とある女の過去 其の二
『それではお嬢様、私はこれで失礼させていただきます』
『……はい、マダム。本日はありがとうございました』
弟の誕生を機に一斉に居なくなった講師たちの中でも数少ない、淑女教育を担当していた伯爵家の夫人は、どこか憐れむような視線と共に一礼し、部屋を後にした。
以前までなら、この後に領地運営、国内外の世情といった嫡男や男子が受けるような教育の時間だったのだが、今はそれもなく、彼女はただ持て余した時間を呆然と過ごすようになっていた。
『……勉強。そう、勉強をしなくちゃ』
時間を持て余したのなら、少しでも自習しろ。それが将来良き領主になるために必要な物なのだ。
そう、物心ついたころから父母に説かれ続けた教えは、今や彼女の強迫観念に似た習慣であり、急かされるように本棚に手を伸ばそうとしたのだが、そこでふと思い出してしまう。
『……私にはもう、必要ない事じゃない』
何度目よ……と、彼女は自嘲する。
弟が産まれて早くも二年が経ち、十三歳となった彼女は、領地運営の歴史や参考書などで一杯になっていた昔の本棚とは違い、殆ど空になった本棚の前でただただ立ち尽くす。
弟が産まれた初めの一年は、自分こそが公爵家の跡取りであると父母に認めさせようと躍起になった。講師から遠ざけられても、ただでさえ厳しかった勉強やレッスンを自習で何倍も厳しいものにし、寝る間も食事をする時間も惜しんで、休息も無しに当主に相応しい人間になろうとした。
弟が産まれようが関係ない。能力一つで特例を作り、女だてらに侯爵になろうとしたのだ。途方もなく優秀な人材になれば、父も王も公爵の座に座ることを許してくれるに違いないと信じて。
『もういい! 止めろ! こんなもの、貴族の娘が学ぶようなものではない!』
『いい加減にして頂戴! 剣を握り、馬で駆け回るようなお転婆な娘だと周囲に知られたら、嫁ぎ先まで無くしてしまうわよ!?』
しかし、弟が産まれる前まで使用していた木剣を両親に隠れて振るい、男装をして馬に乗り、自己流で乗馬の練習をしていたところを両親に見咎められてしまい、木剣も馬も書物も、全て没収されてしまった。
これではもう何も出来ない。同い年の子息子女と比べれば優秀ではあるが、それでもまだ子供の域を出ない彼女が力を身につけるための道具全てを奪われてしまい、彼女はますます途方に暮れて過ごすことしかできなくなったのだ。
彼女の生活は何もかも変わってしまった。これから一体、何を目指せばいいのか……彼女にはまるで分らなかった。
『……た、誕生日おめでとう。何か、欲しいものは無いか?』
『そ、そうね! 今までちゃんとお祝いしたこともなかったのだし、これからは豪勢にしなきゃね!』
変わったと言えば両親もそうなのだろう。ただただ厳しいだけだった両親が急に優しくなった。まともに誕生日を祝われることなど、今までで一度も無かったことだ。
『……次期領主の座を、私に返してください』
だからだろうか……無理なことと分かっていても、欲しいものと問われれば、そう答えた。それ以外に、何も欲しくはなかった。当主になるためだけに生きてきたのだ。
……だが、両親はただただ表情を歪ませ、何も言えずに沈黙するだけだった。
やがて両親は彼女にどう接すればいいのか分からず、年の離れた弟ばかりを可愛がり、長女は放置されるようになった。
要するに、両親は徹底的に厳しく接してきた娘と向き合うことから逃げたのだ。今更そこまで努力する必要もないからと優しくしようとしたものの、どう接すればいいのか分からなかったのだろう。
そして厳しくし過ぎた長女の教育は失敗したと判断し、弟はかなり甘やかされて育っているように見える。家族共々中庭で談笑するなど、彼女からすれば誘われることもなければ混ざる気にもなれない他人事。窓から眺めるだけの光景に過ぎない。
そんな光景を遠巻きから眺めながら幾年月が経ち、彼女は社交界に出る歳になった。その頃には、両親の方から彼女を避けるようになっていたが、彼女は関係を改善しようという気がまるで起きない。
自分が原因となって、家庭に陰を落としていることは理解している。これまで教わった淑女教育通りにするのなら、自分の方から妥協して前向きに物事を捉え、私情を押し殺し、貴族として良縁を結ぶべきなのだ。これまで間違っていないと信じて疑わなかった領主としての教えに沿って考えても、そうするべきなのだ。
それでも、彼女は簡単に割り切ることが出来なかった。簡単に割り切るには彼女は若すぎたし、当主を目指した日々は余りに濃密過ぎたのだ。
『諦めろですって……? そんなの、分かってるわよ……っ!』
常識として諦めろと囁く理性と、諦められない本音が交じり合い、一向に前へ進むことが出来ずに月日は流れ、淑女教育を終わらせた彼女はとうとう部屋から滅多に出て来なくなった。
『お嬢様。あなたは鬱病を患っておられます』
幾度か誘われてはいるものの、他の貴族の娘なら勇み足で臨むであろう社交界に出る意欲はまるでわかず、かといって他にやりたいと思える事も一切なく、時間がある時は何をするでもなく椅子に座って時間が経つをの待っている彼女に、侯爵家が懇意にしている医師はそう告げた。
重くはないが軽くもない。平民ならいざ知らず、貴族令嬢としては致命的になり得る心の病に、両親も頭を抱えたが、それでも彼女は変わらない。
それからすぐに彼女が病弱だという噂が社交界を駆け巡り、侯爵という高位貴族の娘にも拘らず、彼女と婚約しようと思う者も現れようとしなかった。義務として社交界に出てはいるものの、見るからに気力のない顔を見ては、やはり噂は本当だったと大勢の者がそう思ったのだろう。
『紹介しよう。今年メイナード侯爵家を継ぐことが決まった、マティウス君だ。お前をぜひ妻にと、熱烈に望んでいてな』
しかし、鬱病を患ってから数年が経ち、結婚適齢期を過ぎようとしていたある日、今まで滅多に顔を見せようともしなかった父が、やたら嬉しそうにしながら一人の貴族を紹介してきた。
煌びやかな金髪が特徴の、貴公子然とした美丈夫だ。一応貴族令嬢として他家の情報は最低限知ってはいたが、顔を合わせるのは初めてだ。
よくこんな若く見目麗しい結婚相手など連れて来れたと驚いたと同時に、父母の表情が気になった。親としてようやく娘に何かをしてやれたと思っているのか、それとも厄介の種になりかねない愚女を押し付けられる相手が見つかったからか、それを判別するには、彼女と両親の関りは余りに希薄だ。
『初めまして。私の名前はマティウス・メイナード。これから末永い付き合いをお願いしたい』
会話したこともなければ、面と向かって会ったこともないはずのマティウスが初めからやけに好意的な態度を取っていたことに、彼女は真っ先に疑念を抱いた。
何故自分などを娶ろうとするのか。曰くつきの令嬢など、高位貴族の娘であっても嫌がられるというのに……その疑問は父に言われて庭を案内している時に解決した。
『…………なぜ私などを妻にと望んでおられるのでしょうか? やはり、侯爵家との繋がりによって得られる利益でしょうか?』
それは貴族令嬢ならば当たり前のように行き着く考えだ。しかし、当のマティウスは照れ臭そうな表情を浮かべながら告げた。
『実は社交界で見かけた時から一目惚れをしてしまって……ご存じの通り、貴族の結婚は政略が付き物ですから、父に許可が貰えるのか心配だったのだが、君の家が位の高い家だから何とか婚約の許可を貰えたよ』
だから利益は手段であり、物のついでだ。本命は君なのだ。
そう彼女に告げたマティウスは、頻繁にアプローチを繰り返すようになった。何が楽しいモノなのかもよく分からない彼女を色んな場所に連れ出し、屋敷を訪れる際には毎度毎度違う手土産を必ず持ってきたり、時には貴族の子女を狙う悪漢から身を挺して守ってくれたマティウスに、彼女は徐々に心を開くようになる。
もちろん、最初は疑念があった。なぜ自分なのかという疑惑があった。だがそれも次第に気にならなくなっていた。
無趣味無気力で、誰とも深く接することのない、無味乾燥な半生を送ってきた彼女にとって、一心に自分を愛して新しい世界を見せてくれるマティウスは実に新鮮で、同時に愛しい存在へと変わっていくようになったのだ。
『必ず私が君を幸せにしてみせる。だからどうか、私の妻になってもらえないだろうか?』
『……はい。不束者ですが、よろしくお願いします』
次期当主の座から外れ、全てに意味を見出せずにいた彼女の心の空白が埋まった時、彼女はマティウスのプロポーズを出会ってから一年後に受けることにした。その時に見せた彼女の笑みは、貴族の仮面を被った笑みではなく、一人の娘として生まれて初めて見せる、心からの笑みだった。
そして結婚式の当日。愛する人の隣で綺麗な白いウェディングドレスを身に纏う時も彼女は笑っていた。両親もようやく肩の荷が下りたと笑っていた。マティウスだって変わらず微笑んでくれていた。そしてまだ幼かった弟も、純粋に姉の幸福を祝福してくれた。
この時には、両親が良かれと思ってマティウスを紹介してくれたのだと信じられるようになり、あんなにも疎ましく思っていた弟が、ようやく家族だと思えるようになったのだ。
その日は本当に皆が幸せを分かち合っていた。皆が皆、この先に広がるのは幸福な結婚生活であると、信じて疑っていないのだと……そう、彼女は思っていたのだ。
…………だが、ここからが彼女の悪夢の本番だった。
先日、ルルにアルストまで共に母を探しに行かないかと提案した時、彼女は無言で頷いて了承した。結局のところ、シャーロットはルアナの顔を知らないので、人探しには顔を知っている者の力が必要だったのだ。
しかし鉱山を超えるための通行許可証が届くにはまだ日数がある。それまでの間、教会の手伝いをしながら空いた時間でゼオを探そうと考えていたシャーロットだが、礼拝堂掃除の最中、共に雑巾で長椅子を拭いていた神父に、思い出したかのように問いかけた。
「そう言えば神父様。昨日は聞きそびれたのですが、なぜ今山道は通行止めになっているのでしょう?」
ルルの事で聞き忘れていたが、本当なら真っ先に確認しようと思っていた事項だ。もし危険があるのだとしたら、場合によっては当初の予定を変更しなければならないかもしれない。
「あぁ……実はここ最近、鉱山の方から大きな魔物の声も聞こえてくるという方が多く、危険かもしれないからって通行止めになったんです。商人など一般の方は通行証に加え、冒険者の護衛付きという条件で通れることになっているんですよ」
「大きな魔物……ですか」
首から提げた爪のペンダントの向きから察するに、ゼオである可能性も高い。
「山道にも魔物除けの魔道具があるのですが、一応ね。この町まで届くようなとんでもない咆哮でしたから、声量から察するに、かなりの大型なんじゃないかって言うのが、以前この町に訪れた冒険者の方の見解です」
「それは何時ぐらいの事ですか?」
「正確な日にちまでは気にしてなかったので覚えてないのですが……大体、一~二ヵ月ほど前でしょうか」
シャーロットはペンダントをぎゅっと握りしめる。神父に悟られないよう、彼に背を向けて俯く表情は、思わず泣きそうなものになっていた
(……ゼオ……っ。そこに……その山の近くにいるのですか……っ?)
その話が事実なら、時系列的にもゼオが光に呑み込まれて姿を消した日と一致する。シャーロットは冷静に事態に対応するために、逸る気持ちを必死に抑えつけた。
「つい二十日くらい前まではあの山でも魔物の咆哮が聞こえていたのですが、最近は聞こえる頻度がめっきり減りましたね。エサが無くて引越しでもしようとしてるんじゃないでしょうか? 大きな魔物が出たと言う割に、怪我人などが出なくて何よりです」
それはそうだろうと、シャーロットは内心で納得する。現状ではあくまで仮にだが、件の魔物の正体がゼオなら、無防備な通行人に襲い掛かることはしないだろう。彼が人に危害を加えることがあるとすれば、それは戦う時。誰かを守る時だ。
「ですが最近、妙に大型の魔物の情報が見られましてね。シスターも十分にご注意ください」
「他にも要注意の魔物が居るのですか?」
「はい。ごく最近では、鉱山周りの森の動物たちが一斉に外に出てきた事と、大きな足跡が見られたことから、森の中に大きな魔物が住み着いたんじゃないかってギルドの方からも注意喚起がありまして。……それに、半年前の魔物もまだ討伐されたという知らせはないですしね」
「半年前の魔物?」
丁度ルアナが失踪した時期だ。それが少し気になったシャーロットは神父の方に顔を向け、話の続きを促す。
「ルアナが失踪したすぐ翌日、鉱山に凄く大きな魔物が現れたという情報があったのですよ。この町からは見えませんでしたが、アルスト方面から見ればハッキリと全体像が見えるくらいに接近していたらしく、代々グローニア王国の大臣としてアルストに詰めているメイナード侯爵主導の下、討伐隊が打って出たそうですが、撃退は出来ても倒しきることは出来ず、かといって鉱山から出た足跡もないんです」
「それは大変な出来事でしたね……この町への被害などはありませんでしたか?」
「幸いにも皆無……と、言うべきでしょうか。 魔物の姿が見られたのは鉱山の反対側、アルスト方面なので、この町からは姿を確認できてないんです」
シャーロットはその魔物について、ルアナ失踪と何らかの関係があるかどうかを考えたが、すぐに否という結論に至る。ルアナが魔物除けが設置され町を出る理由が未だ見られない以上、魔物関連の災難に巻き込まれた可能性は依然として無いに等しい。
「その魔物の事もあって、鉱山はすっかり閉鎖されてしまいましてね。その時も山道が封鎖されていたのですが、しばらく経っても魔物が姿を現さないので封鎖を解除したのですが、ここにきてまたしても魔物が出てきて……鉱山関連の仕事をされている方々は、非常に困っているのです」
それは確かに困るだろう。鉱山と言えば一国の金源にもなり得るし、事実としてグローニアでは鉱石の輸出が行われていた。シャーロットは鉱山か、その付近にいるであろうゼオを必ず見つけ出そうと、改めて誓うのであった。




