夏休み
心が躍動する。
待ちに待ったその時が、ついに――
夜空に爆音を響かせながら色彩豊かな花々が咲き誇る。それはスターターピストルのように、この夏の始まりを知らせているみたいに感じた。河川敷は人でごった返し、出店が軒を連ねて集客に勤しんでいる。嬉々とした声音で溢れ返り、幸福感溢れる空気が辺りを満たしていたが、それを焦がしてしまうほどに熱気は立ち込めていた。汗の蛇口を夏に捻られ、歩く度どばどばと体から汗が噴き出る。
「綺麗だね」
後頭部にお団子を作り、朝顔柄の浴衣を着た成美が前方を歩きながら空を仰ぎ、尊ぶように言葉を漏らした、
「やっぱり、花火っていいね」
続けてそう言うとこちらを振りかえり、心配そうに俺を見遣った。
「圭吾くん大丈夫? しんどそうだけど」
「多分大丈夫。けどやっぱり暑いのは苦手だ」
「じゃあ道路の方に出よ?」
成美はそういうと、僕の手を引いて道路に続く階段を上っていく。汗で滲んだ手を握らせるのはいささか憚られたが、逡巡する間もなく、手は握られていた。
成美とは保育園からの幼馴染、家も近所で家族ぐるみの付き合いだ。小中と同じ学校に通い、今こうして中学最後の夏休みの初日を共に過ごしている。本来は家族と来る予定だったが、その家族に嵌められてこうして成美と二人きりにさせられている。俺の親は成美のことをとても気に入っていて、やたらとくっつけたがる。いい迷惑だ。
「あそこ座ろう」
成美は道路の向こうにあるバス停を指さした。目の前の道路は現在、歩行者天国になっていてバスの利用はない。ベンチに加えて日よけのために設えられた簡易的な屋根もある。カップルらしき二人が座っていたが、ちょうど席を外すみたいだ。俺たちは他の人に席を取られないようにと小走りで駆け寄り、ベンチに腰を下ろした。ほっと一息つくと、震えた声で成美が喋りだした。
「あんまり楽しくない?」
「なんでだよ、別にそんなことはねえよ」
成美は気が小さくて臆病なくせに、やけに俺に世話焼きで、どうも放っておけない奴だ。
感情の起伏がすぐ顔に出るからわかりやすいことこの上ない。
「私はすごく楽しいよ。圭吾くんと二人きりで、あの、で、デートだから……」
成美はそういうと俺から視線をそらし、突飛に出てしまった言葉を後悔しているのか、両手で顔を覆っていた。俺と言えば、さっきより汗は引いて雑踏からも距離を取ったというのに、その言葉を聞くと体温が一気に上昇し、心臓がきゅっと縮まるのが分かった。
夏は不思議だ。こんなにも暑苦しくてうざったいのに、綺麗な花は、よく映える。
しばらく俺たちの間に静寂が訪れ、むず痒さに耐えられなくなって口を開こうとしたとき、周囲の異変に気が付いた。
刹那に散るはずの花が、確固とした存在を保っている。爆音や喧噪も鳴りを潜めて、目の前を歩いていた人までもが、動きを止めている。全てが動きをとめて、暑さと微風だけが変わらず伝わってきた。
「な、なにこれ」
成美の声が優しく耳朶を打った。隣を見遣ると成美もこの異変に気付いていた。この状況を目の当たりにしていることが俺だけではないことにほんの少し胸を撫で下ろした。
「成美にも、止まって見えんのか?」
「う、うん……」
成美は小刻みに体を振るわせていた。瞬時に俺は、役目を理解した。
「大丈夫、一人じゃない」
成美の震える手を握ると、驚いたままこちらをみて、小さくうなずいた。
「あらあら、僕と一緒でおあついね~」
突如頭上から発せられた幼い子どもの声に身体をピクリと震わせて、立ち上がって屋根の上に視線を走らせた。そこには身の丈に合わない薄手の黒のロングコートを着て、黒のハットをかぶった少年がいたずらな笑みを浮かべながら、夜空に浮遊していた。目をこすったりして見たものの、確かにその少年は屋根に足をつけることなく、浮いていた。
「いい雰囲気の所悪いけど、僕についてきてもらうよ」
こちらの返答を待つことなく謎めいた少年は、指パッチンを鳴らした。
「圭吾くん、どうしよう……」
成美も同様に不安を表面ににじませてびくついている。
こんなときこそ、俺がしっかりしなきゃ―
「何をそんなに怖がってるんだい、別に僕は君たちを取って食おうってってわけじゃないよ。ほら、花火を見てごらん」
少年に言われるがまま、夜空に形を保ち続けている花火に目を遣ると、中心に違和感を感じた。
「なに、あれ」
冥々たる黒い空に、際立って煌々と光る花火の中心から、レールが伸びている。レールは一直線に俺たちの前まで伸びて、生成するのをやめた。直後、重厚な機械音を響かせながら徐々に近づいてくる。レールの始まりを見つめると、ライドがレールの上を走ってこちらまでやってきて俺たちの前で止まった。
「ほらほら、乗った! 僕は一瞬なんだ、時間が惜しいよ!」
状況は何一つ理解できず困惑していたが、目の前で起こる奇跡の数々に俺は少し、心を躍らせていた。隣で立っていた成美の双眸も、心なしか輝いて見えた。
成美の手を取ってライドの先頭に乗り込んだ。見慣れた夏祭りの風景の中にジェットコースターという異質なものが混在していることに、余計に胸が高鳴った。
少年は俺たちの後ろにちょこんと座り、笑顔を浮かべた。
「いいかい、振り落とされないようにその手は放しちゃいけないよ。それじゃ、行こう!」
ゴトン、と音を立ててライドは徐々に速度を上げ始めた。目の前では絶え間なくレールが生成されている。レールは夜空に向かって垂直に伸びていき、俺たちも上昇していく。ほぼ垂直に上昇しているのに、不思議と体に重力がかかることはなく、夜風が肌をなでていくばかりだ。
花火と目線が同じ高さまで来たところでレールは弧を描いて、直下する。空気を切り裂く音が耳をふさぎライドはみるみるうちに地面に迫っていく。
このままじゃ――
「大丈夫、僕を信じて――」
瞼を力強く閉じて、成美の手を強く握りなおした。それに応えるように成美も強く握り返した。
「それじゃ、いくよ! 夏の始まりだ!」
衝撃に備えて体に力を入れるが、それは徒労に終わる。
「目を開けてごらん」
少年の沈静した声音に安堵感を覚え、恐る恐る目を開けると俺たちは思わず言葉を失った。
俺たちは、透き通った海の上を走っていた。
ゆっくりと動くライドから下を見遣ると、見たことのない色鮮やかな魚たちが自由闊達に泳いでいる。見上げると、どこか見覚えのあるノートが翼を携えて、海を反射したような蒼天を鷹揚に飛んでいる。綿菓子のような白い雲もゆっくりと風に流されていた。
「あの雲が食べたいかい? 手を伸ばしてごらん」
少年の言う通り俺たちは雲に向かって手を伸ばした。そこには確かに触れた感触がある。
「これ、綿菓子だ」
「私のはかき氷」
「ほらほら、食べてみてよ。シロップは海から掬えばいいよ」
躊躇うこともやめて、俺は手に取った雲を頬張った。口の中で一瞬で蕩けて、甘みが口いっぱいに広がった。全てを飲み込むと、体は幸福感で満たされていく。成美は片手の平に雲を携えて、もう片方の手を海に伸ばし海水を掬い上げると、淡白な赤色へと変化した。
「成美ちゃんはイチゴ味が好きなんだね」
毒見がてら人差し指を少しつけてなめてみると、確かにイチゴの味がした。成美はかき氷にシロップをかけ口に運ぶと、味をかみしめて笑みをこぼしていた。そして俺たちは互いの手に持っていた食べ物を交換して、味を共有して、笑いあった。その純朴な笑顔に、見惚れてしまう。
――チリン
風鈴の音が頭の中に優しく響いた。
「ほら、つぎつぎ! 時間はないんだから!」
海と平行になっていたレールは、海中へと伸びていく。
「息を大きく吸って、しっかり止めておくんだよ」
息を大きく吸って、止める。清澄な海中にライドは速度を上げて潜っていく。鼻で水を少量吸ってしまい、えずくように空気を吐き出した。それがなんだかおもしろくて、頬を膨らませている成美と顔を合わせてまた笑いあった。
深く潜っていくと、やがて光は届かなくなり辺りは闇に包まれた。
「よし、もう変わったから大丈夫、息を吸っても問題ないよ」
ぷはぁ、と息を吐き呼吸を整える。視界は完全に遮断され、頼りになるのは声と、握った手の感触。ライドが進むにつれて光源が現れ始めた。それは星散していて、徐々に光力を強めていく。
「よく見てごらん」
注視して眺めると、それがなにかすぐにわかった。星だ。
「あたりを見渡して。あれが夏の大三角形、あっちが天の川」
深海に広がる星々が時間という概念を忘れさせる。
「成美、見えてるか?」
「圭吾くん、これ、すごい」
俺たちはあまりの美しさを目の前に言葉を失って、感涙した。
「君たちは僕と一緒に、同じものを見て美しいと思い、同じものを味わっておいしいと思い、同じ高揚感を共有したんだ」
直後、星々の間を縫うようにして泳ぐ翼の生えたノートが見えた。しかし、先程とは違い翼がやけにやつれている。
刹那、視界が急に揺らぎ、意識が遠のいていく。成美が必死に俺の名前を呼んでいるが、その声もどんどん遠ざかっていく。
「圭吾くん! 圭吾くん! 圭吾くん!」
荒波のように視界は揺らぎ、成美の声に重なる様に、聞きなれた声が耳朶を打つ。
「圭吾くん! 圭吾くん! けい……けいご……けいご! けいご! 起きなさい!」
俺は目を見開いて飛び起きた。隣ではお母さんが呆れた顔でこちらを見ている。
「あんた、もう成美ちゃん来とるよ! 課題手伝ってもらうんやろ!」
枕元にあるスマホを急いで手に取り電源をつけると――
八月三十一日
勉強机には手つかずになっている課題が山盛りになっている。
今日で夏休みは終わりなんだ
夏休みって、あっという間だ
Twitter→@mukai_ke1
去年の夏書きました。