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東の風を越えて  作者: 高町テル
第一章 そよ風を纏って
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第六話 灰牙

 森の奥、東から吹く冷たい風が、ヨトの体を這い上がり包み込む。そして一瞬にして熱を奪い去った。手足が凍り付いたように動かない。声を出すこともできず、ただ呼吸の音と心臓の鼓動が感じられる。


 パキリ、と枝の折れる音がした。


 悠然と四肢で大地を踏みしめる墨を浴びた体躯たいくは、木の葉を避ける微かな光に照らされてもなお、その姿を世界から隠そうとしていた。黒以外を許さないその四足の獣が、唸り声を上げると、ニースの頭と同じ高さに灰色の牙が浮かび上がり、自身が何者であるかを名乗り上げて主張する。


 黒の獣はゆっくりとした動きで、まるでヨトたちがナギリ草を摘み取った時みたいな振る舞いで、灰色の牙が動けないニースに向けられる。


 ヨトがニースを助けられたのは、心の底から湧き上がる何かが体を突き動かしたからだ。


「きゃっ」


 黒の獣が、地面にニースもろとも倒れ込むヨトを見下ろし、不機嫌そうに体を揺すって唸り声を上げる。そこでやっと事態を理解したリヨンとハンクが、武器を構えながら叫ぶ。


「灰牙の末裔!? 深層から出てきたのか!?」


 灰色の牙が声の方に向いた。深層の魔物は、銀級冒険者でないと対処できない。


「だめだ! 逃げろ!」


 叫んだヨトに向けられたリヨンの目からは、強い恐怖と、けれど立ち向かう意志が感じ取れた。


 おれたちを助けるつもりだ。ヨトはニースを伴って急いで離れようとするが、足が血鼠の亡骸にとられて再び地面に転がった。


 岩に岩を打ちつけたような音がヨトの頭上で鳴り響く。二度目の空振りに、黒の獣はいよいよ怒気を帯び始めた。


 決して逃がさない。そんな意志をヨトは悟り、転がっている短槍を手元に引き寄せた。


 明確な死の気配が、否が応でも想起させるのは村の記憶。あの地獄の世界を潜り抜けた自分。胸の内から湧き上がる力は、生への執着心。死にたくないという原始的な願い。


 ヨトは考える。生き残る道は、黒の獣を撃退するか、攻勢をいなしつつ後退し、助けを求めるかの二択だ。誰かひとりを逃がす方法もあるが、果たして冒険者ですらないもの三人で押しとどめることができるだろうか。


 思考を巡らすヨトの視界の隅に入ったのは、後ろ脚に向かって戦斧を振るうハンクの姿。ヨトはニースの手を握って駆けだす。まずは四人でかたまって動くべきだ。


 しかし、その希望を黒い獣は簡単に打ち砕く。黒の獣は狙われた後ろ脚を跳ね上げ、戦斧よりも先にハンクの体に叩きつけた。鈍い音が鳴り、戦斧が地面に突き刺さる。


「ハンク!」


 リヨンが叫ぶと同時にハンクの体は、木にぶつかりそのまま動かなくなった。


(ちくしょう!)


 ヨトは心の中で吐き捨てた。


「斬り裂け烈風!」


 ニースが涙をこぼしながら黒の獣を睨みつけ、風を纏い始める。ヨトは黒の獣の頭に向かって突きを繰り出した。黒の獣に大きな損傷を与えられるのはニースの魔術だ。同じことを考えたのか、リヨンも盾を構えつつ脚に向かって剣を振るう。


 黒の獣が灰色の牙を振り上げれば、ヨトの短槍は呆気なく折れ、脚を振るえば、リヨンの盾を打ち壊した。しかし、それは攻撃の失敗を意味しない。


「〈風刃斬ふうじんざん〉!」


 ニースの短剣から一つの大きな風の刃が放たれる。それは風切り音を鳴らしながら突き進み、黒の獣の咽喉のどを斬り裂いた。黒い体躯に赤い血の色がぶちまけられる。


 瞬間、轟音がヨトの全身を叩いた。損傷を負った咽喉から血がまき散らされる。


 黒い影が視界の端に奔ったと思うと、ヨトの肩に激痛が突き抜け地面に転がった。かすっただけだ。まだ生きてる。そう感じた瞬間ニースの腕が舞い上がる。灰色の牙が鮮血に染まった。


 ヨトは何も考えることができない中、偶然、手に触れたハンクの戦斧を反射的に握った。ヨトの頬に液体が飛び散る。転がるヨトに迫る灰色の牙を受け止めたのは、リヨンの体だった。リヨンは防ぐことすらせず、剣を黒の獣の咽喉に深々と突き刺した。響く声に悲痛の色が混じる。


「おおおおおおおお!!!」


 それすら許さないのだと、ヨトは雄叫びを上げる。深い傷を負う肩さえ気にかけず、体の奥底から湧き上がる力を吐き出し、淡く青い光を纏う戦斧を全力で、前に向かって吹く風に乗せて叩きつける。命を断ち切る感触が手に伝わった。


 黒の獣の、体毛の奥から覗く漆黒の瞳と視線がぶつかる。最期に何を思うのか、ヨトには理解できないし、理解したいとも思わなかった。


 リヨンの体が投げ出された。ヨトは血を吹き出しながら倒れる黒の獣を気にも留めず、リヨンにすがりつく。虚ろな目をし、いくつか穴の開いた体からは血がとめどなく溢れている。ヨトはこれ以上、こぼれていかないように手で覆った。


「傷をっ! ふさげっ! 〈修復のあかり〉! 傷を、塞げ! 〈修復の灯〉! きずを、ふさいでくれぇ!」


 淡く青い光がリヨンの体に伝っていくことはなかった。ヨトの手に血塗れ手が重ねられる。その動作はとてもゆっくりで、力は弱々しかった。


「ぼくの、せいだ、……ぼ、くは……すごい、冒険者に、なりたかったんだ……」

「ぁぁあ」


 それっきり、ヨトの泣く声以外の音がなくなった。


   *


 冒険者ギルドには、怪我をした冒険者を一時期的に寝かせる部屋がある。そこは主に冒険者が自身もしくは仲間の治療に使うだけで、病院としての性質は持たないが、応急処置に必要な道具は備えてあった。


 新人受付嬢のベルは、眠るヨトのそばで項垂れていた。送り出した冒険者の、物言わぬものになって帰ってくるのは初めてのことでないが、それが年下で、しかも三人となれば別だった。冒険者になりたい、とそう言った少年たちを受け付けたのはベルだった。もしかしたら、いずれは立派な冒険者になるかもしれないと、あの時はそう思っていた。


「気にするな、とは言わないが、気にしすぎるな。心を病むぞ」


 腕を組んで、今にも悪態をきそうな表情を浮かべるのは、少年たちの教官だったブレストだ。胸中に渦巻く暗い感情が漏れ出ないように言葉を絞り出した。ブレストにとっては幾度も経験したものだが、慣れそうにはなかった。


「はい……」


 並々ならぬ声を聞いて、現地におもむいた銀級冒険者の隊が見たのは、地面に体を投げ出す灰牙の末裔と、四人の少年少女だった。その場で生きていたのは意識のないヨトだけだった。それらは銀級冒険者たちの手によってすぐさま回収され、こうしてヨトはギルドの一室で眠っていた。


 冒険者登録依頼での死亡例は、少なくとも〈グリム〉では初のことだった。正式な冒険者ではなかったが、依頼中に死亡した冒険者の処理をそのまま適応した。灰牙の末裔の死骸は素材として売却され、得られた金は四分割され支払われることになる。少しでも多くするために、血鼠の皮やナギリ草を勘定したのは純粋な善意だった。そのうちの三つは遺族への弔慰金ちょういきんとなる。


 少年たちが深層に足を踏み入れた痕跡はなく、逆に灰牙の末裔が表層に出てきていたことが確認された。その原因は銀級冒険者が調査している最中である。


 小さく声を漏らしたヨトが、最初に感じたのは寝台の温かさだった。次いで肩の痛みが生きている実感をもたらした。そして体の奥底がきしんで大きく痛んだ。


「起きたか」


 ブレストがヨトの顔を覗き込む。ヨトは見える範囲だけでも必死で確かめた。空の寝台がいくつか横に並んでいる。この部屋にいるのは、三人だけだった。ヨトの顔に涙がにじんだ。


 ベルが思わず、ヨトの手を握った。


「まずは! ……生きていることを、受け入れよう? 悲しむことよりも、先に……」


 付き合いは短いものだった。昨日に出会って、今日、仲間になっただけの関係。彼らのことを、ヨトはあまりよく知らない。ただ、夢のようなものを持って、冒険者になろうとしていたことは知っている。それだけで十分だった。


「その場の状況から、血鼠の討伐とナギリ草の採取は完了していた、と判断された。本来はギルドに報告して、そこで依頼達成となるが、今回は特別だ」


 ブレストは寝台のそばにある机の上に、金属の板、冒険者登録証と報奨金の入った袋を置いた。


「お前はもう、冒険者だ」


 ブレストはそれだけ言って、ベルを伴って部屋を後にする。


 ヨトは上体を起こして、それを眺めた。冒険者登録証に自分の名前が刻まれていることがわかる。袋の口からは見慣れない硬貨がいくつか覗いているが、それを数える気分にはならなかった。


 俯いたヨトは、口の中だけで呟いた。


「そうか、これが、冒険者か……」


 こうして、ヨトは冒険者になった。

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