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菜の花  作者: 広崎葵
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誠一

 死ねよ。え、なに気持ち悪いんだけど。つーかお前臭ぇんだよ。近寄んなよ。うぜぇ。

誹謗中傷の言葉がぐるぐる頭の中を駆け巡る。初めはもちろん悔しかったし、平気で人の事をそんな風に言う連中を許せなかったから、少なからず反抗していた。

 けれど言われ始めてから二年と数ヶ月、遂に誠一は壊れた。センター試験を受けた帰りのことだった。試験はやるにはやったが、やった感触でどう転んでも志望大学のには受からないことは理解していた。

 感情を入れておく壺は普通の人間よりも大容量だと思っていたが、負の感情というものは他の感情よりも多くの容量を必要とするらしい。

 受験のため勉強に勉強を重ねる毎日。学校に行けば否応なく浴びることになる罵詈雑言。許容量を超えるほどの汚濁を飲み込んだ誠一の精神は、とうの昔に限界を超えていた。

 そして何とか今日まで押さえ込んでいた負の感情ばかりが詰まった感情の壺の蓋が弾け飛んだ。速やかに楽になる方法は何かという方向へ思考が回される。

 数秒後、電車がホームに入るという旨のアナウンスが耳に入り込んでくる。そうか。こうすれば良いんだ。なんでもっと早く気づかなかったんだろう。都市圏というだけあってホームにいる人の数は多い。やんわりと押しのけながら前へと進み、誠一は最前列に並んだ。

 警笛を一つ鳴らした電車がホームに滑り込んでくる。ヘッドライトの光に目を細めながら時機を伺う。


 ーー今だ。


 ホームから飛び出した誠一を、これまで受けたどの衝撃よりも強烈な衝撃が包んだ。“痛み”ではなく“衝撃”。頭の中にぱっと空白が広がる。痛みも苦しみもない、清浄な世界。夢にまで見た静かな世界ーー。


 ***


 規則的な振動が身体を揺らす。目を開けると誰も座っていない座席が目に飛び込んでくる。右手側には大きな窓があり、穏やかな田舎の風景が広がっていた。数秒間の空白の後、電車に乗っているのかと納得する。

 ーーなぜだ。

 なぜ。なぜ。なぜ。なぜ。なぜ。なぜ。なぜ。なぜ。なぜ。なぜ。なぜ。なぜ。なぜ。なぜ。なぜ。なぜ。なぜ。なぜ。なぜ。なぜ。なぜ。なぜ。なぜ。

 死んだはずなのに。ホームに滑り込んできた電車に確かにぶつかったはずなのに。なんで生きている。なんで電車に乗っている。“なぜ”という単語が爆発したのを皮切りに途方も無い自問自答が展開される。

 咄嗟に窓を開けようとして、「やめておきなさい」と優しい声がかかった。振り向くと老婦人が隣の席に座っている。どうして止められたのかが分からずに硬直する。


「これ、蒸気機関車のようだから煙凄いの」

「……なるほど」


 納得した誠一は手を窓枠から離し、大人しく座っていることにする。大人しくしていると、自分の服装が気になってきた。小綺麗な白のワイシャツにジーンズ。自分では決してしない服装だが、着ている感触は思ったより悪くはなかった。

 窓に映った顔を見れば、髪型までも変わっている。勉強に専念するあまりろくに床屋にも行かず、結果として肩につきかけていた髪はソフトモヒカンというような髪型になっており、これまたこざっぱりとしていた。

 声をかけてきた婆さんはと言えば、窓からの風景を眺めている。この列車はどこに向かっているのか尋ねようとしたとき、ガラと音を立てて車両のドアが開いた。誰か別な車両から移動してきたのだろうか。この車両には自分と婆さんしかいなかったからか、素朴な好奇心に駆られてそちらを振り向く。

 しかし、そこに立っていたのは客ではなくダークスーツを着た若い車掌だった。ネクタイまで黒という辺りで、まるで喪服じゃないかと思いながらそれとなく注視する。

 車掌はゆったりとした足どりでこちらへ歩いてくると、婆さんの席の隣に立つ。


「切符を拝見します」


 婆さんが切符を差し出すと、車掌は改札鋏かいさつきょうきょうこんを入れる。慣れた手つきだった。鋏こんを入れた切符が婆さんに返されるのを見届けた誠一は突然はっとなる。

 切符など持っていない。買った記憶がない上に、そもそも気がついたら乗っていたのだ。まずいな、と思っている側から車掌が「切符を拝見します」と声を掛けてくる。


「……すいません。切符持ってなくて」


 怒鳴り散らされるのを待ったが、そんな素振りは微塵も見せず、むしろ車掌は困ったような微笑を浮かべる。


「切符ならお持ちですよ。ほら」


 手袋をはめた手が誠一の着ているワイシャツの胸ポケットを指す。ポケットに手を入れると、指先が硬い紙に触れた。紙を取り出してみるとそれは確かに切符だった。目を覚ましてから何度目かの狐につままれつつ、誠一はおずおずと切符を車掌に渡す。

 ぱちん、と車内に音が響く。返された切符を見ると《浮世発→グソー行き》と記されていた。グソー。聞き慣れない言葉だな、と思いながら日本語と近いようで遠い印象の単語を口の中で転がしてみる。目の端で去ろうとした車掌を捉え、咄嗟に呼び止める。


「すいません。この列車はどこに向かっているんですか?」

「グソー……つまりはあの世です」

「……あの世」

「ええ。あ、そうそう途中下車も可能ですよ。……生き返ったりするわけではありませんからね?」


 途中下車という言葉に眉をひそめた誠一に、言葉を車掌が付け足す。「それでは、良い旅を」と言った車掌に頭を下げた誠一は、顎に手をやって考え事をする体勢を整える。

 取り敢えず、自分は死んだ。これは間違いないらしい。ということは、これは死んだ人間をあの世に連れて行く列車というわけか。

 納得したような納得していないような複雑な思いを抱える。途中下車というのもよく分からない。生き返ったりするわけではないのに、途中下車とは。むー、と唸った誠一は今は考えてもしょうがないという結論に辿り着き、窓の外へ目のやり場を求めた。

 そこには、死後の世界とは思えないほど美しい田園風景が広がっていた。

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