重い空気に、黒い影
あと20分は、電車に乗っていなくてはいけなくて、スマホをいじるのにも飽きてきた私は、時間を持て余していた。
ふあぁ、とアクビをしながら、車内をグルっと見渡した時に、車内の異様な雰囲気に気がついた。何が異様か、ってのは、よくは分からないのだけれども。
乗客は十数人いて、混んではいない。騒ぐ客はいないけど、各々に会話している人たちがいるから、静まりかえっている訳でもない。そんな、よくある、日常的な電車内で、感じる、この異様さは、なんなんだろう…?
視線を真横に向けた時に、それはわかった。私と同じ列のシートに座っている小学生くらいの女の子。端と端なので、私とは距離があるけれど。
その小学生の女の子の前に、黒い影が立っていた。黒い影と言っても、よくわからないだろうけど、私もよくわからない。真っ黒で、それは、人のかたちに似ていて、とらえどころのない、ゆらりとした影だった。天井まで伸びていて、その一帯を暗くさせていた。
電車の乗客には見えていないのか。…いや、みんな見えている。見えているけど、見えないフリをしているのだ。わかる。わたしも同じなのだ。とっさに見えないフリをした。
無関心を装って、知らない見ない。それがいい。そんな雰囲気が、車内に充満して、その空気は重く、私も、その空気の一部だ。
その異形な影は、女の子を覗き込むように立っていた。女の子は、下を向いて、必死に、黒い影に気がつかないように、振舞っていた。
黒い影に、目はないが、女の子をガン見している、という表現がぴったりなほど女の子を見つめていた。このまま、女の子に何か危害を加えるのだろうか?このまま、見つめているだけなのだろうか?私はハラハラして、女の子を見ていた。
女の子は、平常心を装っていたが、恐怖で動けない、というのはわかった。大人の私ですら、怖いのだ。遠目で見ている他人事の私ですら、こんなに怖いのだ。
この空間で、誰もが、あの黒い影に気づいている。気づいていながら、誰もが、見えないように振舞っている。重い、重い空気を、皆で、支えている。
女の子を助けるというコトは、あの黒い影に気づいているコトを、認めなければならない。あの影は怖いのだ。何のきっかけで、自分があの女の子の位置に変わってしまうのか、わからない。そう思うと、知らないらフリが、一番だ。誰もが無関心を装い、女の子は放置された。
黒い影は、上から覆いかぶさるように、女の子の上から、影を落として行った。無関心な車内の空気に押しつぶされ、女の子も騒がずに、影に気がつかないフリを続けた。
そんな、もう、あんな小さい女の子が、1人で、あの影から、逃げれるはずがない。なんで、誰も助けないの?なんで誰も、女の子に声をかけてあげないの?皆、皆自分のコトばっかりだ。あんな小さい子に、全てを背負わせ、見て見ぬ振りのズルい大人たち。
…それは、わたしも同じなんだ。
皆、同じなのだ。
誰かは談笑していた、誰かは窓の外をぼんやり眺めていた。皆、黒い影に気がつきながらも、日常を演じていた。ピリピリした、重たい空気に焦りながら、皆、自分を守るのに必死なのだ。
ガタンガタン、と揺れる電車は、まるで私の心拍数のようで。私を追い詰めるリズムとなって身体中に、響き渡る。
次の駅について、電車のドアがあいた。
留まっていた空気が流れ出した。今しかない。何かするなら今しかない。空気が、また、よどむ前に。
私は、もう、どうすれば良いかなど、わからずに、何も考えず、席をたった。
席を立って、それで、女の子の方に足早に向かって、私は、早口に、言った。
「あなた、もうこの駅で降りな!」
もう、精一杯振り絞って言った一言。女の子はハッとして顔を上げた。不安な顔をしていた。女の子の肩を押すように手を添えると、女の子は、ダッと駆けだして、降車していった。ドアは閉まった。電車が次の駅に向かって走り出す。
カタンカタンガタンガタン…
女の子は、ホームで座り込んでしまったが、近くにいた大人が近寄って、声をかけているのが見えたところで、もうホームは見えなくなった。それで、私は、ホッとした。
そのまま、気が抜けて、少し、窓の外の流れる景色を眺めていて、けど、すぐに思い出して、車内に視線を戻した。
黒い影は前かがみになり、私の顔にグッと近づいて、私の前に立ちはだかった。少し、怒りの感情を感じた。私は恐怖で、足がすくんだ。ターゲットは私に変えられたのだ。
なぜ、女の子と一緒に、電車から降りてしまわなかったのだろう。と今頃になって気がついた。車内の乗客は、チラチラ私を確認するも、皆、気がついていない振りをする。無関心を装う。そうでなければ、黒い影にターゲットにされるのは自分なのだ。みな、それを恐れている。
見えない振りをして、誰かは読書をしている、誰かは音楽を聞いている。自然に、不自然にならないように自然に振る舞うのだ。黒い影に飲み込まれないように。
空気が重い。ドッと、重たい。
乗客の無関心と、黒い影の圧力に、体か崩れてしまいそうだ。あの、女の子は、この空気に、1人で耐えていたのだ。助けられないよ、こんなの怖い。助けられないよ。助けられるはずがない。知らないフリをするのが一番だ。
私は、女の子を電車から降ろす選択をしただけで、精一杯だった。それしか出来ない。この黒い影に立ち向かうなんて、怖くて怖くて、私には出来ない。
こんなに乗客はたくさんいるのに、誰もこの黒い影が恐ろしくて無関心を装うのだ。みんな怖いのだ。この黒い影が、この重たい空気が。
私は、私に、できるコトは。
私は、震えて、その場に座りこんでしまいたいくらい足はガクガクしてたけれど、平常心を装って、黒い影から離れた。何も知らない振りをして、歩き出した。
この空間にとどまってはいけない。空気が、あの重たい空気に支配されたら、もう逃げられない。
私はここから逃げよう。
私は隣の車両まで歩いた。そして、また次の車両に行って、また次の車両まで行った。とにかく進んだ。後ろは振り返らなかった。
混んでる車両まで行って、私はその中に紛れた。紛れて、黒い影が追いかけてこないか、ドキドキしていた。黒い影がいた車両は、もう遠くて見えない。
人がたくさん降りる駅で、私も降りた。黒い影が、私を発見出来ないようにするために。
黒い影が、まだ私を探しているのかは知らないが、私は見つからないように、やり過ごそうと必死だった。
その電車は発車して、見えなくなった。私は人の流れに乗って、改札を出た時に、心から安心した。閉じられた空間から、広いこの世界に戻って来られた安堵。黒い影は、もういない。
あの電車のあの車両に、黒い影はまだ乗っているのだろうか。また誰かがターゲットになっているのだろうか。あの、重たい空気を皆で共有しているのだろうか。あの重さから逃げるのは容易ではない。重さを知るのは怖いから、彼らは、まだ知らないふりをして、あの電車に乗り続けるのだろうか。
あの女の子はどうなったのだろう。私に知るすべはない。私は、助けたつもりになっているけど、本当はそうじゃない。本当は自分の不安を、取り除きたかっただけなのだ。
あの黒い影はなんだったんだろう。考えても、わかるはずもない。
あの女の子も、乗客たちも、後のことは、何もわからない。
そんなものなのだ。