ビッチ、ドント・キル・マイ・ヴァイブ
それは間違いから始まった。
いや、そもそも間違いとは何なのか。
何かしらの正解を把握した上での間違いであるならば、私には到底知り得ない。
一体何が、全ての間違いから一番離れた場所にある、正しい行いなのか。そんなものは神のみぞ知る御業だ。
ただ、明らかにあれは間違っていた。今ではそうはっきりと言い切れる。
都立X高等学校であの女……武井ルカと出会ったことは……
──私は自らを哀れむ野生の生き物を見たことがない──
──小鳥は凍え死に枝から落ちようとも、決して自分自身を哀れとは思わない──
D.H.ロレンスの遺した詩、「自己憐憫」からの金言である。
初春の朝、私はおろしたてのブレザーに袖を通しながら、部屋で一人、この一節を思い出していた。
国内最高峰の頭脳が集う女子校、X高等学校指定の緑色の校章が左胸に光る。スカートは膝丈で安定させる。長すぎず短すぎず。これがこの世の均衡である。
鏡に映った自分の姿を見て、ありとあらゆる自己憐憫とは程遠い、自信に満ち溢れた自身の姿を認めた。
ピンクに染めた腰までのロングヘアーと、大きく突き出た両胸に、均整の取れた、まだ程よいあどけなさの残る生命力に満ち溢れた表情。それでいて頭脳明晰。
それが私、百々チアキだった。
そこには、何の間違いもないように思えた。
「チーちゃん! そろそろ行かないと遅刻するぞ? 準備ちゃんとしたか? 弁当は? やっぱり最近、ビタミンCの欠落が肌に現れてないか? ってことでレモン等をふんだんに入れてみ……え? 学食行くのか? 駄目だあんなもん! 太るぞ? どうせカツパンや焼きそばパンだろ? 年頃の娘が値段の安さにつられて炭水化物の暴力に晒される姿なんか見てられるか! あんなもんは貧乏人の食いもんだ! ここはひとつ昼時には、全ての栄養バランスを考慮して創り出された、父さんのスペシャル弁当を喰らうのだ! 今日から娘をX高に送り出すのは俺だ! ゴート社の窓際でおよそ20年ほど努めてきた俺だ! 俺なのだ! チアキ! お前への教育には稼ぎの殆どをブチ込んできた! 今日はまさに! 門出の日なのだ! うおおおお! 百々チアキ! 今こそここ全世界に! その全知全能かつ偉大なる頭脳を知らしめる時がきたのだ!」
「……分かった。分かったから早く……渡して」
「はいよチーちゃん!」
「あと……昨日までスマホや鞄、靴下の中に仕込んでたGPSチップは……全て破棄したから……」
「な、なんでだ? チーちゃん!」
「私……今日から義務教育を終えた、立派な高校生だから……じゃあ行ってきます」
このような父親の元で男手ひとつ、今まで育てられてきたというのは確実に何かしらの間違いを感じるのだが、ともかく私はその父お手性のスペシャル弁当を無表情で受け取り、長すぎず短すぎずのスカートを可憐に翻して玄関のドアを開けたのだった。
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X区で、富士見町だった。
富士を見るという地名は、現在日本で一番多い地名だ。富士山の「富士」はアイヌ語で火の山を指す「ふんち」や「ぷし」、朝鮮語で火を意味する「ぷっと」や「ぷる」、マレー語の素晴らしいを指す「ぷし」、古代日本語で斜面や垂れ下がりを指す「ふじ」、おわんを伏せる「ふせ」などを由来としている説が根強い。
さっき、ググって知ったことだ。
そんな富士見町の何の変哲もない公道で、私は彼女が仰向けになって倒れているのを発見した。
その制服からしてX高等学校のものであるのは自明だった。校章が黄色いので2年生だろうか。
「おい、そこの君! 水を! 水をちょうだい! 喉が乾いて2つの意味で死にそう! 『怒りのデス・ロード』の砂嵐を抜けた後の場面ぐらい水を貪りたい! 早くして!」
その女は私を見上げていた。この小春日和になぜか汗だくで、目は血走り、声が掠れ切っていた。心なしかその輪郭は霞んでいるようにも見えた。
「な……なんですか?」
「いいから早く水を持ってきて! 君! これだと生体反応が維持出来ない! こっちの世界に戻れない!」
私は入学初日からこのようなイレギュラーな状況に見舞われた自分自身を心底不憫に思い、深い深い「自己憐憫」の念に溺れた。
ついてない。
あまりについてなさすぎる。きっと日頃の徳が足りないからだ。これからは日々、いるかどうかも分からない神様に感謝しよう。信仰に走るのだ。二度とこんな目に合わないように……
「こら! そんな胸の内で祈祷を捧げるような真似はしない! 早く水をちょうだい、水を! ないならその辺で買ってきて! 早くして! 生体反応をある程度正常値に戻さないと、UNIミニは作動しないの! 早く!」
女は続けてこう叫んだ。
「私は神よ!」
最悪だ。
こいつは何かしらの良からぬものをキメているに違いない。
国内最高峰の頭脳が集う学校にいるドロップ・アウト女だ。恐らく学業を疎かに他の分野に興味範囲を広げていったのだろう。
私はそれを無視して通学路を歩き続けた。不思議と辺りには人っ子一人いないのだった。
2ブロックほど歩き、3丁目の大きな十字路に出た。そして角を曲がると自動販売機があり、当然それらのラインナップの中には水もあった。先程のヤク中ドロップ・アウト女の断末魔が耳元で木霊した気がした。なんだかむかついてきて、私は奥歯を軽く打ち鳴らした。
そしてICカードを翳して水を購入し、道を引き返しては女にそれを渡したのだった。
「ぷはあ! 生き返った! 生き返ったよ! これぞ復活! この宇宙に帰ってこられた! ありがとう君! この恩は二度と忘れないよ!」
女は私に向かって微笑んだ。とても可愛らしい声で。
肩まで伸びた、程よくカールした赤い髪。先程までの荒涼とした様相は消え失せ、溌溂とした生命力に満ちている。少し吊り上がった目はきらきらと輝いてこちらを見つめている。左耳には銀色のイヤホンのような機械を装着していた。
均整の取れた顔。
ヤク中などではない。
誰がどうみても美少女のそれだった。
私は全身を稲妻に打たれた思いで、しばらくそこに立ち竦んでいた。
心臓がどくどくと高鳴り、熱が身体中に回ってゆく。何も考えられない。こんな子がこの世に存在しているなんて。まるで自分の失ったピースが見つかったような……どこか懐かしい感傷に襲われた。
「君、新入生? この宇宙はいちいち学則が厳しくて、破ると大変な目に合うよ! だから急いで! 早く!」
彼女は私の手を取って走り出した。
「ほら! 遅刻するよ! くれぐれも入学初日から遅刻なんてしちゃ駄目よ! 君!」
それが私の運命の人、武井ルカと出会ってしまった間違いだった。