エレファント・トーク
──自分に合ったバンドがなかった──
──だから、自分で作ることにした──
「スパイダーマン:アクロス・ザ・スパイダーバース」
昼休みにも関わらず、教室では各々が教科書や参考書、学術書や哲学書、そして聖書に目を通している。
そんなものを読むよりまずは飯を食えと思う。
何より年頃の娘なのだから。私は過度のドーコン(ドーター・コンプレックス)である父親が拵えた弁当を早食いで平らげてから、物憂げに窓の向こう側を眺めていた。頬杖でも付きながら。自分は何故、あれだけ勉学に心血を注いでこの学校にきたのだろうか。元々の動機はもう、忘れてしまった。親の期待に答えたかったからか、自分の為だったのからか……
「で、整理するんでしょ? 状況の整理! やっぱ女はね! 月に最低一回は『整理』しないとね! ぎゃはははは!」
私はこの頭のいかれた女に引っ張られゆく。
何処へ向かうかは分からない。
****
屋上。
武井ルカの三白眼がこちらを見つめている。猫みたいだった。自分と同じぐらいの華奢な体躯と顔の輪郭。いや、少しだけ私の方が背が高いか。そしてミドルの赤い髪がよく似合う。
私は目を反らしてしまう。伸びっぱなしの髪。恐らく枝毛だってあるだろう。昔、「そのピンクの髪は、お前の精神世界のエントロピーが反転したものだ」と言われたことがあった。要は、内面と不釣り合いだと言いたかったのだろう。「根暗ほど髪色を明るくしたがる」ということだ。そいつはクラスを牛耳っていたボスだった。それ以降私は、なるべく周りと波風を立てずに生きてゆく決心をした。
高校生になったら、何か変われるような気がしていた。でもこの世界は、本当に訳が分からないことだらけだった。
「……何?」
目の前で武井ルカが微笑んでいる。私はなるべく自分だけの言葉で、他者と話がしたいと思った。こうやって脳内で一人、思弁を垂れ流し続けるのには、もう飽きた。
「いや……なんかもう本当に、色々なことが起こり過ぎたんですけど、なんかもう、いいかなって……」
しかしつい、消極的になってしまった。
「ああ、それはいわゆる『召喚酔い』だよ。君!」
「『召喚酔い』?」
「うん。他の宇宙への移動になれてない人はそうなるの。『ドニー・ダーコ』のラストみたいに。それか『マジック・ザ・ギャザリング』はやったことある?」
「……そうなんですか」
「……てかごめん、これネタバレだね。ごめん」
「……観たことあるから大丈夫です」
「……そう人間! 一体何が何だか分からない状況になったって、とにかく考えることを辞めたら駄目! 『考える葦』であることも放棄して、人間を辞めてしまってはね! 君!」
「いや、なんかいいかなってのはその……自分なりに色々と考えた結果、まあ合点はいきますよ、ということで……つまりその、そのイヤホンみたいな機械で、武井さんは……本当に宇宙から宇宙へ跳躍しているんだっていう」
「そう! 今のアメコミ映画や、昔のSFでいうところのワイドスクリーン・バロックみたいだよね!」
「……で、まあここは、私が元々いた世界とはほんの僅かな微差で違うわけですけど、それはその……自分で確かめないと不安というか……何か、元いた世界と他に何か変わってないか……例えば親のこととか……」
「親?」
「はい」
「ああ、親か」
「親です」
「何? 今日家に帰ったら、親がでっかい猫ちゃんになってたりとか?」
「はい、まあ、極論、そうです」
「うむ」
「そういう……猫が人間みたいに喋って普通に社会生活を営む世界になってる可能性だってあるわけで、今、この宇宙は」
「ああ」
「まあ、そういうことで……」
「まあ、大丈夫じゃね?」
「……大丈夫?」
「うん」
「なんでですか? 根拠は?」
「だって、別に私そんなの望んでないし」
「望んでない……」
「うん。そもそも君の親のことなんか知らなかったし。そもそも認知してない親のことを、でっかい猫ちゃんに変わってたらなあとか思わないじゃん」
「……まあ、そうですけど」
「うん」
「……ていうか! そもそも! どうやって他の世界にジャンプするんですか? その方法は?」
「ん? えっと……このUNIミニを作動させながら、こんな宇宙に跳躍したいなって、強く念じるの」
「……それだけ?」
「それだけ」
「……どういう原理なんですか? 光速移動でタキオンが前後左右に流れるとか? にしては熱暴走してる様子もないし」
「……うーん、それはねー。ちょっと一から説明すんのはダルいかな。ここではね、ごめん!」
「そうですか……本当に神様みたいですね」
「うん。だから言ったじゃん」
「……それはもう本当に、自分の思いのままに世界を書き換えるのと同じ……」
「……うん。『宇宙跳躍』って読んでるの。『身体の移動』でなく『意識の跳躍』。あたしは何処までも、遠くまで飛ぶのよ。全部、思いのままに。『見るまえに跳べ』。大江健三郎は読んだことある?」
「……ないです……多元宇宙って、無限にあるんですもんね……それは何度も繰り返すうちに、無意識のうちに因果が連なって収束出来なくなっていったり、不可避の出来事が原因になったりして、現在や未来に何かしらの支障をきたしたりはしないんですか? 何らかの形でこの世の理というか、均衡を書き換えるような……そう不可避の交差、『特異点』を生み出してしまったり……」
「今のところはないよ。てかそれ、過去への時間遡行の話でしょ。あたしは普通に、過去から未来へ順繰りに時間をなぞっていきてるだけだし。何の因果も、そういうややこしいバグも生まれないよ。だから過去へは絶対戻らないことにしてる。てか試したことあるけど、無理だった。ただただ未来へ進んでるだけ。私はいつだって前しか向いてないから!」
「……そうですか」
「うん。だからさ、何年か前の『ドクター・ストレンジ』でもさ、家族を失った魔女が復讐に駆られるような話なんだけどさ、あれってさ、全て自分に都合のいい条件の揃った別の宇宙に移ればいいだけなんだよね。つまり、家族は健在で、自分だけが事故や病気で亡くなってる世界。そこへ自分が行けばまさにWIN-WINじゃん! それで失われたパズルのピースが然るべきところにハマって、一件落着なのに」
「はい、まあ……」
「まあ私のはあれと違って意識の跳躍だから、もっと簡単なんだけど」
「……『全てについて疑うべし』」
「ああ、カール・マルクス?」
「はい。自分を取り巻くこの世界の全ては偽物じゃないのか? という方法的懐疑の中で、この思考を続けている自分自身の存在だけは、何者にも否定出来ないという」
「『我思う、故に我あり』」
「……はい。私も武井さんも、紛れもない本物だと」
武井ルカはまたも満面の笑みを浮かべた。太陽のように明るい表情。
「そうだよ! どんだけ宇宙を旅したって、今ここにいる私達の存在は『本物』なんだから! それに今、この世界は遅刻しても前科がついたりしない。前の世界より全然いいでしょ?」
そのあまりの実直さ。子供と変わらない純朴な危うさ。
私は眉に唾をすると同時に、何故だか少し惹かれてしまう。
嗚呼、ひとつ、聞き逃していた。
本能に従うのがUNIミニの作動条件……私のことを……確かに一目惚れしたと……
「議論はそこまでだ!」
振り抱えると、大柄な女性が屋上入り口の階段の前に立っていた。赤色の勲章を付けていたので三年生だった。黒いロングヘアーの中で切れ長の目が義憤に燃えていた。
女性は私たちに向かって叫んだ。
「新入生! これで分かったでしょう! 武井ルカ……この女の倫理観は『終わり切っている』!」