アクア・ブギ
──小心は人々を不決断にし、その結果、行為の機会と最大の好機を失わせる──
トマス・ホッブズ
武井ルカは少し照れた様子で私の喉元を指先で撫でた。私はびくついて危うく巨人の肩から落下しそうになった。この女は何故この状況で、女同士仲睦まじく出来ると思っているのか。前髪をかき分けながら私に顔を近付ける。
「ふふふ……『魔法の言葉』、まだ覚えてる? これ言ったら思い出す? あたしのこの声で……『There's no place like home』」
『魔法の言葉』……何か懐かしい感触、脳内に人知れず点在していた既視感の萌芽がそれぞれ刺激されたような……識閾下にある何か、集合的無意識が呼び起こされたかのような気がする。仮に過去にそんなものを武井ルカと共有していた自分が他の宇宙にいたとして、もしも今、この宇宙にいる自分がその魔法の言葉を思い出してしまったら、もしかしたら全ての失われた記憶は呼び起こされるのかもしれないと思えてきた……「失われたパズルのピースが元に戻る」とは、まさかこういうことだったのだろうか? 私が別次元の私と繋がることこそが……
武井ルカは、確かにパスワードを打ち込んだのだった。
これから「必殺技」を放つために。
巨人タコはあらゆる建物、家屋、公道、工業商業施設を破壊しながらこちらへ突進してくる。無数の触手が左右で一束となり、まるで双頭の龍のように私たちに向けて狙いを定めている。あれを喰らえば流石に次はないだろう。私たちは地面へと叩き付けられ、身体はその衝撃で砕け散る。結局のところ人間は、肉の塊でしかない。魂の話などは知らない。
私はこの怪獣と、破壊されてゆく自分の生まれ育った町と、隣にいる武井ルカという混沌の魔女という三景をぼうっと見つめていた。私はこの緊迫した状況下で、時間が圧縮されたかのような感覚に陥った。やがて景色は逆回転し始めて、いつもの色彩の爆発が起こり、心身が虚空に投げ出された。その浮遊感はいつも通り一瞬の出来事で、目の内側がシェイクされた。私は思わず蹲って、目頭を強く押さえた。息が出来ない。武井ルカは私の肩を優しく抱いた。
「……大丈夫?」
私はゆっくりと深呼吸を取り戻した。目から涙が溢れてきた。
「……『ジョージ・クリントン』……『パーラメント』……『アクア・ブギ』とか、『パム・グリア』……渋い趣味してるんだねって、意気投合してた……確か中学時代に」
武井ルカは巨人タコの突進をサイドステップで交わした。私の耳にはもう何の音も聞こえない。代わりに武井ルカの手をぎゅっと握った。
きっと何度も、何周も、彼女はこれを繰り返しているのかもしれない。少しずつ未来へと進み続ける世界に沿って。自分は何度でも若返りながら、私との出会いを繰り返している。大元を辿っていけば、きっと本当の意味での全ての「歪み」の特異点は私だったのだろう。
私たちが本当に始めて出会ったのはいつだったのだろう? だが今ではそんなことはもう、どうでもよかった。
彼女が跳び続けるのは、私が何かで引き起こした全宇宙の「歪み」を修整するため。若返っては、私と出会い直して、こうして「歪み」を叩く。この場合では、怪獣をやっつける。でもそれは終わりがない。きりがない。私を連れて跳んだり、パターンを何度変えてみても。武井ルカはまだ、この事実を知らない。いや、私を元の宇宙から動かすこと自体に反対していただけかもしれない。とにかく全ては、私という「特異点」、「不可避の交差」を中心に動いている。武井ルカと、藤田ユキ。藤田ユキと始めて出会ったのはいつなのだろう?
いや、考えたって無駄だ。
恐らく、そんな深謀遠慮は何の意味も成さないのだろう。
宇宙はいつだって解読不能で、大きすぎるから。
多元宇宙のことなんて誰にも分からない。
「さあ、いくよ! チーちゃん!」
武井ルカがそう叫ぶと、光の巨人は両腕をバツ印にクロスさせた。
「うん、『ルカちゃん!』」
私は彼女と一緒に、腹の底から光の巨人の力を呼び覚ます魔法の言葉を叫んだ。
「サイコ! アルファ! ディスコ! ベータ! バイオ! アクア! ドゥループ!」
すると巨人は、両腕から凄まじい勢いで放水を開始した。
それは重力に逆らって放たれる滝だった。
巨人の全身は震え、私たちは肩にしがみつく。
私たちは魔法の言葉を叫び続けた。
「サイコ! アルファ! ディスコ! ベータ! バイオ! アクア! ドゥループ!」
憎っくきタコの怪獣は真横に飛ぶ水の本流を胴体部分へと真正面から受け止め、明らかに苦悶の表情を浮かべていた。
「サイコ! アルファ! ディスコ! ベータ! バイオ! アクア! ドゥループ!」
目と思われる切れ目から覗く漆黒が左右へ激しく揺れる。頭の部分から泡のような白いカスを吹き出している。
「サイコ! アルファ! ディスコ! ベータ! バイオ! アクア! ドゥループ!」
嗚呼、こんなグロテスクな光景を一体どんな気持ちで眺めていればいいのだろうか?
「『サー・ノーズ・オクトパス』の弱点はずばり水! 宇宙1552の渇ききった大地を潤すは我らが光の巨人! 相手が悪かったようだね! ははははは!」
やがて巨人は両腕からの放水を中断し、タコは静かに公園と住宅街のクロスする区画に横になった。私はほっと胸を撫で下ろした。
後は武井ルカと他の宇宙へ跳んで、とっととここからおさらばしてしまおう。
いや、しかしそれは、この宇宙の全存在を消し去るの同義なのではないか?
ならそもそも何でここまで苦労してこんな、珍妙なフォルムの怪獣と戦ってきたんだ?
もう、頭がおかしくなりそうだった。何が何だか分からない。私の頭はきっと、どうかしている。そういやさっきから、藤田ユキはどこにいった?
「……あれ?」
武井ルカが呟いた。タコは再び動き始めていた。しかも少し形状が変わっている……四足歩行だ……それまであった無数の触手は屈強で筋肉質な銀色の四肢となり、私たちに向かってきた、全速力で、やばい……速い……私は武井ルカを見やる。
唖然としたままだ。
終わった……まあ、ここで私が死んだとて、他の宇宙の私は元気に楽しく暮らしているんだろう、多分、お父さん……最後にまた、お弁当が……
「あんたたち、今日は居残りよ。全く世話が焼ける」
目の前で一人の女性が舞っていた。
女性はどこか見覚えのある容姿で、スーツ姿だった。片手には負傷した藤田ユキを抱えている。女性は一瞬だけ振り向いた。眼鏡を掛けたそいつは……大原ミケだった。
「『歪み』の処理には金がかかんのよ。宇宙を1から再構築して、人々の記憶も消さないといけないし、取り敢えずこれ終わったら説教! 説教よ!」
そういうと大原ミケは……中空で両手から一筋の熱波光線を放ち……私はその余りの眩さに目を細めた……変容したその怪獣を一瞬で焼き尽くしたのだった……