第九話 終幕
それは、見覚えのある黄色い空だった。雲もなければ鳥もいない、そんな空。僕はまた、地に伏し天を仰いでいるようだ。
なんとなくの予感はあった。一瞬の間、空間にゆがみが生じた。黄色い空がぐにゃりと形を変え、すぐに元に戻った。
何ものかの気配がした。意識的に視線を地上にやると、僕のすぐそばに誰かが立っていた。
おお、と僕は感激の声を胸の内で上げた。
すぐにわかった。きみが僕の「体」だと。
この「意識」の帰る場所だと。
やっと、戻ってきてくれた。
僕の体は僕のものだ――
僕は僕の足で立っていた。
「あっ、目覚めた!」
フルール友和学園特別科棟医務室。自らの病床のベッドに腰掛けていたロロナは、身を乗り出して、隣のベッドを見た。
「小日向さん、まだ安静にしていませんと」
この部屋の看護人である若い女性がロロナをたしなめた。
「わたしより、今はこっちだと思うんですけど」
「ああ言えばこう言うんですから。わかりました。室長を呼んできます。小日向さん、くれぐれも無理に動かず安静になさってくださいよ? あなたは『要検査者』なんですから」
「わかってますよ、それぐらい」
看護人の女は、やれやれといった具合にロロナのベッドから離れた。
「起きたんですね。わたしの声、聞こえますか」
「えっと……」
「まだ意識があやふやっぽいですね。けが人のあたしが言えた口じゃないけど、無理しなくていいんですよ?」
「僕は……生きている?」
「よかったですね。わたしを信じた結果です、なんて」
「きみは……小日向さん」
「そうですけど。メガネ、かけます?」
ロロナは、ベッド脇の台座に置かれていたメガネを手に取り、青年に差し出した。「ありがとう」。この言葉さえもロロナには久々でなんだか面はゆかった。
「ここは、どこなんですか? 僕はずっと眠っていたんですか?」
「順を追って説明しますね。わたしたちは、魔法陣を描いて、あなたの世界からわたしの世界にテレポートしました。けれど、この世界に戻ってきたときにはあなたの意識はなかった。侵奪者に完全に意識を奪われちゃったのかもしれないと思いましたよ。あなたを引きずって、まあ重かったからしょうがないんですけど、ごめんなさいって感じなんですけど、そうやって、学園の森の中を歩いてたら、特別科の生徒が実技やってたんで、助けられて、ラッキーって感じでしたよ。で、わたしもあなたも緊急治療室にみたいなところに連れて行かれて、次に目が覚めたときにはここだったみたいな。ここは、医務室って言うらしいですよ。まあ保健室みたいなところだと思いますけど」
「そうだったんですか。今度は僕がきみの世界に……」
「魔物を身体から取り除く治療なんて、この世界ならではですから。あなたの言うところのファンタジーの世界だからこそ、できるんですよ」
「餅は餅屋、みたいなことですね。ファンタジー由来の病気はファンタジーで治せみたいな」
「どうですかね。まあ、あなたの世界だとあなたは確実に死んでいたでしょうね。わたしを信じてこっちに来たのは賢明な判断でしたよ」
「はは、あそこまでされると信じるしかないですよ。僕も、心から生きたいと思いましたし。えっと、話変わるんですけど、本当に申し訳なかったです。その、肩ケガさせちゃいましたし、いろいろとひどい言葉も言っちゃったし、あの時の自分は本当に頭おかしくて、すいません」
「まあ状況が状況でしたし、あのときはしょうがなかったってことで手を打ちますよ。それに、こんな目に遭っちゃったわけですけど、悪いことばかりじゃないですし」「というと?」
「こうして、特別科の校舎に潜り込むことができました。このまま特別科最高責任者室にたどり着けば、特別科への転入が認められます」
「よかったじゃないですか!」
「こんなことでもないと割に合わないですから。まあ、あなたも目覚めたし、ここに思い残すことはないです」
「え?」
「もう行きます。あの看護人が戻ってくる前に。短い間でしたけど、いろいろと新鮮でした。あなたって人は」
「行っちゃうんですか? ちょっとさみしいですけど、あなたが、立派な魔術師になるためですもんね。僕は止めません。じゃあ、またいつか。きみが立派な魔術師になることを祈って」
「こっちの世界か、あなたの世界で会いましょう。それからあと一つだけ。一般人の家に銃がある時点で、あなたの世界が平和とは思えませんね」
「…………」
「まあ、せっかくできた縁ですし、何かあればこちらの世界に来ていいんですからね? それじゃ、ばいばいっ」
青い病人用の寝巻を身にまとうロロナは、医務室の窓を開け、そこから飛び降りた。青年は少し慌てて窓の外を見た。ここが一階でよかったと思った。
「立派な魔術師になってねー!」
青年が外に向かって叫んだとき、そこにはもうすでにロロナの姿はなかった。若干のさみしさと、また会えるだろうという希望が青年の心を支配した。
僕を支配できるのは僕だけだ。
『小日向ロロナルート』了