悪魔に魂を売った少女
久しぶりに扉が開くのを感じ、少女の魂はガラス瓶の中でぴょこんと跳ねた。
”ご主人さま……”
今日はここから出してもらえるだろうかと期待をしたところで、狭い部屋に入ってきたのはそれまで見たことがない者だった。
”ご主人さまじゃ……ない……”
少女は落胆した。
「おや、まさかこんなところに無傷な魂があるとは思いませんでしたよ」
そういう声はテナーで、ひどく耳に心地いい。人にあらざる美貌の主は男性の姿をとっていたが、おそらくその者も悪魔に違いなかった。
少女の主人は悪魔だった。願い事をかなえてもらうのと引き換えに、少女はずっとずうっと昔悪魔に魂を売ったのだった。
悪魔は最初のうち、少女の魂をガラス瓶の中に入れたまま側に置いてくれていた。時には人間の姿にし、身の回りの世話などをさせてくれたりもした。
けれど悪魔はしばらくすると少女に飽きたのか、物置と思われるこの部屋に少女を置いて姿を見せなくなった。
1人きりにされるのは寂しかった。せめて悪魔が寝ているであろう部屋の片隅にでも置いてほしいと思った。しかしそれは契約に入っていなかったから、少女は我慢した。
悪魔はごくたまに、この部屋を訪れた。その度に少女の魂は歓喜に震えた。連れて行ってもらえるだろうか。もしかしたら人間の姿にして身の回りの世話をさせてくれるかもしれない。期待する少女にけれど悪魔は無慈悲だった。
彼はいつもちらりと少女の魂を一瞥するだけで、必要な品物を取ると扉を閉めて出て行ってしまう。
”ご主人さま……”
身体があったなら、少女はとても切なそうな顔をして時には涙を流したかもしれない。
もう何を願ったかも思い出せないぐらい長い長い時が流れ、やがて少女の心はつれない悪魔のことでいっぱいになっていた。
この物置に訪れるのは主人である悪魔だけだったし、主人は1人で暮らしていた。悪魔同士が顔を合わせるのは縄張り争いの為だけと聞いたことがある。
ということは――
少女の魂はあまりの哀しみにふるふると震えた。
おそらく主人は目の前にいる悪魔に負けたのだ。
ただ屋敷から放逐されただけならいい。少女は主人の無事を心から願った。
「……自分のことは心配しないのですか?」
ビンを持ち上げ真近で彼女を見つめる悪魔を、少女は不思議そうに眺めた。
すでに自分は魂になっているのに何を心配するというのだろう。
ただ、契約したのは主人となので主人の元を離れるのは嫌だと思う。離れ離れになるぐらいなら消滅してしまいたいとさえ、少女は思った。
「それは困りますね。では私が食べてしまいましょう」
悪魔がそう言ってビンの蓋を開け、少女の魂を掴みだそうとした瞬間。
ゴオオッッ!! と激しい音がして物置の扉がめちゃくちゃに壊された。悪魔はその破片を全て避けると苦笑して散らかった床に降り立つ。
「おや? もう目覚められたのですか」
「……返せ、それは私のものだ」
少女の魂は現れた主人の様子に驚いて震えた。主人のいつも整っている姿はぼろぼろで、どこもかしこも乱れていて、そして全身怪我をしているようだった。満身創痍の主人の赤い目はぎらぎらと悪魔を睨んでいる。
「でも、この部屋の隅に置かれていましたよ。処分に困ったのでしょう?」
悪魔の無邪気な言葉に少女の心は少し傷ついた。主人は自分を処分しようとしていたらしい。
「……違う。お前も、そいつの言うことに傷つくんじゃない。……帰ってこい」
ぶっきらぼうに言われて、少女は歓喜した。まだ自分は彼の側にいてもいいようだ。
ビンの蓋がほんの少し開いているのを確認して、少女は初めて自分の意志でビンから出た。
「おや?」
”ご主人さま!! ご主人さま、ご主人さまぁっ!!”
何故悪魔が少女の動きを阻まなかったのかとかそんなことはどうでもよかった。少女の魂は全力で主人の元へ駆け、その胸に飛び込んだ。
途端、今にも倒れてしまいそうな程ぼろぼろだった主人の体が、服も髪も何もかも一瞬で元に戻ったのである。
「……え?」
驚く少女の魂もまた、久しぶりに実体を持ち主人に抱き止められていた。
パチ、パチと手を叩く音がして、少女は振り向こうとしたが主人の大きな手に阻まれてしまった。
「……おお、愛の力ですね」
「口にすると陳腐だな」
主人は悪魔の言葉に毒づいた。
「せっかく勝ったので全部もらおうと思ったのですが気が変わりました」
「あ?」
「是非その子を傷つけてください。そうしたらなかったことにしましょう」
主人は更にきつく少女を抱きしめた。
傷つける、とはなんだろうと少女は思う。でもきっと主人の側を離れる以外につらいことなんてないはずだ。
「……私に覚悟をしろと」
「そこまでは言っていませんよ。でももうその子は貴方一色だ。責任をとってあげてもいいのではないでしょうか」
「……これは私のものだ」
「知っています」
少女にはさっぱり会話の意味がわからなかった。でもなぜか悪いことではないような気がした。
悪魔は主人と何やらやりとりをすると、優雅な仕草で頭を下げ姿を消した。頭上から主人が深いため息をつく。
「あ、あの……ご主人さま、その……大丈夫ですか?」
「……大丈夫じゃねえ」
「え? あの、何か私にできることがあれば……」
おろおろしながら主人を窺う少女はずっと彼の腕の中で。
「……食わせろ」
「え?」
低い声で主人が呟いた途端、かつて掃除したことがある彼の寝室に移動していた。
「……ご主人さま?」
「もう、黙れ」
そうして少女は悪魔の主人においしくいただかれてしまった。
後日、悪魔が再びやってきて少女を確認した。
「……大して傷ついてませんね」
「ついてるだろうが」
「見えるか見えないかですが……まぁいいでしょう。ではまた」
「二度と来るな」
主人に食べられたせいで少女の魂にはほんの微かな傷がついた。でもそんなこと少女にはどうでもよかった。
「ご主人さま、あの、そろそろごはんの支度を……」
あれから主人は少女を離さなくなった。腕の中に囚われて食べられる日々は少女にとってひどく甘い。
「いい。お前を食べる」
物置で長い間放置されていたのがもう遠い出来事のようで、少女は微笑む。この主人はどうやら少女を傷つけたくなかったらしい。
なんて不器用な少女の悪魔。でもそんな優しい主人が彼女は好きで好きでたまらなくて。
「……ご主人さま、大好き」
吐息交じりに呟けば、嘆息される。そうしてまた少女は、余すところなく主人に食べられてしまうのだった。
Love Love End.