エピローグ
三章は一旦これで終わりです。次からは四章が始まります。
「……そう。そんなことがあったのね」
事の経緯を聞き終えたエーデライトはしばし考え込むように顎に手を添えると、シャーロットに向けて試すような視線を送った。
「その少女の母親……ルアナという人物についてはどの程度分かって居るのかしら」
「先ほどお伝えしたとおり、数年前に鉱山を超えた先の町にルルを連れて現れて定住したクォーターエルフの女性で、機織り職人として生計を立てていたことくらいしか確たる情報はありませんが……私は彼女が、グローニア王国北の辺境、リヒテナウアー元男爵の娘であると考えています」
「……」
「女王陛下、貴女ならルアナさんの名を聞いた時に心当たりがあったはずですね?」
王妃教育の一環として、シャーロットの頭には自国のみならず、友好国全ての上流階級の家の情報が叩きこまれている。
リヒテナウアー男爵家は十年前、経済的に不安定になり、爵位を商人に売って平民に下った元貴族だ。その娘がルアナであると、シャーロットは半ば確信した目でエーデライトを静かに見つめ返す。
「そう思った根拠を聞いてもいいかしら? ルアナなんて、平民にもよくある名前だと思うし、クォーターエルフだって別に珍しくはないわ」
「あの町の神父様はこう仰っていました……ルアナさんは〝かーてぃ〟という方言を直そうとしていた時期があったと」
「……なるほど、そういう事ね」
納得と感心を同居させたような笑みを浮かべるエーデライト。そこまで聞けば、この国全てを掌握する女王にはシャーロットが確信を得た根拠を理解できた。
「〝かーてぃ〟という方言はすなわち、標準語に直せばカーテシー……貴族女性の挨拶を指す言葉です。そしてその方言が使われるのはグローニア北部、その貴族のみ。その中でエルフの血筋を取り入れた家となれば、おのずと答えに辿り着きます」
「ご名答。確かに、ルルという少女の母親、ルアナは貴女の想像の通りだという可能性は高いわね」
エーデライトはどこか満足そうに肯定する。
「元が付くとはいえ、一度爵位が与えられた貴族の行方は国によって把握されて然るべきです。その貴族がどのような国内情報を持っているか、定かではありませんから。その法案を世界中に発信した陛下なら、リヒテナウアー元男爵家長女、ルアナさんの没落後の行方もある程度はご存じかと思うのですが」
「ええ、知っていたわ」
過去形で告げられる。それはもう、エーデライトもルアナの現状を把握できていないという証だ。しかし、それは既に想定の範囲内だ。シャーロットは特に慌てる様子もなく問いかける。
「陛下が知っている範囲でいいのです。かつての約束通り、ルアナさんの情報を少しでも多く教えていただけませんか?」
「……本当ならその手の情報は漏らさないのだけれど、事が事だしね。エーデライト元男爵も大した情報を有していないし、影響力もないから……まぁ、いいでしょう」
そう言うと、エーデライトはシスターを呼んでシャーロットと共に客室へと案内されると、そこで静かに語り始めた。
「まず、私がルアナ元男爵令嬢の行方を把握していたのは、八年前まで。重要度の低さもあって、八年前から現在まで、鉱山の向こうの町に移住していたのは知らなかったわ」
「なぜ情報が途絶えたのですか? 報告を受けるほどの重要性が無かったからでしょうか」
「そうね。没落後は貴族として養った教養を以てして、私の従兄弟でもあるメイナード家に侍女として雇われたけれど、その一年後に務めていた屋敷も辞してアルストから引っ越していったわ」
ルアナから目を離したのは、情報収集の不便さもあっての処置だったのだろう。しかも当主ではなく令嬢でしかなかった娘。国に害する要素があったとはとても考えられない。
「……でも、それだとおかしいのよ」
「何がでしょう?」
「私は少なくとも、八年前までルアナの情報を持っていたのよ。でも私は、彼女が妊娠していたのは知らなかった」
それは確かにおかしい。何せルルは現在八歳なのだ。妊娠期間を含めればほぼ九年……侍女を辞めた時点で腹が膨らんでいたはず。妊娠なんて言う大ごとが情報としてエーデライトに上げられない筈もない。
「……もしかしたら、ルルはルアナさんの実子ではないのでは?」
「可能性としては一番あり得そうね。その子をここに呼んできてもらえるかしら」
「はい、ただいま」
慌てて別室に待機していたルルを呼びに行って、彼女の背中を優しく押しながら戻ってきたシャーロット。
「ルル、こちらに居られる方はこの国の女王であらせられる、エーデライト陛下です。ご挨拶を」
「……はじめまして」
困惑しながらもペコリと頭を下げるルル。そんな彼女の姿をマジマジと見つめると、エーデライトは信じられないと言わんばかりに瞠目した。
「亜麻色の髪に翡翠の瞳……それにその顔立ち。……貴方まさか、アメリアの……!?」
「アメリア……? それは確か、メイナード夫人の……」
そこまで言われて、シャーロットはハッとした。一体何の話をしているのか分からずに困惑するルルをさりげなく退室させると、手で顔を覆って俯くエーデライトに慎重に話しかける。
「ルルは、夫人にそれほどまでに似ているのですか?」
「……ええ。私の従兄弟の妻で、八年前から顔を見せなくなったアメリア・メイナードの面影が確かにあるわ。確証はないけれど、あの子がアメリアの子供で、何らかの理由があってルアナの子として育てられている可能性がある」
もしそれが事実なら、国内規模での大ごとだ。悪い方向に視野を広げれば、グローニア王国重臣の娘が誘拐され、それが八年以上発覚していなかったということになるのだから。
「……今思えば、おかしなことは九年前、アメリアが妊娠していたと思われる時期から続いているわね」
「おかしなこと……ですか?」
「メイナード家当主でありアメリアの夫だったマティウスが亡くなったのは知っているでしょう?」
「……そういえば、それも八年前から九年前の間でした……!」
偶然の一致……その一言で片づけるには違和感と嫌な予感が強すぎる。確証は確かにないのだが、確信に似た推測が頭の中で過った。
「死因は公表しなかったけれど、マティウスの死因は魔法スキルを用いたと思われる暗殺によるものだった。その代わりに当主を継いだのが弟のルキウスなのだけれど……ルキウスは兄を疎んでいたのは有名だったし、死因が死因だから私たちはマティウスの死にルキウスが絡んでいると睨んで調査したわ」
「その様子だと……証拠は見つからなかったのですね?」
「情けないことにね。結局証拠は出てこずに調査は打ち切り。当時は妊娠していたのに、夫を失って心を病んだ影響で流産してしまったアメリアは、そのまま生家であるローレンツ侯爵家の別荘で療養を続けていると聞いたのだけれど……」
今の時世、調査の眼を欺くことは容易い。スキルや魔道具の力があれば、誤魔化しも容易なのだ。恐らく、流産に関しては嘘なのだろう。
「勿論、我が国の宮廷魔術師も出張ってきたわ。でも、もし仮に目を掻い潜って……いいえ、調査員の中に潜り込むことで、より確実に証拠を隠滅でき、尚且つ疑いがありそうな言動を見せる人物がいるとするなら……心当たりがあるわ。ルアナの行方も、彼を辿ればわかるかもしれない」
「それはいったい誰なのですか?」
一国の闇の中に足を踏み込むようなことをしている自覚はあるが、それでも悲しみに暮れる少女がいる。その涙を拭うために身を乗り出すシャーロットの瞳を見つめ返し、エーデライトはその男の名を口にした。
「アメリアとマティウスの婚姻によってルキウスと親交を持った、ローレンツ侯爵家次期当主にして、マティウス殺害事件の調査にも参加した宮廷魔術師団のエース。アメリアの弟であるカーネル・ローレンツよ」
カーネルには前世、前々世、そのさらに前の生の記憶がある。その記憶の中の彼は生まれてくる身分こそ違えど何時だって華々しい生を謳歌しており、その栄光の陰にはいつも姉がいた。
姉はいずれの人生も惨めな最期を迎えていて、それを見た自分は晴れ晴れしく笑っていたのだが、最も古い記憶を辿れば、そこに居るのは逆の立場……幸せそうに笑う姉と、体の弱い惨めな自分だ。
彼は姉が嫌いだった。妬ましかった。体の弱い自分は両親の愛情を一身に受けながら生き、姉には一切の甘えを許さずに常に我慢を強いていていた。それだけ聞けば彼は健康のこと以外は恵まれていたとも言えるだろう。
いつの時代の家庭でもよくある、姉弟間の差別のようなものだ。それをまかり通る父母によって育てられてきたからか、彼にとって姉とは見下し、搾取する存在でしかなかった。自分が欲しいと言えば姉の私物でも自分の物に、姉の記念日であったとしても自分が少し我が儘を言えば無かったことに……狭く小さな一つの家庭という箱庭の中で、彼は自分が神に等しい存在であると本気で思い込んでいたのだ。
初めはそんな小さな歪み……それが神様気取りであった自分を苦しめるようになったのは、姉が成長し、家の外を知るようになってからだった。
彼にとって、自分の欲求によって浮かぶ、姉の惨めな表情と姿が生活の一部であり、愉悦でもあった。それが外に遊びや働きに出るようになってからというものの、鬱屈とした表情を見せる事もなくなり、代わりに自分を憐れむような目で見てくるようになり、彼にはそれが心底不快でならない。
まるで可哀想なものを見るような目で見てくる……それが気に入らなくてさらに我が儘を言う度に穏やかに諭そうとする姉を見る度に、胸の奥から黒いヘドロのような不快さが際限なく溢れ出てくる。
(これではまるで、僕の方が惨めな存在のようじゃないか!)
自分の方が上のはずだ。父にも母にも愛され、何でも望みを叶えられる自分。大して姉は何を訴えかけても蔑ろにされる。だから自分の方が偉い。だから自分の方が惨めだなんてある訳がない、惨めなのは姉の方だ……そんな真実子供の根拠は、家のベッドの上から外を眺められる、窓の向こうの景色によって砕かれる。
窓の向こうに見える姉はいつだって楽しそうに笑い合う大勢の人々の中に混ざっていた。それはまともに家の外に出ることさえ叶わない彼には得たくても得られないモノ……それを姉が持っていて、しかもいくら両親にお願いしても手に入らない。幼心にそれを突き付けられた瞬間、彼が持つ歪みが徐々に大きくなり始める。
(今まで姉の物で、僕が手に入らない物なんかなかったのに……!)
自分は神同然の存在だったはず。だというのに全然思い通りにならない。それどころか、姉の物を奪いに行こうと外に出ようとしても、弱い体はすぐに息を切らして家に出ることもできない。凄まじい屈辱に燃える彼は、これも全て姉のせいだと無理矢理心に落としどころを作ることでしか自我が保てなかった。
それでも彼はまだ恵まれた存在だった。成長するにつれて体も改善していき、虚弱ではあるが外を出歩く事ができる程度にはなったのだ。これで姉が手にしていたものを自分も手に入れられる……そう思ったが、現実は違った。
諭す姉の声を払い除け続け、両親に叱られることが一度もなく甘やかされ続け、それを当然のものとして享受してきた彼の性根は歪みに歪み、初対面の相手に自分本位の価値観を押し付けるように接し続けたのだ。
さながら王のようにああしろこうしろ。自分に逆らうな……と、傲岸不遜な態度を取り続ければ、周囲が疎むのは当然のことだ。それが虚弱で何の取り柄もない男が言えばなおのこと。
しかし彼にはそれが分からなかった。そうなるのが当然であると、教えられなかったからだ。そんな彼の耳に人々が口々に言う陰口が入る……姉はあんな人格者なのに、なぜ弟だけはああも愚かなのか、と。
それは体同様に心も弱い彼を徹底的に打ちのめした、人生で初めて聞く自分への辛辣な言葉。それに反発し続ける度に人々が彼を見る目は冷たくなっていき、あれだけ自分を甘やかした父母ですら世間体を気にして自分を甘やかすのを止めた。
正真正銘の孤独……この虚弱な体では暴力で苛立ちをぶつけることすらできない。唯一彼を気に掛ける姉の存在すらも煩わしいものにか感じなかった。……その時彼は、生まれて初めて惨めなのは自分であると知った。
(どうしてだ……! どうして姉ばかり……! そんなの、ズルい……!)
他人からぶつけられる冷たい視線を恐れて家に引き籠りがちになり、それとは対照的に、姉は結婚が決まって幸せの絶頂にいる。このまま自分は惨めに死んでいくしかないのか、なんとかして姉を引き摺り下ろし、昔のように自分が敬われるような日々が訪れないのか、そんな事ばかり考えていたある日。
『そう……君はこんなところで惨めに生を終える存在などではないのだよ』
本物の神は、彼の前に現れた。




