節句版非人情
人の心は良い意味でも悪い意味でも移り行き、流れ流れて出会いと別れを繰り返す。長く続く心の友も、一時の関係も、どっちともいえる腐れ縁も、全ては人の心が成す物語。
拠り所を見つけては離れて、また見つけては次を探す。そうだとわかっていても止められないのが私もまっとうな人だから。
優しい仲間がいるとわかっていつつ、冒険をしてみたい、危険を冒してみたい。そんな矛盾した気持ちが同居している。
そこで私は旅に出た。
暗く険しく、いばらの道。行く先が見えたと思ったら、また何も見えなくなってしまう。雲か靄か霧か霞か、いったいどこを進んでいるのか、今はどこにいるのか、全くもって見当もつかない。いやはや闇雲とはこういったことかと実感する。
果たして自分は歩いているのか、旅に出て正解だったのか、と不安にすらなる。しかし、後ろに戻るにも後ろが本当に後ろなのかもわからない。右も左もわからない。上下だけが重力によってわかるようなものだ。
いつものように過ごしているつもりが、全くもっていつも通りではない。今日が昨日と違うように、明日も明後日とは違うのだ。呼吸も脈も、時を刻む秒針と同じように終わりのない終わりへ向かっている。
安心というのは不安と共にある。不安を感じるから安心を得られると言い替えることもできる。安定していた私はバランスを崩した。その一瞬で全身を不安が襲い、どうにもこうにもならない。安心を知っているけれど、もう旅に出ている。いかがなものだ。保険が効かず、その場に居場所を作ることで安心を得ようと考えた。安定を作るには時間を要し、時間を要した分だけその場所が心地よくなりなかなか抜け出すこともできなくなる。今までいた安定していたい場所は、ここからでは遠くなり、戻るということは不安を伴う移動となってまった。
どんな顔をして戻ればいいのか、どんな話をしたらいいのか、そもそももう私の居場所はないのではないか、などと戻ることに対しても不安が頭を駆け巡り、躊躇と及び腰が私の両腕を掴んではなさい。
情とういうものは、包み込むような優しさと共に、縛りや視線を感じる、負の側面も伴う。これが非常に厄介である。非情じゃないだけに非常だ、という非常にくだらない言葉を思い付くほどだ。しかし、それを越えるのも情というものだ。
夏目漱石の枕草で出会った非人情という言葉は、私を救った。情が情であるある以上、情を情で返すしか他にない。超越した情への考えに、いたく感動し、私なりの非人情を追求することにした。いや、今なおしている。しかしその中で、いくつかの気づきや思い付きもあり、今に至っている。
誰にとっても私は私であり、あなたはあなたで在り続ける。どんなに小さな存在でもそれには情があり、情を越えた非人情が付きまとい、自分と向き合いながら在り続ける。そこで私は私なりにそんな世界を自分に作り、在ることで、居場所の移動を瞬間的に行えるのではないか、と考えた。
情を情と受け取りつつも、情を情とせず、一歩後ろに立つ私が私が見つめて情を感じる。そこには温かさを残しながら、冷たさを感じさせるものもあるだろう。中には、それこそ非常に非情だと思うものもあるだろう。しかしながら、芸術や嗜好は自分を自分と感じず、あるいは自分を自分から切り離して、手放してこそ生まれる。実際に苦しみを伴うのはここからきているはずだ。
浅く広くではなく、深く狭くでもない、浅く深く、また広く狭い、一見矛盾しているがとても調合の取れた至高の思考である。情に流されず、また情に影響をされながら、この世を生きる術であり、人間の宿命ともいえるのかもしれない。頭の中で考えつつも心で見つめ、心で受け止め思考する。このどちらもが重要で、どちらもが重要でない、直感的な部分とはまた違うものが、非人情であると、解釈しこの世を生き全うしたい。
誰にでも思いや考えがあり、それらは共感と共鳴を生むが、衝突や葛藤をも生む。悪いことではないが、良いことでもない。どちらも大切であり、どちらも大切でない、進化と退化が同時に進む、四方八方に広がる人と人とのつながり、つまり情だ。
こだわりを捨てるというこだわりが自己矛盾を生むように、多様性を受け入れられない人を排除するような視野の狭い多様性のように、自由でありたいと信じるがあまり不自由な人を自由と考えられないように、いつも人の世はひねくり返っている。良し悪しを決めるのではなく、俯瞰することで、一つ世界が変わる。つまりこの考えも、誰かの共感になると同時に矛盾と葛藤になるに違いない。お互い様に、有難くもあり、迷惑でもある。そもそも何も感じないというより超越した思考を有する者も多くいるはずだ。
矛盾の渦をかき混ぜながら、私の思いを吐露したところで何にもならない。つらつらと書いてきたが、つまるところは一つに終着する。
情に流され、情を受け止め、尚且つ情を情とせず、靴底で土をいちいち感じながら遅くても自分の歩みを確認しながら、恥ずかしながら帰ってまいりました、これからもどうぞよろしくお願いします、というところだ。