陽だまりの二人
それは懐かしいと呼ぶには近くて、でもなぜか遥か昔の出来事かのように感じる夢だった。
ふよふよとまるで幽霊のように漂う私の目の前には、私に与えられた唯一の居場所である〝図書塔〟の二階にある、あの陽だまりのテーブルがあった。
この図書塔唯一の窓から差し込む陽光に照らされているのは二人の人物。
一人は、陽光の当たり具合によっては時々薄い赤色にも見える、薔薇金とも呼ばれる髪を持つ少女――エステル。彼女は帝国に滅ぼされたエステライカ皇国の第一皇女であり、今は同盟国のここヘイルラント王国に亡命していた。
それはつまるところ、私のことだ。国も両親も亡くした私をヘイルラント王は嫌な顔一つせず迎え入れてくれた。そして三度の食事よりも読書が好きである私に、この〝図書塔〟と呼ばれる、四階建の塔のような形をした小さな図書館を与えてくださった。
そこまでは良かったのだが、陛下はもう一つ私に重要な役割を与えた。
「……おい貧乳ババア! って痛っ! 本で殴る奴があるか! 俺は王子だぞ!!」
「またそんな馬鹿なことを言って……ほら、まだ計算問題が残っていますよ」
私に、読んでいた本ではたかれたのは、この陽だまりのテーブルに座るもう一人の人物だ。まだ十歳にも満たない少年で、白銀色の短い髪に幼いながらも整った顔立ちだが、その顔には生意気そうな表情が浮かんでいる。
見れば膝や肘などに生傷が多く、肌も焼けていて、動き辛いという理由で用意された服を拒否して平民が着るような服を纏っている。一見するとただの下町のいたずら小僧にしか見えないが、彼の名はユリウス・ヘイルラント。その名の通り、このヘイルラント王国の第二王子であり、そして陛下にとっては頭痛の種だった。
「勉強なんて無駄だろ!! どうせ俺は王にはなれない。だから俺はアウグス聖みたいに放浪の聖騎士になるんだ! 勉強なんて出来なくても剣の腕があれ――痛い痛い! 耳を引っ張るな暴力ババア!」
「ほんとに馬鹿ねえ」
ユリウスは終始こんな事を言う始末で、勉学は放り投げ、かと言って剣術の練習もサボり、勝手に王宮を抜け出しては王都や平原を駆け回っているのだ。礼儀作法も勿論なく、殆どの家庭教師が匙を投げたところに、暇していた私に家庭教師役の白羽の矢を立ったのだ。
だけど、仕方がない部分もあった。彼の兄であるヒューイ第一王子は優秀であり、常にその優秀な兄と比べられながらここまで育ったのだ。六歳にして彼は既に自己肯定感が低く、何事にもやる気を見出せず、ただおとぎ話に憧れて夢想するだけの日々。
私はその境遇に少しだけ共感すると同時に、決して同情しないようにした。
同情を、優しさとしてではなく、哀れみとしてユリウスが感じてしまうことは分かっていた。陛下すらも、不出来な息子だと思っている節があるが、彼は決して馬鹿でないし、大人の汚い部分に気付く聡い部分もある。
だからこそ私は同情はせず、かといって他の教師や王宮内の者達のように蔑みもせず、ユリウスと向き合っていた。
「十六歳の乙女を捕まえてババア呼ばわりとは、ユリウス様は目が腐っているのですか?」
私が隣に座るユリウスに身体をくっつけてその小さな両耳を引っ張っている。うーん、とはいえこうやって客観的に見ると、王子相手に結構無茶苦茶やっているな、私……。
「馬鹿エステル! 近い!」
「あら、失礼」
ユリウスが顔を真っ赤にして拒否するので、私は身体を離した。
「だ、大体! なんで勉強しなきゃいけないんだよ! 無駄だろこんなの! 騎士になるのに計算なんて必要ねえ!」
「無駄ではありませんよ。良いですか、知識は武器なんです。ないといざという時に困るのは自分自身ですよ」
「武器?」
「そうです。ユリウス様だって、冒険の旅に出るなら武器は何本か持っていきますでしょ?」
「そうだな! やっぱり剣と短剣とあと槍と弓と……」
目をキラキラさせながら指を折るユリウスを見て、私が微笑んだ。
「じゃあ、持っていかない斧の使い方は覚えないのですか?」
「いらない! だって使わないから!」
「では、そこへ悪い斧遣いが現れました。でも、ユリウス様は斧の使い方が分かりません。つまり、相手が何をしてくるか分からない。これでは、勝てる勝負も勝てなくなるかもしれませんね」
「……うーん。じゃあ斧の使い方も覚える!」
「それが、勉強ですよ。使う使わないは重要ではありません。自分の頭の中に本棚を作り、そこを知識という名の本で埋めて、相対した未知を如何に既知に変えられるかが肝要です。人は既知には対応はできますが、未知には無力です。ユリウス様、未知を恐れなさい。いつか計算問題を解かないと倒せない悪魔が旅の途中で出てくるかもしれませんよ? その時になってからでは遅いのです」
「……分かったよ。この計算問題だけやるよ」
むすっとしながらも、目の前の問題に取り組むユリウスを見て私が頷くと、読書を再開した。
カリカリとペンが動く音と、ぱさりぱさりとページを捲る音だけが響く。
それはとても平和な光景だった。いつまでもこれが続けば良いのにと、そう思ってしまうほどに。
だけど、私は知っているのだ。それが決して長く続かないことを。
ふわふわと浮かぶ私の目に映る景色が変わる。
そこは先ほどとは違って、ジメジメとした暗い、地下室だった。部屋の中央には禍々しい魔法陣が刻まれており、周囲には生贄らしき山羊の死体が歪な形で飾られていた。
どう見ても邪教の儀式だが、何より問題なのは、その魔法陣の側にユリウスが立っていることだ。
「なあワズワースのおっさん。本当にこんなことで俺は強くなれるのか? 兄さんを超えられるのか?」
ユリウスが真剣な表情で隣に立つ、宮廷魔術師のワズワースへと声を掛けた。
「勿論ですとも……私は常々考えていたのです。真に王に相応しいのはユリウス王子であると。ですが陛下も愚かなヒューイ派も、誰もその真理に気付いていない……だからこそ、私と貴方の二人三脚でそれをひっくり返すのですよ!」
血走った目のワズワースを見て、ユリウスが一歩遠ざかる。その様子が少々おかしいことに気付いたのだ。
「なあ……本当にエステルもこれに賛成しているのか?」
「無論。この魔法陣が記された魔導書を発見したのも彼女ですぞ。心配なさらずとも、ユリウス王子。この儀式が成功すれば、あの図書塔の姫も貴方の物……」
ワズワースの言葉がまるで毒のようにユリウスを犯していく。その真実をねじ曲げたような嘘に、私は声を上げようとするとも、幽霊のように漂う私の声は届かない。
「そ、そうか……なら良いんだ」
「ユリウス王子の協力があったからこそ、ここまで魔法陣を再現することが出来ました。王宮の倉庫は私ですら中には入れませんからね。呪物を取ってきていただき感謝です。王子のいたずら癖が役に立ちましたな」
「……やっぱりこれ、一度エステルに見てもらった方が」
「必要ありませんよ。この儀式を完成させるのに必要な物はあと一つだけ……」
そう言ってワズワースが、ユリウスの腕を掴んだ。
「な、なにすんだよ!?」
「くはは……くはははは!! やっぱりお前は馬鹿だな!! この儀式に必要な物はな! 高貴な血……つまりお前の命だよ! 心配するな! 強くなった俺があの王もヒューイも全部滅ぼしてやる! ああ、特別にあの姫は生かして俺の妃にしてやるさ! なんせあいつは――」
「てめえ! 俺を騙したな!」
ユリウスがワズワースの腕へと噛み付いた。
「ぎゃっ! 何をする! この猿が!!」
逆上したワズワースがユリウスを持っていた杖で殴りつけた。
「かはっ」
「クソガキが!! ぶち殺すぞ!!」
ワズワースが何度もユリウスを杖で殴打する。すると、その地下室の扉が勢いよく開いた。
「はあ……はあ……ユリウス!」
飛び込んで来たのは、汗まみれで息が切れて、肩を上下させている少女――私だった。
「遅すぎたな、図書塔の姫! さあ見るが良い! 俺が最強の魔術師になるその時を! さあ邪神よ! 高貴なる生贄と引き換えにその力を我に与えたまえ!」
ワズワースが、足下に倒れているユリウスの血がべったりと付着した杖を魔法陣へと向けると、魔法陣から禍々しい赤い光が立ち昇った。
「いけない!」
私が走る。確かにあの禁術の記された魔導書を見つけたのは私だ。だから分かる。あの禁術は決してワズワースが考えているような類いのものではないからだ。
このままでは、ユリウスの命が捧げられてしまう。どうすればこの禁術を止められるかを思考する。しかし思い付いた方法は、一つしかなかった。だが、それは余りに……危険かつ苦痛を伴う方法だった。
「エ……ステル……ごめん……ごめんなさい……」
そのユリウスの途切れ途切れの言葉と、涙でぐしゃぐしゃになった顔が、私に決意させる。
「本当に貴方は……馬鹿ね」
私がそうユリウスに微笑むと、母の形見である、薔薇の紋章が刻まれた護身用の短剣を抜いた。血を使った魔術には――血を使った魔術で対抗するしかない。
恍惚の表情のまま立ち尽くすワズワースの横を通り過ぎ、私が魔法陣へと飛び込んだ。
「無駄だ……邪神はそこにいらっしゃるのだ! ああ! 力が! 力があ!! 溢れてく――」
ワズワースがそう叫ぶとと同時に、床へと倒れた。その顔には満足げな表情が浮かんでいるが、その全身から血が抜かれており、絶命していた。
「エステル……エステル!!」
ユリウスの声と共に、魔法陣に浮かぶ赤い人影が翼を広げた。私が短剣を持ったままそれと対峙する。
「血が足りぬなあ。高貴な血が足りぬなあ」
その人影の、少女とも老婆ともつかない声が響く。その視線がユリウスへと注がれたのが見えた。
「美味そうな血がおるなあ」
「あら、それならこっちもあるわよ!」
私がそう叫ぶと短剣で手のひらを切って血を刀身に纏わせた。
「ん? この血の匂いは……」
「冥府へと帰りなさい!」
私がそのままその人影へと短剣を刺した。私の血と、その影の血が交わる。
「……!」
音のない叫びと共にその人影が赤い光となり消えた。
「あっ……」
そして同時に私が床へと倒れたのだった。
「エステル!」
ユリウスの悲痛そうな表情と叫びと共に地下室へと雪崩れ込む兵士達。
その先の光景を、私は知らない。
なぜならユリウスを助けたこの日から私は――まるで時が止まったかのように眠り続けているのだから。
☆☆☆
あれからどれだけの時間の経ったのだろうか。私には分からない。
私は上下が逆さまになった図書塔の、床となった天井から伸びるランプへと腰掛け、本を読んでいた。
「このまま眠り続けるのかしら。でもまあ、ここはなぜか読書も出来るし良いわね。平和で……静かで」
あのうるさい王子の教師役をやらなくてもいいしね。
でも、少しだけ……ほんの少しだけ、それが寂しいと感じる自分がいた。
全てを失った私に与えれた物は、あの図書塔だけだ。きっと、老いるまで私はあの図書塔に居続けるのだろう。その人生はなんだか酷くつまらないものように思えた。
眠る必要も、食べる必要もないこの空間は正直居心地が良い。好きなだけ読書を堪能できる。
だけど……ここで読書していると、ふと頭の中で、〝これはユリウスでも読めそうね。この話は噛み砕けば、理解してもらえそう〟なんて考えている自分がいた。
何より倒れる直前に見た、ユリウスのあの顔。
あれからどれだけ経ったのだろうか。
優しい心を持つユリウスはきっと後悔しているだろう。自分を責め続けているだろう。もう私の事なんかすっかり忘れているかもしれないが、きっとその心のどこかには私という棘がずっと刺さっているはずだ。
それにうなされ、苛まされる日々もあっただろう。
それに耐える日々は……想像もできない。
「赦しを与えないと……私が起きなければきっとあの子は……」
私は本を置いて立ち上がった。
一度ユリウスの事を想うと、もう居ても立ってもいられなかった。
幼いあの子は一体どれだけ苦しんだだろうか。
「目を……覚まさないと」
その私の言葉と共に図書塔が崩れていき、上を見上げると、光る水面が揺らいでいた。
私はゆっくりと浮上していく。だけど、その直前で身体が重くなる。
「なんで……?」
分からない。だけど、そこで私はまた沈み続けた。このまま沈めば……もう二度と上がれない気がした。
だから私は水面へと必死に手を伸ばした。
誰か……誰か……助けて。
そんな叫びにならない叫びが、泡となって消える。
だけど、その時。私の手を――誰かが握った。
力強く、たくましいその手が私を引っ張り上げる。それはかつて手を握った父の手でも、兄の手でもなかった。
その手は――
☆☆☆
「い、息を吹き返したぞ! それに握り返した! 握り返したぞ! すぐに先生を呼んでくれ!」
そんな騒々しい声が私の耳に飛び込んで来る。やけに重いまぶたを私はゆっくりとこじ開けた。
眩しいほどの光が飛び込んで来る。
「め、目を開けた……エステル……エステル!!」
それは聞き覚えのない青年の声だった。そもそもエステルって誰だろう? と思考していると、徐々に記憶が蘇ってくる。
そうだ、私がエステルだ。じゃあ、私を呼ぶこの人は誰? そんな私の疑問に答えるように、その青年が私の顔を覗き込む。
きらめく長めの銀髪に、怖いぐらいに綺麗な顔立ち、長い睫毛。その蒼い瞳はまるでいつか見た、あの秋の高い空のようで、私は思わず吸いこまれてしまう。
こんな美青年の知り合いなんていないのですけど?
「お、起きたのか!?」
「いけませんよ、エステル様がびっくりなさいますから!」
「そ、そうか! すまない……」
混乱する私を見て、これまた聞き覚えのない声を出した女性にたしなめられ、青年が慌てて顔を引っ込めた。
「こ……こ……は?」
カラカラに乾いた口の中で固まっていた舌を一生懸命動かす。だけど、出てくる言葉はたどたどしい。
「ここは図書塔ですよ、エステル様」
「と……しょとう」
首を動かすと、そこには窓があった。そこから見える景色は、あの陽だまりのテーブルから見えていた景色と同じだ。
「エステル、大丈夫か? 痛いところはないか? あ、君! すぐに父上に伝えてくれ! エステルが目覚めたと!」
私は窓とは反対側へと向いた。そこには、あたふたしながら侍女に指示を出す背の高いの、先ほどの美青年がいた。その手は、私の右手をずっと握っている。
その体温が、心地良い。
そうか……あの時に手を伸ばしてくれたのは――貴方ね。
「あな……た……は?」
私がそうその青年へと問いかけた。多分、助けてくれたのは彼だ。
だけど私のその問いに、青年はその大きな瞳をさらに見開くと、ツーッと涙をこぼした。
「覚えてないのか……エステル、俺の事を覚えてないのか?」
「だ……れ?」
私の言葉に青年が答えようとした口を開いた時、視界に医術士特有の白いローブを着た女性が飛び込んできた。
「どいてどいて! すぐに検査するから! ほらユリウス王子はジャマだからあっちいってなさい!」
その言葉が耳に入り、私はようやく気付いたのだった。
ああ……そうか。この青年は――ユリウスだ。
あの、生意気で口の悪い少年の片鱗はなく、立派な青年に成長していた。
そうか、長い年月で……六歳だった彼は成長してしまったのだ。
「お、おう!」
青年――成長したユリウスが、医術士に言われて慌てて私の手を離した。
なぜか私はそれが凄く嫌だった。
凄く、悲しかった。
だから――
「まっ……て!」
私は手を伸ばして、その手をもう一度繋ごうとした。
だけど寝たままの姿勢で無茶をした私は、ベッドから転げ落ちそうになる。
「っ! エステル!」
そんな私を、ユリウスが抱き止めた。
それは、久しぶりの温もりだった。高鳴っているのは私の心臓か、彼のか。ドクドクと波打つその鼓動が心地良い。
その抱擁はあまりに暖かく、私は泣いてしまった。子供のように泣いてしまった。
ぐしゃぐしゃになった顔を彼の胸に擦りつけて。
そうやって私はしばらくの間、ユリウスの胸の中で泣き続けたのだった。
☆☆☆
「ごめん……なさい」
ベッドに戻してもらった私は、顔が真っ赤になっているのを感じながらユリウスへと謝った。はっきり言って、滅茶苦茶恥ずかしい。
生徒に何をしているんだ私は。
「あっ! いや! 俺は大丈夫だけど!」
ユリウスが照れたように頭をかいて、明後日の方向へと顔を向けた。その仕草が、いつか見た少年のそれと重なって思わず笑ってしまう。
ああ……良かった。私の知っているユリウスがいた。
「ほら、全身の検査するから、野郎はここから出て行きなさい」
医術士がそう言って、ユリウスを部屋から追いだした。
「落ち着いた? 私は君の主治医のリーズマリー。よろしく」
そう言って、その赤髪がよく似合う美人医術士――リーズマリーがニカッと私に笑いかけた。
「え、えすてる……です」
「うん。自分の名前も分かるみたいだな。記憶に違和感は? あ、水を飲ませてやって」
リーズマリーがテキパキと私が着ていた薄い寝間着を脱がせて、杖を各部に押し当てていく。多分、検査の魔術か何かだろう。ドクンと一度心臓が高鳴るが、すぐに収まった。
その間に、茶髪の侍女が水の入ったコップを渡してくれた。私はそれを受け取ると一気に飲み干す。
水が喉を落ちていくその爽快な感覚が、気分を晴れやかにしてくれた。
「記憶は大丈夫……です」
「身体も大丈夫そうだな。ちょっとなんか魔力に違和感があるが……そもそも十年もの間、成長せずに寝ていたこと自体が異常だからまあ、許容範囲だ許容範囲」
「十年……そんなに私は眠っていたのですか」
リーズマリーは杖を仕舞うと、その長い足を組んだ。
「その通りだエステル――さあお喋りをしようか。聞きたいこと、沢山あるだろ?」
そう言って、リーズマリーは子供みたいな悪戯っぽい笑みを浮かべたのだった。
それから私は色々な話を聞いた。
私が倒れた後。
あの事件はワズワース独断の犯行と判断された。だが、ユリウスは自分が王宮の倉庫に盗みに入ったことを陛下に告白し、厳しい罰を受けたそうだ。
そしてその日から、ユリウスは人が変わったという。自ら勉学を行い、剣術を鍛錬し、礼儀作法を身に付けた。そして、毎日――そう、毎日彼は、病室へと変わった、この部屋に足を運んだという。
「毎日毎日〝エステルは大丈夫か?〟〝俺の命を使っても構わないから助けてくれ〟とうるさくて仕方なかったよ。途中から、ジャマだったから蹴飛ばして出て行かせたが」
カカカ、と笑うリーズマリーに、私は笑ってはいけないのに笑ってしまった。その光景を見てもいないのに目に浮かぶ。
「ユリウス様を蹴り飛ばす医術士は貴女だけですよ、先生……」
侍女がため息をつく。
「でも、ユリウス様が私の為に動いてくれていたなんて……」
「そう。あいつも必死でな。君を目覚めさせる為に、あたしの実験……もとい研究を手伝ってくれたりしてたんだ。まあ、最初は邪魔だったが根性を買ってな、弟子と呼ぶと怒るんだが、まあ弟子みたいなもんだ。だけど……君がこうして起きれたのは、きっと君自身の力だ。あたしも、あいつの力も無力だった」
リーズマリーがそう言って、遠くを見つめた。
「この十年、出来たことは何もない。何も対処しようがないことが分かっただけだ。だけど、陛下は気にせず賃金を払ってくれた。陛下はよっぽど君がお気に入りのようだ。王妃はあまり良い顔をしなかったがね」
私は、あの気難しいバネッサ王妃の顔を思い浮かべた。彼女は最初から、私をこの国で受け入れることに難色を示していたらしいと聞いた事があった。
だけど、少なくとも私は彼女に悪い印象はない。女なんだから、衣装ぐらいは必要でしょうと、着る予定もない服や化粧道具やアクセサリーを豊富に揃えてくれた。
「ま、とにかくエステル。君は無事に目を覚ます事が出来た。これからのことはゆっくりと考えるがいい。あたしとついでにあの馬鹿王子も手助けしてくれるさ」
「私が目を覚ますことが出来たのはきっと、陛下やリーズマリー先生、それに……ずっと手を握ってくれていたユリウス様のおかげですよ」
私が心からそう言うと、リーズマリーが微笑んだ。
「かはは……まあそれは本人に直接言ってやりな。さて、あたしは陛下に報告してくる。おそらくだが、じきに立てるようになるさ。筋肉も関節もまるで常人のように柔らかいままだ。十年眠っていたとは思えないほどにね」
リーズマリーが颯爽と去っていく。そして、扉からひょっこり顔を覗かせていたユリウスが、入って良いかどうか迷っている様子だったので、私は小さく笑うと、声を掛けた。
「入っても大丈夫ですよ――ユリウス様」
☆☆☆
「エステル!」
まるで、犬のようにベッドへと駆け寄ってくるユリウスを、呆れたような目で侍女が見ながら椅子をさりげなく彼へと差し出した。
「エステル……良かった……本当に良かった」
「うん。心配かけましたね。もう少し上手くやれていたら……」
やれていたら、こんな騒ぎにはならなかっただろう。あの時、大人しく兵士の到来を私は待つべきだったのだ。
だけど、そうしていたら……ユリウスの命は危うかったかもしれない。あの場で、邪神の召喚を止めるにはああするしかなかった。
「違う。それは違うぞエステル。君のおかげで、俺は救われた。あれから俺、ずっとここでエステルの顔を見ながら沢山勉強したんだ。魔術についても……あの儀式についても。だから今の俺なら分かる。君があの場にいなければ……俺は死んでいたと思う。そして代わりにあの邪神が降臨し、きっとこの国は滅びていた。あれは決して術者に力を与えるような魔術じゃないんだ。なのに、ワズワースは……」
リーズマリーから聞いたとはいえ、あのユリウスが自らあの難解な魔導書を読破したのが信じられない。
それは並大抵の努力ではない。
だから、私はなぜか笑いがこみ上げてきた。
「ふふふ……あははは」
「あれ? 俺なんか変な事言ったか?」
「いえ……少しだけ昔を思い出しまして。あの頃のユリウス様しか知らないから、魔導書を読んでる姿を想像するとなんだかおかしくって」
「っ! あ、あの頃の俺は忘れてくれ! 本当に! 俺は何も知らないクソガキだったんだ! どれだけリーズマリーに怒られたか……」
目を見開いて、真剣な表情でそう訴えるユリウスの様子が更におかしくって私は笑いが止まらなかった。
「リーズマリー先生は厳しそうですもんね。私ではきっとそこまで教えられなかったですよ」
「そんなことはない! 〝未知を恐れろ〟って先生の言葉を実践しただけだ! リーズマリーは色々と教えてくれたが、俺にとっての先生はエステル、君だけなんだ。だから……怖かった。ずっと眠り続ける君が、俺にとって一番の未知だった」
私はそっと右手を伸ばして、ユリウスの手を握った。その手はあの頃の小さな少年の手ではなく、剣の鍛錬をどれだけ積んだか分かるほど節くれだって、手のひらは、マメが出来ては潰れてを繰り返し硬質化している。
それは決して柔らかくはないけれど、ユリウスの努力が見える、素敵な手だった。
「ごめんなさい、ユリウス様。きっと、ずっと……貴方は自分を責めていたのね」
「俺は……俺は……」
ユリウスが俯き、繋いだ私と彼の手へと顔を押し当てた。
「ユリウス様。私はこうして何事もなく目覚めることが出来ました。それはひとえに、ユリウス様のおかげなんですよ。貴方が……貴方の握ってくれた手が、私を眠りから覚ましてくれた。だからもう自身を責めるのは止めなさい。私は貴方を――赦します」
「ああ……ううう……」
微かな嗚咽を私は聞こえないフリをして、ゆっくりと左手でユリウスのふわふわした銀髪を撫でた。その髪の柔らかさはあの頃のままだ。
そうして私はしばらくの間、ユリウスの髪を撫で続けたのだった。
「ううう……くそ、エステルが起きたら格好付けようと思っていたのに……とんだ醜態を晒してしまった……」
目を擦りながら、ユリウスがプイッと顔を横に向けて、赤く腫れた目を私に見せないようにしていた。
「今さらですよ、ユリウス様。貴方の格好悪いところはいっぱい知っていますから」
「……それもそうか。でも、今の俺はあの頃の俺とは違う。今の俺なら……言える」
「何を?」
私がキョトンとした表情を浮かべた。
そんな私を、少し腫れぼったい目でまっすぐに見つめて、ユリウスが口開いた。
「――エステル。俺は……君が好きだ。大好きだ。ずっと……ずっと好きだった。なのに俺はクソガキでその気持ちを伝えられなかった。そして君は眠り、俺は俺の気持ちを君に伝えられないまま……十年が過ぎたんだ」
「ま、待って! え、なに? どういうこと!?」
え、今、好きって言った!? 待って、好きってなんだっけ!?
なんて私が混乱していると、ユリウスがフッと微笑んだ。
「だから俺はいつかこの日が来るのを信じて……君に相応しい男になれるように努力した。勉強も、剣も。君が、安心して心を寄せられる男になれたかどうかは、まだ分からないけど……でももう君を失いたくないんだ。だから……」
その言葉の一つ一つに、十年の重みが込められていた。
だから、私はどう答えたら良いか分からない。
「返事を今すぐでなくてもいい。今はそんなことより大事なことが沢山あるだろうからね。でも……俺はエステル……君に恋し続けるし、この想いを、伝え続ける。それだけは……許してほしいんだ」
「……うん」
いつの間にか泣いていた私は、頷きながら涙を拭いた。恥ずかしいやら嬉しいやらで、心がいっぱいだった。
「ユリウス様の想いに……応えられるかは分からないですけど……でも嬉しい」
私は泣き笑いながら、ユリウスの手を握った。
良かった……私は独りじゃない。
いや、違う。私はずっと前から独りなんかじゃなかった。
「エステル。俺は今、貴族院に通っているんだ。だから、今度は俺が勉強を教えるからさ……一緒に貴族院に行こう」
「まあ。ユリウス様が私に勉強を教えるだなんて……大きく出ましたね」
私はからかうような笑みを浮かべた。まさか、あの生意気少年に勉強を教えられる日が来ようとは。
それこそ夢にも思わなかった。
「ふ、この十年、必死に勉強したからね。君に教えられるように」
「――負けないですよ。すぐに追い付いて、追い越してあげる」
「あはは、その意気だよエステル。じゃあ、俺はそろそろ行く。父上にあれこれ報告しないとだ」
そう言って、ユリウスが立ち上がった。
「うん」
「明日も来るよ」
「うん」
「じゃあ、また」
「また明日、ユリウス様」
ユリウスが名残惜しそうに部屋から出ていった。
私はその背を見て、いつか夢で見た、あの陽だまりのテーブルでの平穏な日々を思い出した。
ポカポカと暖かい気持ちで胸が満たされていく。
窓の外を見ると、王宮へと戻ろうとするユリウスがこちらに気付き、笑顔で手を振っていた。私は手を振り返すと、ふうっと息を吐いた。
胸が高鳴るのを止められない。
「まいったなあ……」
私はそう呟いた。
もはや私がユリウスの事を好きになるのは時間の問題のように思えた。
「でも……構わない。十年寝ていたんだもの。遅すぎるぐらいだわ」
私のその呟きはしかし、誰に聞こえることもなく、図書塔の静かな空気の中へと消えていった。
あの陽だまりの続きが――また始まるのだった。
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