なんか、背筋が冷たくなる光景ですね」
エルナが小声で言う。
「分かる。あれを見て、関係ないって顔をするのは難しいのよね」
リオナが苦笑する。
道の脇では、露店が半分くらい店じまいをしていた。
客が少ないからか、余計な揉め事を避けたいからか。
どっちにしろ、みんな門の方へちらちら視線を送っている。
「おい、仕事を忘れんなよ」
バルツの声が荷馬車の御者台から飛んでくる。
「先に倉庫だ。様子を見るのは荷を降ろしてからだ」
「了解」
砦の近くの倉庫に着き、荷を降ろす。
鉄の棒、布袋、木箱。
数は多いが、中身はいつもの仕事と変わらない。
「よし、終わりだ」
最後の箱を降ろしたところで、バルツが手綱を引いた。
「荷馬車はあそこの横道に入れる。騒ぎの近くには行かねぇが、使者の姿くらいは見える場所だ」
言われた通りに荷台の端に腰を下ろすと、門前の広場が少し斜めから見えた。
人が多い。
兵士、自警団、商人、野次馬。
それぞれ距離感を測りながら、門の方を見ている。
「……始まりそうね」
リオナが、小さく呟いた。
城門の上で旗が、振られた。
門がゆっくり開くと、その向こうから一行が姿を現す。
門の中から一行の旗が見えた。
白地に金の紋章。
王国の旗だ。
前を歩くのは、槍を持った騎士たち。
鎧は派手すぎず、実用一点張りというほどでもない、中途半端な装備だ。
「数は多くないな」
俺が言うと、バルツが頷いた。
「本気で脅しに来るなら、もっと分かりやすく兵を並べる。今日は“話をしに来ましたよ”って姿だ」
騎士の後ろに、文官風の男が歩いている。
四十代くらいで、痩せ気味。
目つきは鋭いが、剣よりペンを振り回してきたって感じだ。
その少し後ろには、若い男が一人。
年は俺と同じか、少し上くらい。
服装は控えめだが、書類を抱えて足元ばかり見ているわけでもない。
「あの人」
エルナが、若い男を見て小さく言った。
「誰だ?」
「分かりません。でも……あの人だけは、周りをよく見てます」
確かに、若い男は門の上も、広場の端も、店の並びも、ちらちらと視線を動かし確認している。
兵士の顔や、荷車の荷まで見ているようだ。
「戦より、街の持つ力を見てる目だな」
リオナがぽつりと言う。
ガルダ側からは、軍の高官らしい男と、商会の服を着た男が一歩前に出た。
言葉はここまで届かない。
ただ、旗の前で、少し距離を取って向かい合っているのが見える。
風に乗って、ときどき単語だけが聞こえてきた。
「……鉱物……」
「……食料……」
「……境界線……」
「……勇者……」
最後の一つで、背中が少しだけ強張る。
「やっぱり、“勇者”って単語は出るのね」
リオナが呟く。
「そりゃ、便利な駒だからな」
バルツが、口の端だけで笑う。
「“勇者がいるから本気で攻められるぞ”って脅すのにも、“勇者が暴れたらどっちも損だ”って止めるのにも使える」
「どっちにしろ、当の本人抜きで話が進んでるのは変わんねぇんだよな」
俺は深く息を吐いた。
やってもないことを、また勝手に話の材料にされている気がする。
「……今ここで言ったら、余計こじれるわよ」
リオナが、先回りするように言った。
「“勇者本人が口を出しに来た”ってことにされるだけだもの」
「分かってる」
分かってるから、余計に腹が立つ。
「でも、あの……若い人」
エルナが視線を門の方に向けたまま続ける。
「あの人だけは、勇者のことより“ここの現状”を見てるように見えます」
「使者の書記官か何かだろうな」
バルツが言う。
「文字を書く前に、風景を見るタイプかもしれねぇ」
門前のやり取りは続いている。
表情だけを見ると、言い合いというよりは、条件のすり合わせという感じだ。
やがて、一行は砦の奥へと案内されていった。
門が再び閉じられると、広場の緊張が少しずつほどけていく。
「終わった?」
「第一幕は、だな」
バルツが御者台に戻る。
「上の連中の話は、砦の中で続く。俺たちの仕事は、ここから先も荷物を動かすことだ」
「了解」
俺たちは荷台に乗り込み、坂道を降りていった。
城門の上の旗を背中に、門の下を通る荷車の列を横目で見ながら。
◇
夜の鉄匙亭は、朝よりずっと騒がしかった。
「使者を見たか?」
「見た見た。王国の使者は、思ったより迫力がなかったな」
「停戦の話だってよ」
「いや、もっと鉄をよこせって話だって聞いたぞ」
誰も砦の中で何が話されたか知らないはずなのに、噂だけは山ほど転がっている。
「どっちにしろ、“勇者をどうするか”って話もしてるに決まってる」
そんな声が聞こえるたび、耳の奥がむず痒くなる。
「……うるさい」
思わず呟くと、向かいのリオナが眉を上げた。
「音量の問題?」
「話の中身だよ」
俺はスープをかき混ぜる。
「上の連中がどう話してるかは分かんねぇけど、“勇者”って言葉はやっぱ便利に使われてたんだろなって思うだけで腹が立つ」
「“勇者がいるから攻められるぞ”と、“勇者が暴れたら困るからやめよう”の両方にね」
リオナが肩をすくめる。
「どっちに使われても、当の本人はここでスープを飲んでるんだがな」
「どっちにしろ、“当の本人抜きで話を進めてます”って顔でした」
エルナは、昼間の光景を思い出しているようだった。
「協議をしていた人たちは、誰も周りを見てなかったです。兵士と、高官と、商会の人と、相手の顔しか見ていない感じでした」
「あの若い書記官っぽい奴は?」
「あの人だけは、周りをずっと見てました」
エルナは少しだけ表情を和らげる。
「砦の壁とか、店とか、人の流れとか。紙に書く前に、“街の持つ力”を考える人かもしれません」
「だとしたら、ちょっとマシだな」
俺はパンをちぎる。
「“勇者の祟り”じゃなく、“人と物の動き”を考えてくれる奴が増えるなら」
「上の話がどう転んでも、明日も荷物は動くからな」
隣の席で芋を食べていたバルツが、ぼそっと口を挟んだ。
「戦の備えが続いても、止まっても、鉄が増えても減っても、荷はどっかからどっかへ動く。お前らは“その荷がどこへ動いてるか”だけは見ておけ」
「見てるだけでいいのか?」
「今はな」
バルツは芋を飲み込み、立ち上がる。
「上の話をひっくり返す力なんかねぇんだから、下で見えるもんをちゃんと見とけ。それで十分だ」
「……偉そうなこと言って、結局こっちと同じ雇われじゃない」
「雇われ歴が長ぇだけだ」
バルツは笑いながら、カウンターの方へ歩いていった。
「でも」
エルナが、手の中のカップを見つめながら言う。
「“ただ見てるだけ”っていうのは、何もしないこととは違うと思います」
「どういう意味だ?」
「何も考えずに見ないでいるのと、見て覚えておくのは、違うってことです」
エルナは、小さく息を吸う。
「後で“あの時こうだった”って話せるように見ておくのは、祈りとちょっと似てます。すぐには何も変えられなくても、後から効いてくることがあります」
「……なるほどな」
俺はカップから一口飲んで、天井を見上げた。
城門の前でおこなわれた協議の話で、この店は当分持ちきりになるだろう。
でも実際に動いているのは、城門の下を通る荷車と、人の足だ。
協議をしている連中は、“勇者”という言葉を駒にして動かしている。
荷車を押している俺たちは、“その駒の影で動いている人と荷”を見ている。
「今は、それでいいのかもしれねぇな」
一言こぼれる。
「何を見てたかで、あとで話せることが変わる」
「そうそう。だからあんたは、明日もちゃんと荷車を見てなさい」
リオナが、わざとらしく偉そうな口調で言った。
「勇者じゃなくて、“雇われ荷役のシゲル”として」
「はいはい」
俺は苦笑して、パンの最後の欠片を口に放り込む。
城門の上の旗より、門の下を通り抜けていく荷車の方が気になる。
そんな立ち位置のまま、俺たちはもう少しだけここにいることにした。




