第八話
「そういえば、あなたって一人暮らしなんですか?」
一部屋プラスダイニングキッチンの青年宅には、ロロナと青年以外の人の気配はしなかった。
「そうです。実家からだと、大学まで遠いので」
「ああ、大学生なんですね。大学の講義に魔術を扱ったものってないんですか?」
「ないですよ。錬金術なんていうエセ化学を歴史で学ぶ程度です」
「えー! つまんないですね、それは。あーあ、もしこの世界で魔術が学べるんだったらこの世界も悪くないと思えたのになー」
「よっぽど魔術に未練が」
「当たり前ですよ。だって、あの小日向家の血統を受け継いでるんですよ、わたしは。ああほんと、なんでも見透かしたような態度とる親むかつく。べつに、パパとママのことは嫌いじゃないけど、恨むまでじゃないけど、教育方針にだけは従えないです。わたしの場合べつに、学校行かないとか、そんな幼稚な真似で反抗はしなかったけど、何かしらの手段で見返してやりたかったんです。教育さえ受けることができれば、わたしにだって魔術を使いこなせるって証明したかった。だから、わたしは、高校の普通科から、特別科、要は魔術師養成コースへの転入を狙いました。特別科への転入は、特別科の最高責任者室に一人でたどり着けば認められるって噂があって、わたしはそれを信じて、普通科の女子寮を命がけで抜け出しましたから。まあ、特別科に着いたら着いたで、侵奪者と遭遇して、特別科の誰かが仕掛けたのであろう魔法陣に逃げ込んで、まあ、侵奪者にとりつかれるっていう最悪の状況は免れたんですけどね。あーほんと魔術が使えていれば侵奪者なんてイチコロなんですけどね。あー魔術学びたい、ほんとに。そのためにも、あっちの世界に帰らないとーって感じです」
「思ったんですけど、魔術が使えないのに、どうやってきみの世界に帰るんですか?」
「ある魔法陣を踏んでとばされる先はいつも同じなんです。で、飛ばされた先にある魔法陣を踏むと、必ずもとの場所に戻るんです。魔法陣のテレポート先は決まってるんです。だから、あなたの部屋の押し入れに魔法陣を描いてそれを踏めばわたしはもとの世界に戻れます」
「でも魔術が使えないんだったら」
「鈍いですね。さっきも言いましたけど、わたしはあたしの魔力を使うとは言ってませんよ」
「そしたら誰の魔力を……」
「お茶、おかわり」
「はい、わかりましたって、あれ……あああ!」
青年は、座布団から腰を浮かし、ロロナが使っている湯飲みを手に取ろうとした――が、湯飲みは見事に青年の右手をすり抜けた。
「どうしたんです?」
「手が、手が!」
湯飲みが虚像だったわけではない。青年の右手が実体を失っていた。手首から先が、青年の気づかぬうちに消えていた。
「これはこれは、大変ですね」
「な、ななな何なんですか、これ、僕の手がぁあ!」
青年は平生を失いかけていた。左手で右手首を強く握り、目を大きく見張っていた。
「ファンタジーとやらですよ、あなたにとっての」
「は? ファンタジーってまさか……」
「察しが良くて助かります」
ロロナもすっと座布団から立ち上がったが、青年とは対照的に落ち着き払っていた。まるで、こうなることを知っていたかのような表情だった。
「そうです、あなたは今、侵奪者によって、体を支配されつつあるのです。体の一部が消えてなくなるのはその一次傾向ですね。もうじき、あなたの意識は薄れていき、二十四時間以内にあなたの意識は完全に消えてしまいますよ」
「そんな、嘘だ!」
完全否定しなくても……と、ロロナは口をへの字に結び不快感を示した。
「あなたって人はここまで来てもわたしの言葉が信じられないんですか? あなたの意識がこのまま消えてしまったら、いろいろと手遅れなんです。それに、あなただって本当は思い当たる節があるんでしょ? わたしが、不吉な予兆がないか、尋ねたとき、はっとされましたよね?」
「それは、その」青年の目が泳ぐ。
「やっぱり……。まあ、いいですよ。わたしのこと、侵奪者のこと、いろいろと信じられないのならそれでいい。でも、さすがに今がまずい状況だってことは、理解してるんでしょ? あなたの目は、死に怯える人間のそれだから」
「ん……」
「あなたは死にたくない、これだけは確かでしょ? だったら、わたしの言うことを聞いて? できる?」
少ししたのち、青年は真一文字にしていた口を開いた。
「……わ、わかりました」
「あなたの意識が、確かなうちにしたいから、さっそくはじめて行きます。あなた、自炊する」
「は!?」
「いいから答えて!」
「し、しますよ!」
「わかりました」
「ちょっ、どこへ!?」
「ただの準備です」
ロロナは一度キッチンに消え、ぎらつく何かを手に青年の前に立った。
「それは、く、果物ナイフ」
意識か無意識か、青年は一歩後ずさった。
「ちょうどいい大きさのがありました。これ使わせてもらいます」
ロロナはあまり器用な人間ではなかった。ナイフをカバー付きで持ってくるといった配慮ができなかった。しごく真剣な顔で、しろがねの刃を光らせた。
「ちょっと待ってください! それで一体なにを! まさか、魔物を取り出すからって、僕の体を……!」
ロロナの刃は青年には凶器としか思えなかった。
「大げさです。まあ、ちょっとはあなたの体を傷つけることになりますが。とにかく、あなたの部屋に戻りましょう」
しかしロロナにとってそれは、命を救う「メス」であった。
「いやです」
きっぱりと断った青年にロロナは顔をしかめた。わかりましたって言ったじゃない……。青年への不満が顔に出てなお、青年は主張を止めなかった。
「僕にだって生きる権利はある! 正直、さっきからわけのわかんないことばっかり言うきみにはついていけない!」
「それが、あなたの答えですか? ここから逃げても、いいことはないと思いますけど? とりあえず、わたしは困ります。だから、あなたがどうしてもわたしに従ってくれないと言うんだったら、手荒くあなたを傷つけることになります。覚悟してください」
「はは、果物ナイフ一本持っただけで、きみは僕が言いなりになるとでも思ってるんですか? 笑止ですよ笑止。僕をそれで傷つけられるものなら傷つけてみろよ!」
不穏な空気が二人の間に漂いだしていた。そんな中青年は、素早い動作でテレビ台の引き出しを開け、黒塗りの何かを取り出した
「拳銃……!」
「きみは、この世界の住人じゃないんだよね? だったらここに戸籍だってないんだ。だったら、べつにきみが今ここで死んでもなんの問題もない。僕はこれで、きみを心置きなく撃つことができる」
一歩一歩拳銃を持って近づいてくる青年に対し、ロロナは知らず知らず応戦体勢を取っていた。柄の部分を両手で持ち、刃先を青年に向けていた。
「くっ……」
刃物を持つロロナの両手は小刻みに震えていた。
「おやおや、銃はあなたの世界ではファンタジーなんですか? そうですよね? あなたの世界には銃よりも何倍も強力であろう魔術がありますからねぇ。銃なんてゴミ同然ですよね? でもどうしてきみは、ゴミ同然の銃に怯えているんですか?」
「そんなわけ……」言葉に詰まる
「僕がむかつくんだったら、僕を傷つけたいんだったら、魔術を使えばいいじゃないですかぁ。あっ、きみって、魔術師の家庭に生まれながら魔術使えないんだったね。ごめんごめん、忘れてたよ」
「ふざけないで!」挑発的な言動にさすがのロロナも感情的にならざるを得なかった。「わたしを撃ったところで、誰も得なんかしない。あなただって、いいの? このままだと、死んじゃうんですよ?」
「きみに殺されるよりましという理論ですよ。そのナイフで僕の命を救う? 殺めるの間違いですよね、このインチキ魔術師が!」
「インチキって、わたしはただ、あなたにとっても、わたしにとっても最善の策を提案しようとしているだけなのに……」
怒りと悲しさと。刃物を持つ手に自然と力が加わる。
「この世界できみが死のうと僕に関係ないのと同じで、きみだって僕がここで死のうと我関せずなんですよね? どうせ、僕を利用して、きみの世界に戻れたらラッキーぐらいにしか思ってないんですよね! 女ってみんなそうだ。好きでもない男になんて関心ないし同情なんてありえない。そんな世界なんですよ! この世界は! それとも、違うんですか? きみの世界では、こんなイケメンでも何でもない男にも、情けをかけてくれるんですか? それこそファンタジーですよ! 笑止! 笑止! 笑止ですよ!」
青年の言葉はすべて戯れ言だと思うことで、少しは気が紛れた。落ち着いて、と心に命じる余裕ができた。わたしは別に、この青年と敵対したいんじゃない。もとの世界に戻りたい。これだけ。これだけのために、わたしは今ここにいるんだから。
割り切らないと。
「あなた、一体なにが」
聞く気もないのに、ロロナはあえて青年の話にあわせた。
「むかつくんですよ。本当は、僕のことなんかどうでもいいって思っていながら、自分の利益になるからってだけで、僕を利用する女が! きみだってそうだ! 僕が魔物にとりつかれているから、僕を利用してもとの世界に戻れるかもしれないから、こうして僕の前を離れない。違うんですか!」
「侵奪者にとりつかれている事実は認めるんですね」
「ああそうだよ! 右手が消えて、こうして頭までおかしくなってきたんだから認めるしかないだろ! 信じ
てもらえてよかったですね! 満足ですか? じゃあ、満足したところで、死んでくれよ。僕は、きみみたいな女は大嫌いなんだ。消えろ」
青年が最後の言葉を言い終わらぬうちに、ロロナは青年の懐めがけ前に飛び込んでいっていた。一か八かのかけ。時間は会話で稼いだし、青年に変化が起こるなら今であってほしいという希望的観測だけで突っ込んだ。それこそ魔術の使えないロロナがこの至近距離で、銃弾を避けられるわけがないし、最後は本当に運だと思った。青年が拳銃のトリガーを引いたとき、外れてくれと思った。
一瞬の乾いた音が耳をつんざいた。銃声。右肩が熱い。ロロナは灼けるような熱さに撃たれたと思った。青年は、役目を終えたとばかりに右によろけ、その場で膝をついた。青年は、懐に飛び込んできたロロナの突きを偶然避ける格好になった。青年に果物ナイフを向けていたロロナは、青年に避けられ若干のオーバーラン。青年が、膝をつくと同時に床に落とした拳銃を即座に拾った。
「わたしの血じゃ……だめなんです」
制服の右肩あたりが赤黒く染まっていた。右手には果物ナイフ、左手には拳銃。どちらの手も、凶器を持ちながら弱々しく震えていた。今にも取り落としそうな感じだった。しかしながらロロナは、右肩を撃たれてなお、青年のように膝をつきはしなかった。
床に膝をついたまま動かない青年を見下ろし、
「あなたの血が、必要なんです」
震える声で、しかしはっきりと聞き取れる声でそう言った。
「あなたの血で、魔法陣を描きたいんです」
「…………」
侵奪者によりいよいよ意識が危うくなってきたのか、青年は反応を示さない。
「あなたには、侵奪者がとりついているから。あなたの血には、侵奪者の魔力が流れているから……」
「…………」
「その魔力の血を使いたい。あなたのその血で魔法陣を描きたいんです」
「…………」
「あなたの血があれば、わたしもあなたも死なない……」
「…………」
「たぶんこれが、最後の確認になると思います――」
『あなたはわたしを信じますか』
ロロナは自分の足下に、つまり青年の手元にナイフと拳銃を落とした。床に当たる音に青年はぴくりと反応した。
「好きに、してください。わたしに、あなたを殺す気はないんです。ここまでしたら、さすがのあなただって信じてくれるんじゃないかって。あとは、ほんとうにあなた次第です。拳銃でわたしにとどめを刺してもいいし、あなたのその身に宿す魔力を、あなたのため、そしてわたしのために使ってくれてもいい……」
生を懇願するような死を覚悟したようなどっちつかずの表情だった。ロロナ自身、最後の選択権を青年に与えたことに後悔はなかった。
「……最後の最後まで気に入らないですね、きみっていう女は……。せっかく、この拳銃で僕の脳天をぶち抜けるチャンスだったのに……、きみが、僕の血を奪う絶好のチャンスだったのに……、きみは、僕に傷一つ負わせないんですね。なにが、きみをそうさせるのか、正直僕にはわからない。でも、きみがきみの手で僕を殺さないことははっきりしましたよ。つまらないですね、まったく。これだと、きみに殺されるぐらいなら自分で死んだ方がましっていう僕の理論が通用しないじゃないですか! きみが僕を殺さないんだったら、自分で死んだ方がましとか言えないじゃないですか! ……僕は、生きたい! こんな、侵奪者とかいうやつになんか殺されたくない! 当たり前じゃないですか! 僕は、もっと生きたいんです! この世界の女に馬鹿にされたまま、死にたくなんて無い! 今まで僕を馬鹿にしたり利用したりしてきた女どもに一泡吹かせてやりますよ! だから、だから――」
『僕はあなたを信じます!』
「…………!」
絶句とはこのことだろう。
「な、なに驚いてるんですか……。信じるか信じないか、きみが聞いたんじゃないですか。魔法陣、描きましょうよ、僕の血を、使っていいですから」
青年のまっすぐな瞳に、ロロナはほとばしる感情を抑えきれなかった。
「……う、嬉しくて…………。わたしのこと信じてくれる人って、今まであんまりいなかったから、つい」
目頭が熱い……。もう泣いていいよね、わたし。右肩も血だらけでジンジンずきずきするし……。
「行きましょう、僕の部屋の押し入れに魔法陣描きましょ?」
わたしの泣き顔にふれない……この人は。最後の最後で年上ぶるんだから……。
ロロナは、果物ナイフを青年に持たせた。ロロナと青年は、互いにふらつく足取りで青年の部屋に向かった。
ロロナは血で制服の右袖を赤く染め、一方の左袖は涙で濡らしていた。