復調の湖
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と、内容についての記録の一編。
あなたもともに、この場に居合わせて、耳を傾けているかのように読んでいただければ、幸いである。
うう、悪いな、だいぶ待たせたんじゃないか?
なんか急に腹が痛くなっちまって……昼飯、そんなに食べたつもりじゃなかったんだがなあ。思ったよりも、身体にダメージが溜まっているのか?
こういう苦しさがこたえるもんだから、最近は意識して食事の量を減らしているよ。
若い頃はそれこそ、がつがつ、むしゃむしゃといったもんだが、こういう腹痛とかに見舞われると、とたんに後悔するよなあ。食べている時が楽しかっただけ、余計にさ。
怖い怖い。気持ちいいことも、度が過ぎるとその後で苦痛を招きかねない。重々、承知しているはずなのに、止めることは簡単じゃないもんだ。
自分の思うがままにあろうとする。そこには俺たちが観測しきれない、大きな力が働くらしい。
そのことを俺が考えることになった、きっかけの話を聞いてみないか?
俺の父親は、結婚する前から胃痛持ちだったらしい。
できれば病院に行かずに治したい。けど、人に相談したくない。
そのため独自にリサーチし、温泉の水を飲む「飲泉」を試してみようと思い立ったそうだ。
繁忙期が終わるや、平日の有休を叩きつけ、3日間の扶養旅行に出かけたんだ。
父親が選んだのは、3つの源泉が湧いている温泉宿。宿泊できる館も複数あり、ちょっとした保養所としても通る、広々とした場所だったらしい。
父親が泊まったのは、個室ごとにかけ流し露天風呂が用意されている、一番上等な館。わずか10室程度しかなく、平日でなければなかなか開かない、人気のスポット。
そのうち、眼下に広がる湖を一望できる部屋へ、父親は通された。
訪れた時にはすでに陽が西へ傾かんとしていたが、その光を湖の水面が照り返して、またたくように輝く粒が漂っていたらしい。
すでにお土産物屋さんに顔を出し、飲むことができる温泉水を購入ずみの父親。それを水を飲み始めてからは、心なしか、お腹はおとなしくしていたらしい。
おかげで夕飯の料理を食べ進める時も、腹の具合のために箸を休めたり、席を立ったりせずに済んだとのこと。
あまり動きたくないので、あらかじめ部屋食でお願いしていた父。
最後の締めの釜めしが出てくる段で、給仕をしつつ、施設や地域のいわれを教えてくれていた女将さんが、妙なことを告げてきたんだ。
「もし今晩、風が強く吹くことがございましたら、安全確認のため、改めてお部屋を訪ねることがございます。ご了承くださいませ」
父親はその場ではうなずいたものの、内心では首を傾げていた。
外を見ると、窓のすぐそばに姿をのぞかせている笹の葉も、ほとんど揺れていない。風は出ていなかった。
女将さんが食事を下げ終わってから、一時間ほどして。
父親はここ名物の、個室温泉へ足を運んでみる。入り口こそ曇りガラスの引き戸というありふれた作りだったが、そこから先は、正に小規模温泉。
床材も風呂桶もヒノキで組み上げられ、その脇にあるカランやシャワー、鏡、洗面桶たちの間に、一切の間仕切りなし。父親個人は、ボタンによる自動停止式のカランを見て、「おお、温泉だ!」と思ったとか。
湯船と外を隔てるのは壁としての機能も兼ねた、大型の窓が四枚並んでいるのみ。そのうちの一枚は開閉が可能で、なんとその先にも、室内と同じような形の風呂桶と湯口がついていて、今もお湯をどんどん吐き出し続けている。
――個室ひとつに、露天含めた温泉ふたつとか、贅沢過ぎるだろ。
さすがの父もいささか浮かれて、髪と身体を洗い終えると、外の温泉へ。
近づいてみると、湯口の横には「源泉」と文字が彫られていて、湯船そのものもジェットバス。数か所で勢いよくお湯が噴き出しながら、父を待ち受けていた。
風呂桶が置かれた「すのこ」より先、数十センチには手すりがあり、つきそうようにススキとよく似た草が生えている。それを支える足たちの根元が、下生えに隠されているというのも、露天の雰囲気を醸し出していた。
そしてその先には、一面の湖。位置関係上、眼下の家々はちょうど下生えに隠れてしまうので、見えるのは自然にできたもののみ。
ちょうど自然の山々をコップに見立てると、湖はその中ほどまで注がれた、水を思わせる景色だったとか。その水面の中央には、かすかに月の光ものぞいている。
風呂の縁へ背中を預け、両足の太ももを溢れ出すジャグジーの上にかざし、ぷかぷかと足を浮かばせる父親。ほどよい湯の温度と、これまで溜まっていた疲れの流れ出しを感じて、つい、うとうとしかけた、その時だった。
手すりがわずかに「かたかた」と音を立てて、震え出す。つられてススキたちも、そよぎ始めた。ほどなく、お湯から出している自分の肩にも、涼しげな風が吹きつけてくる。
どんどんと勢いを増してくるその風は、風呂場の湯の表面を波立たせ、上半身を冷やしにかかってきた。心なしか、遠くに見える湖の月光もわずかにたわみ始めたような気がする。
今、出ると余計に身体が冷える。父親は代わりにざぶんと、頭だけを出して、身体の残りを湯船へと沈めた。ぬくぬくしながら、風が収まるのを待とうとしたんだ。
でも、すぐに思い出す。風が強く吹いたなら、女将さんが改めて部屋へやってくるかもしれない、と。
ややあって。ガラスの向こう、部屋の側から小さな音がしたように思えた。ガラスがブルブル、ブルブルと二回ずつ震える。
部屋のノック。おそらくドアが叩かれているんだ。だいぶ強い力で。
「何かあったか」と、父親が湯船から完全に立ち上がりかけたところで、今まで吹いていた風がピタリと止む。
その後を継ぐように響いてきたのは、「ポン、ポン」と、能で扱う「鼓」の音。
初めはひとつひとつの音に、ある程度の間が開いていたものの、じょじょに間隔は短くなり、やがて連打へ……。
「ご無事ですか?」
窓を開け、息せき切った様子の女将さんが屋内から出てくる。手には恐らく、ここの合鍵と思われるものを手にしていた。
とっさのことで戸惑う父を前に、女将さんは「急いでください」と手招き。父はろくに身体を拭くこともできず、風呂から上がることになった。
女将さんは瞬く間に、部屋中の雨戸を閉め切って、浴衣に着替えて座椅子に腰かけた父親と向き合う。
「申し訳ございません、参るのが遅くなってしまいまして。急なことで、大変恐縮なのですが、明日も当旅館にいてくださいますか? 連泊なのは承知しております。その上で、もし外に出る予定がございましても、どうぞこの館内にとどまっていて欲しいのです」
特に出かける予定のなかった父親だったが、理由を尋ねてみると、女将さんは非常に言いづらそうな顔をした。
「もし、今晩から明日の午前中にかけて、一度でもトイレに参って用を足すことができましたら、外に出てもよろしゅうございます。ですが、そうでない時は……」
とどまってほしい、ということなのだろう。
女将さんは、また明日の朝食時に来ること。その時までに用を足すことができたなら、ごまかさずに教えて欲しいこと。それまで飲食はできる限り控えて欲しいことを告げて、去っていったんだ。
「なんだ、その程度」と父親は思う。だが、一時間ほどしてやってきた尿意に関して、トイレで長く粘ったものの、結局、何も出ないまま、じきに引っ込んでしまう。
その晩は、同じことがあと三回続いた。
翌朝。細切れにしか眠れなかった父の部屋の戸を、女将さんがノックする。
トイレのことを訊かれ、ありのままを伝えた父親は、求めに応じて部屋の戸を開けた。
本来ならば洋食が用意されるはずの朝ご飯。それが椀に入ったおかゆと、ヨーグルト。そして、ここの飲用温泉水に変身してしまったんだ。
女将さんはいう。本日はこれ以外の食事を一切、摂らないでもらいたいこと。
なんとしても今日いっぱいで用を足して欲しいこと。もちろん、宿泊の代金はお返しすることを。
料金が返ってくるのなら、と父親は甘んじついでに、女将さんに昨日の変調具合も含めて事情を尋ねてみる。
女将さんも、詳しいことは分からないと前置き、話をしてくれた。
このあたりでは、風が強く吹く日に、突然、薙ぎとなってしまう場合がある。
そのような時、父親が耳にしたような「鼓」を連打するような音が、風の後から響いてきて、耳にした者の中には、胃腸の働きに異状をきたし、特に排泄ができなくなってしまうケースがあるとのこと。
「これらはいずれも、お腹にたまらない消化のよいもの。これらを召しあがり、どうぞお帰りになられるまでの間に、何としても用を足していただきたいのです。さすればそれが、臓器の復調された証となるのですから」
にわかに信じられない話だったが、女将さんは真剣そのもの。自身が用を足しに部屋の外へ出る時をのぞき、部屋にとどまり続けるという徹底ぶり。
始終、監視され続けた父親の肛門がようやく仕事をしたのは、夕方になってからのことだった。
数十分に及ぶ長い排泄の後、その便器の中には昨晩食べたものが、ほとんど形をとどめたまま、こんもりと小さい山になっていたとのことだ。
旅行から帰った後、父親は例の旅館の近辺について、知人や資料に当たってみる。
確証は得られなかったが、一部の伝承によると、あの「鼓」の音は近辺の山に住まうようになった天狗たちが打ち鳴らしているもの。彼らは山の上から湖をしょっちゅう見下ろしていて、特に月が映えるのを見て、喜んでいる、
それが風によって乱されると、無理やりあの「鼓」を響かせ、風と共に湖面の揺らぎを止めてしまうのだという。
その揺らぎを止める「鼓」の振動は、その時に水をたたえたものなら、なんでも影響を与える。たとえそれが胃液に満ちた、胃の中であったとしても……。
その証拠か、あの旅館が立つ前の近辺の山々では、昔から内臓破裂による死傷者がたびたび現れていたとか。それが、あの温泉の水を飲むことで、防がれることが分かったのだという。