現実的な国のアリス
――それだけなら、そんなにめずらしいことでもありませんでした。さらにアリスとしては、そのうさぎが「どうしよう! どうしよう! ちこくしちゃうぞ!」とつぶやくのを聞いたときも、それがそんなにへんてこだとは思いませんでした。あとから考えてみたら、これも不思議に思うべきだったのですけれど、でもこのときには、それがごく自然なことに思えたのです。
でもそのうさぎがほんとうに、チョッキのポケットから懐中時計をとりだしてそれをながめ、そしてまたあわててかけだしたとき、アリスもとびあがりました。というのも、チョッキのポケットなんかがあるうさぎはこれまで見たことがないし、そこからとりだす時計をもっているうさぎなんかも見たことないぞ、というのに急に気がついたからです。そこで、興味しんしんになったアリスは、うさぎのあとを追っかけて野原をよこぎって、それがしげみの下の、おっきなうさぎの穴にとびこむのを、ぎりぎりのところで見つけました。
次の瞬間に、アリスもそのあとを追っかけてとびこみました。いったいぜんたいどうやってそこから出ようか、なんてことはちっとも考えなかったのです――
「純夏ー、そろそろ塾に行く時間よ。急がないと遅刻しちゃうわ」
お姉ちゃんの私を呼ぶ声に、しぶしぶ読んでいた『不思議の国のアリス』から顔を上げる。
「……アリスは塾なんて行ってないもん」
「時代が違うのよ。このご時世じゃ、好きなことやってるだけでは生きていけないの。現実を見なさい現実を」
「現実なんてつまんないことばっかりなんだもん。アリスが行った不思議の国みたいになればいいのに」
「世界中大混乱ね。でもそれ以上に現実だって混迷の極みなんだから。地震に円高、伸び悩む株価、下がり続ける内定率と政権支持率、上昇する失業率と自殺件数。TPPもどうなるか分からないし、アメリカとイスラム諸国の関係悪化、EUの経済不安が世界経済に及ぼす影響も……」
「そんな難しいこと分かんないもん」
「だから勉強するんでしょう? 国民一人一人が政治に対して無関心だからこういうことに……」
お姉ちゃん――森有春菜はいっつもこんな感じ。くどくどくどくど、お説教ばっかり。そりゃあさ、中三にもなっておとぎ話にしか興味ないなんて自分でもどうかと思うけど、好きなものは好きなんだからしょうがないじゃん。
勉強? 受験? それが何よ。
一年中お茶会やってたって別にいいじゃない。
「知ーらない。行ってきまーす……」
「自分で考えることをしないからマスコミに踊らされ──あぁ……いってらっしゃい。寄り道とかしちゃだめよー。最近この辺も物騒なんだから。何かあったらすぐ携帯で連絡しなさいよ?」
「分かってるよ。いちいち注意されなくても。じゃあね」
「はぁ……天国のお父さん、お母さん。純夏はなんとしても、私が立派な大人に育て上げるからね」
ドアを閉める前に耳に入ったお姉ちゃんの呟きを、聞こえなかったふりをして、私は自転車に跨った。
最寄駅まで自転車。そこから電車を乗り継ぎ、目指す学習塾は御茶ノ水にある。でも授業が始まる時刻になっても、私はまだ駅周辺をぶらぶらしていた。
(結局塾サボっちゃった……。毎日毎日勉強勉強……。つまんないなぁ。お姉ちゃんも私のことを思って言ってくれてるのは分かるんだけど、いーじゃない。まだ私子供なんだし……。大人になんてなりたくないな……)
きっとウサギの穴は、大人には狭すぎるだろうし。
塾をサボったところで、馬鹿にならない授業料をドブに捨てるだけなのは分かってるし、他にやることも行くところもない。ニコライ堂にでも行ってみようかな、などと考えていた私の脇を、何かが猛ダッシュで駆け抜けていった。
「どうしよう! どうしよう! ちこくしちゃうぞ!」
ん? このセリフ……
「なんてこった! もうこんな時間! 急げ急げ!」
懐中時計を気にしながら、大慌てで駆ける白いアレの姿が脳裏に浮かぶ。
「もしかして白ウサギ!? そうよ、きっと時計を持ったウサギさんが、私の前にも現れたんだわ! ウサギさんを追いかければ、ウサギの穴から不思議の国へ行けるかも!」
そう勢い込んで期待に目をキラキラシャイニングさせながら振り向くと、そこにいたのは――
「ひ~、大事な取引先との約束なのに! 遅れたらまた課長におこられる!」
バーコードハゲの頭皮に滴る脂汗をハンカチで拭い、腕時計をちらちら見ながら革靴で走る、スーツにメガネの太ったおっさんだった。
「………………」
ま……まあ、ウサギがウサギの姿してるなんて、そんな狭い了見に収まるわけないわよね! なんたって不思議の国の住人なんだもの! ある意味普通にウサギが出てくるより不思議じゃないかしら……多分。それにホラ! 時計だって……腕時計だけど持ってるし、毛と脂肪の違いこそあれふっくらした体には変わりないし、バーコードを形作る為に右から左にもってきた白髪交じりの長い髪が風になびいて、ウサギの耳に見えなくも……なくもなくもないし。
「こ、こうなったらヤケクソよ! まって~! ウサギさ~ん!」
白ウサギ(仮)を追って御茶ノ水の路上を駆ける私。
「あ~、中央線が人身事故かなんかで遅れてたらどうしよう。あの時間の通勤快速に乗れなければ遅刻決定だ!」
「ハァハァ……ウサギさん速い……。なんで革靴であんなに速く走れるのかしら……。これが企業戦士ってやつ……?」
「えーっと携帯の交通情報は……ゲッ! 信号トラブルでJR止まってる! こうなったら丸の内線から乗り換えでなんとかするしかない!」
「あっ! ウサギさんがおっきな穴から地下に入ってく! ここが不思議の国の入口ね!」
その穴の上には『東京メトロ 御茶ノ水駅』とかなんとか書いてあった気もするけど、今はそんなことを気にしてる場合じゃないわよね!
「急げ急げ!」
「よーし、この下りで一気に差を……きゃっ!!」
慌てた私は足が縺れて、穴の底へと転げ落ちてしまった。
「……うーん……、あれっ、ここどこ?」
気を失ってたみたい。目が覚めると、私は薄暗い殺風景な部屋にいた。五、六畳くらいの広さで、壁は打ちっぱなしのコンクリート。窓は一つもなく、あるのは重そうな鉄のドア一枚だけ。そしてスチール製の戸棚が置かれている。
「やっと気が付いたか」
「えっ! 誰!? どこにいるの!?」
どこからともなく謎の男の声が響いている。でも姿は見えない。
「俺はこの扉の門番だ。別の場所から、その部屋を監視カメラで見ている。声もスピーカーを通して伝わっている」
「扉……? あ、あのドアのこと?」
「そうだ。関係者以外立ち入り禁止だ。俺が操作して電子ロックを解除しない限り、絶対に開かない」
「私はどうすればいいの?」
「知ったことか。君は関係者じゃないから入れない」
……あれ? ちょっと違和感あるけど、これも『アリス』であった展開じゃない! 確かアリスはクッキーを食べて大きくなったり、変な水を飲んで小さくなって、喋る扉の鍵穴から向こうへ出たはず……。
「あのっ、ここにクッキーとか飲み物ってありますか?」
「なに、おやつ? ならそこの戸棚に買い置きがあると思うけど」
「この戸棚ね……、えっと……あった! ってこれ……」
スチールの戸棚の中にポツンとあったのは、カントリーマアム(バニラ&ココア)二十四個入りの袋と、ぬるいPEPSI NEX(ゼロカロリー)一.五リットルペットボトルだった。
「えっと……これって大きくなったり小さくなったり……する?」
「そりゃあ、カントリーマアムばかり食べていれば太るし、PEPSI NEXばかり飲んでいれば痩せるだろうさ。どっちにしろ不健康で死ぬがな」
「そ、そうよね……」
ここホントに不思議の国!?
「じゃあどうやってドアの向こうに行けばいいのよ……」
「だから言ってるだろ。俺が操作しないと開かな……あ、もう一つ方法はあるにはあるけど」
「なに?」
「扉に機械がくっついてるだろう? パスワード式の電子ロックだ。そこの数字キーに正しいナンバーを打ち込めば扉は開く。ただしナンバーは八桁の数字で、毎時間自動的に変更される。しかも一度でも間違えると二十四時間はキーを操作出来なくなる」
確認すると、確かに門番の言うとおり、ドアノブの上あたりに電卓みたいなのがくっついる。てかこれじゃあ体が縮んだとしても鍵穴がないから外に出れないじゃん。今更だけど。
「さあ、どうするガキ?」
「どうするって言ったって……どうしようもないじゃない……パスワードなんてわからないし」
「なら諦めて帰るんだな。一応こちらも仕事なんだ」
「帰り方も分からないの……」
「そうかい。カントリーマアムとPEPSI NEXやるから、それで我慢しろ」
「こんなものもらっても食べるしか使い道は……ハッ!」
「む、何する気だ?」
「こうする!」
私はPEPSI NEXのペットボトルを思いっきり上下にシェイクし、電子ロックめがけて中身をぶっ放した。
「げええええ! 何やってんだお前!? PEPSI NEXなんかぶっかけたら電子ロックが壊れ……」
ボーン! バチバチッ! ガシャン!
「あ、開いた!」
「ノォオオオオ!! なんつーことしてくれたんだ!! 侵入者を許したら、ただでさえ少ない俺の時給がさらに五十円下がるだろうが!!」
「うるさい! 私は不思議の国に行くの! あなたの給料なんて私には関係ない!」
「働いたことの無いお前なんかに、俺達フリーターの気持ちが分かるか!? 夢を叶える為に上京して一人暮らし始めたのに、全く芽が出ずに、結局バイトと僅かな親の仕送りでただただ毎日をか細く生きているだけの俺の気持ちが! お前みたいな頭ん中お花畑のガキに分かるわけがない!!」
「知らない! 分からないもん! 私には関係ない! 私は不思議の国に行くんだもん!」
私はさっさとこの部屋を後にした。
「ちょ、待ちやがれ……あっ、チーフ……えっ、し、侵入者なんて知りませ……そ、そんな! ク、クビだなんて……まだアパートの滞納してる家賃三ヶ月分払ってないのに……!」
部屋を出ると、路地裏のような狭くて汚くてジメジメした道が続いていた。小腹が空いたので、私はさっき手に入れたカントリーマアムをつまみながら道なりに歩き続けた。
「カントリーマアムだけじゃ喉乾くわね……PEPSI NEX、ぬるかったけどちょっと残しとくんだった……」
「そこのガキ! 止まれェ!」
突然、二人組の子供が私の前に立ち塞がった。二人とも痩せていて赤毛。今怒鳴った方の子供は癖っ毛で、ギョロ目にそばかす。もう一人は猫毛で背が低く、冷めた目で元気が無さそう。
「な、何よ。自分達だってガキじゃない!」
「この娘の言う通りだよ……このクソガキ」
小さいほうの子がボソッと毒を吐いた。どういう立ち位置?
「達夫テメェそれは俺のことかァ!? つーか双子なんだからお前もガキじゃねぇーかァ!!」
「僕は克夫みたいに、精神年齢幼稚園児じゃないから」
「なんだとこの根暗もやし!! 一発殴らせやがれェ!!」
「そうやってすぐ暴力に訴えるところとか特に幼稚。肥溜めに落ちて汚物塗れになりながら溺死すればいいのに」
「んだとコラァ!? ぶっ殺すぞテメェ!!」
「ダニは血を吸うことは出来ても人間は殺せない」
「ちょ、ちょっと待ってよ!! さっき双子って言ってたわよね!? 全然似てないけれど」
「本気で気にいらねぇが一応双子だ」
「生まれた瞬間からこんな邪魔なおまけが付いてくるなんて不幸でしかない」
「それはこっちのセリフだゴラァ!!」
双子ってことはダムとディー……でも全然似てないし、息が合うどころか犬猿の仲っぽいし。
「で、そのボルボックスサイズの脳みそで覚えてるかどうか知らないけど、いいの、その娘?」
「死に腐れ。しっかり覚えてんだよ。おら女。この道が通りたかったら、通行料を払え」
「はぁ? なんで?」
「なんでもファンデもねーんだよォ! さっさとテメェの有り金全部出せや!」
「早くしないと明日の朝日を見れない体にする」
私からお金を巻き上げる為なら、この二人は馬が合い一致団結するらしい。ずっとケンカしててくれればいいのに……。
「そ、そんなこと言われても、私お金なんて……」
「ねーんなら金目のもんでも構わねーぞ。いいからポケットん中全部出しやがれ! それとも俺が服全部脱がしてチェックしてやろうかァ!? アァッ!?」
「臓器を売る? 体を売る?」
「冗談じゃないわよ! 出すわよ出せばいいんでしょ!? でも金目のものなんて何も……」
その時、私のスカートのポケットから、余ったカントリーマアムの袋がポロリと落ちた。
「ん? なんだそりゃ」
「何って、カントリーマアムの残りだけど……」
別に金目のものでもないので、さっさと拾おうとする私。
「カントリーマアム……く、食い物!」
「キャアッ!!」
突然克夫が私にタックルを仕掛け、モロに喰らった私は跳ね飛ばされてしまった。克夫はそのまま私の手から零れ落ちたカントリーマアムを拾い上げると、それがまるでダイヤモンドか何かであるかのように目の前に捧げ持って、信じられないものを見る目でまじまじと観察する。
「おおっ、すげぇ……小麦粉、砂糖、チョコレート…………く、食い物だ……草以外を食べんの何日振りだっけなぁ……」
「ちょっと待って」
「あぁ?」
達夫が、さっき私に向けた以上にドギツい視線で克夫を睨む。
「僕にも分けろ」
「ハンッ! 嫌だね。これは俺が手に入れたモンだ。俺が食べる」
「ふざけるな。僕だってもう何日もカロリーを取っていない」
「うるせぇ!! 俺達はなァ、自分の力で食い物を手に入れなきゃ生きていけねぇんだよ!! 欲しけりゃ力ずくで奪ってみなァ!!」
「くっ……!」
達夫は克夫に何度も掴み掛るが、その度に体の大きな克夫に力でねじ伏せられてしまう。だんだんと達夫は勢いを失い、その双眸には涙が滲んできた。もう何回目だろうか、やはり為す術なく地面に組み伏せられた達夫に、克夫が怒鳴る。
「ハッ! どうしたよ! そんなんじゃすぐに行き倒れだ!」
「チクショウ……チクショウ……!」
「恨むんなら、テメェの親を憎みやがれ……リストラにあっただとか、借金を作っただとか、浮気しただとか、俺達子供とは何の関係もない理由で俺達を捨てた、俺達のクソ親をなァッ!!」
「ウッ……ウゥッ……ウワァアアァ……ッ!」
「馬鹿野郎!! 泣くな! 無駄なカロリー使うんじゃねぇ!」
そう怒鳴り散らす克夫も涙を流していた。
「…………い、今のうちに逃げよう」
私はそそくさと先へ進んだ。
そろそろ私も疲れてきた。ずっと歩き通しだし、座って何か飲みたい気分。
「はぁ……なんなのかしら。不思議の国って治安悪いのね。治安に関しては日本が世界一だっていうのは聞いたことあるけど……あらっ?」
「ア~……マジあいつらうぜえんだけど。毎日来るとかありえない……キモいし、全体的に」
フリフリのお人形のような服を着て、頭にネコミミをつけた女子高生らしき人が地べたに座ってダレている。ネコミミってことは……チェシャ猫? 明らかに人間だけど……でもそんなの、ここまでの経験からして今さらな気もするし……。とりあえず話しかけてみよう。
「あ、あのぅ……」
「ん? 何? つーか誰? 客?」
「へっ? 客?」
「ここ、あたしのバイトしてる喫茶店なんだけど」
ネコさん(仮)は、自分の背後にある店舗を指差した。言われてみれば喫茶店っぽい。
喫茶店……もしかしてお茶会?
「入んならさっさと入ってくれる? そこに突っ立ってっとマジ営業妨害なんですけど」
「えっ……あ、はあ……し、失礼しまーす」
私が営業妨害になるってんならお店の入口の扉の真ん前に座り込んでたあんたはどうなんだとか思ったけど、もう色々とくたくただったので正直喫茶店で休めることに喜んでいた私は、迷わず店に入った。カランコロンカラーンと来客を知らせる金が鳴り、一歩店内に足を踏み入れた瞬間だった。
「おかえりなさいませだにゃんお嬢様♪」
「ええっ!? どっ、どうもっ!」
さっきまで物凄く気怠そうにしてたネコさん(仮)が、一瞬で媚び媚びの営業スマイルに! ここまで突然豹変されると逆に怖いよぅ……。
「申し訳にゃいのですが、只今大変混雑しておりまして、相席となってしまいますが、よろしいですよねっ♪」
「えっ!? 拒否権なし!?」
「それではご案内しますにゃん♪」
「はあ……ってアレ? 店内ほとんど席ガラガラじゃないですか!? なんでわざわざ相席させられるの!? 嫌がらせ!?」
驚愕の展開に対する私のツッコミを総スルーし、ネコさん(仮)はそこそこ広い店内をずんずん進み、奥の方にある席まで私を連行した。
「こちらの席にどうぞだにゃんお嬢様♪」
「あっ、智絵ちゃーん❤」
私が案内された席は四人掛けで、既に三人の客が座っていた。そのうちの一人、ドでかいシルクハットを顎まですっぽりかぶった小さい男が、ネコさん(仮)改め智絵さんの登場に色めき立つ。帽子屋さんかなぁ。
「あへへへっ……うぅぅ、緑色のカンガルーの車輪がゲル状でしゅ……♪」
その帽子屋の隣に座っている女の人は、病院の患者衣だけを身に着け、どこを見ているのか分からない両目をその辺の空間に泳がせながら、なんかよくわかんないことを妙な笑顔で呟いている。見るからにヤバいよこの人。三月ウサギ?
「……くがー……ぴすー……」
最後の一人は坊主頭で、テーブルに突っ伏して熟睡中。もしかしなくてもネムリネズミだよね。
てかこの人(?)たちツッコミ所が多すぎるよ! もう別な意味で不思議の国過ぎるよ!
「にゃんにゃん♪ 相席よろしいですよねっ♪」
智絵さんが嘘八百スマイルでそう尋ね……いや、念押しすると、帽子屋さんが「いやっほーい!」とはしゃぎながら答える。
「いーよー☆ 智絵ちゃんの頼みならなーんでもきいちゃう♪ 君達もいいよね?」
「えぇ~? 違いましゅよ~♪ あれはカナブンじゃにゃくてフランス人でしゅよぉ~♪ あへへへっ♪」
「……くこー……しゅすー……」
「わぁいありがとうございますご主人様♪」
通じてない! 約二名会話通じてないよ!
しかしそんなことは気にも留めず、帽子屋さんが立ち上がった。
「ねぇねぇ『もえもえ☆にゃんこじゃんけん!』やろうよ!」
もえもえ☆にゃんこじゃんけん!?
「もぅ☆ ご主人様は本当に『もえもえ☆にゃんこじゃんけん!』がお好きですにゃんっ♪ 一千万ドルになりますにゃん♪」
一千万ドル!? メニューには千円って書いて……あぁっ! 『1,000』としか書いてない! いや、よーく見たらちっちゃーく『 万ドル 』って書いてある! 悪質だ! 一千万ドルって二〇一二年一〇月三〇日時点で七億九七一三万円だよ!? ぼったくりにも限度ってもんがあるよ! そんなの一介の帽子屋が払えるわけ……
「おっけ~♪ はいっ、キャッシュで」
払えるの!?
私の驚きを余所に、帽子屋さんは帽子の中から(!)札束をどさっとテーブルの上へ。
うわぁ……こんな大量の現ナマ初めて見た.ジンバブエドルじゃなくてモノホンのアメリカドルだよ……帽子屋ってそんなに稼ぎがいいのかなぁ。
「あ、あの……失礼ですがご職業は……」
「えっ? 無職だよ?」
「はいっ!? じゃあこの大金は……」
「うん、ママがね、毎月お小遣いくれるんだ♪ ジュラルミンケースいっぱい♪」
どうしようもないダメ男だーっ! ニート貴族じゃん!
「あははっ、君もなかなか可愛いねぇ☆ 智絵ちゃんほどじゃないけど! じゃあ僕のお茶会仲間を紹介するよ!」
「はあ……どうも……」
「まずこの人が……」
帽子屋さんが指差したのは、イっちゃってる女の人。
「あにゃたの周りにコバンザメ~♪ あへへへっ♪」
「弥生ラリルさん。基本的に話通じないから無視でいいよ☆」
「はあ……そうですか……」
しかし唐突にラリルさんの体がビクッと硬直し、ふるふると小刻みに痙攣しだしたもんだから無視できない。
「あぅ……あ、あっ……ああああくっ薬ががががっ! トッ、トイレに行ってきましゅ!」
「だ、大丈夫なんですか!?」
「たまにああやって注射器持ってトイレに行くんだけど、帰ってきたらまた元のテンションに戻ってるから安心して☆」
打ってるのね……トイレでヤクを打ってるのね……っ!
「つかぬことをお訊きしますが……この国でそういうお薬は……」
「ん? 当然違法だよ?」
だめじゃん!
「なに? ヤってみたいの君☆」
「めめめめめめめめっそうもない!」
「ふーん♪ まあ興味があるんなら言ってくれればいつでも……ふふふっ☆ ソンでもってこっちが……」
怪しいことをのたまいながら次に指差したのは、熟睡中の眠り坊主。
「……僕も名前知らないんだ☆ なにしろ起きてる彼と会ったことないからね♪ やっぱり無視でいいよ☆」
基本的に全員無視なんだ……仲間って言えるのそれ……?
「お待たせいたしましたにゃん御主人様っ♪『もえもえ☆にゃんこじゃんけん!』の準備が出来ましたにゃん❤」
どこかに居なくなっていた智絵さんが戻ってきた。両手にネコの手っぽいもこもこの手袋を嵌めている。
「わ~い☆」
帽子屋さんが席を立った。
「いきますにゃ~ん! もえもえ☆にゃんにゃん!」
「じゃんけんポン! いやった~、勝った~☆」
普通のじゃんけんではなく、体全体を使ってくねくねしたダンスのように萌えポーズをとる二人。私にはわからないけど、どうも帽子屋さんが勝ったらしい。
「御主人様お強いですにゃん♪」
「あへへへっ♪ ああああアアアア楽しいいいイイイィィィッ!」
「……ぐおー……すごー……」
「……出よ」
もう全てが厭になったので、私は黙って店を出た。
相変わらず陰湿な街並みが続き、ファンタジックな不思議の国を期待して来た私はもうウンザリだった。
「うー……もう帰りたいよ~……」
そういえば一応追っていたはずのウサギさんとも一度も会ってないし。一つ溜息をつくと、後ろからもう一つ溜息が聞こえた。
こだまでしょうか、いいえ――
「あーかったりぃ」
「あ、あれっ? さっきの……智絵さん? お店はどうしたんですか?」
ネコミミメイドだった智絵さんが、元の女子高生モードに戻って付いて来ていた。
「辞めた。マジやってらんねえし。『にゃんにゃん♪』とか耐えられんべ」
「そ、そうです、よね……」
「それよりあんた、帰んの? 家どっち?」
「帰りたいんですけど……どっちに行けばいいのか分からなくて……」
「はーん。あっそ。でもこの辺激ヤバだからマジ危ないけど、大丈夫なん?」
「へっ? 激ヤバって何が……」
「ヒィィィィ! お願いですから止めて下さいぃ!」
緊迫感溢れる男性の悲鳴が夜の街角に響き渡った。そしてそれに続く野太い女の声。
「うっせぇんだよジジイ! 黙って財布出さねーとひん剥いて真っ赤に染めんぞオルァ!」
よく観ると、一際暗い建物の陰で、一人のサラリーマンが三人の改造セーラー服の集団に囲まれ、恐喝を受けているみたいだ。
「って、ああっ! あのサラリーマン、ウサギさん!? なんか一昔前のスケバンっぽい人達に襲われてる!」
「リーマン狩りだろ? ここらへんをシメてるレディース『妬乱腐』の奴らだよ。あんなんしょっちゅうだっての。ほっとけほっとけ」
冷たいことを当たり前のようにさらりと言う智絵さん。本当に不思議の国って治安悪いなぁ……ヨハネスブルクみたいだよ。てかトランプ兵って王国の治安を守る方じゃなかったの!?
「で、でもウサギさんが……」
「ああっ、そこの方! 助けて下さい! 警察呼んで!」
私達に気が付いたウサギさんが、必死に助けを求めてきた。でもそのせいで、妬乱腐の皆さんにも見つかってしまった。
「あん? あんだてめェ? 何見てんだよオルァ! 見せもんじゃねぇぞ!」
「通報なんかしたら分かってんだろうなオルァ!」
「テメェも赤く染まるかオルァ!」
「ひぃぃぃ!」
ここここ……殺されるっ……!
「いっ、今だ!」
妬乱腐の連中の注意がこちらに向いているこのチャンスを逃さず、ウサギさんはまさに脱兎のごとく逃げ出した。
「あ、あの野郎逃げやがった!」
「テメェらこの落とし前どうつけるつもりだコルァ!」
「連れてくぞ! 姐さんへの供物にしてやらァ!」
「いゃあああああ!」
妬乱腐の皆さんがこっちに来る! 近くで見ると一人一人が世紀末の拳王の親衛隊みたいな肉体してるじゃん! 本当にレディース!?
「ど、どうしよう智絵さん!」
「ウチは関係ねぇから、んじゃ」
智絵さんはさっさと逃げた。忘れてた、あの人はチェシャ猫だった。肝心な時はだいたいいないよね。
「オルァ! 大人しくしやがれ!」
「やめてええええええ! 助けてえええええええええ!」
そのまま縛られて担ぎ上げられたまま、私は彼女たちのアジトに連れて行かれた。トランプ兵のボスだから、やっぱりハートのクイーンだよね……ってことはアジトはお城かなぁ……なんて考えてた私が甘かった。
お墓だった。
うん、墓地。霊園。それも日本風の。もう世界観がわからないよ。
「姐さーん! 土産ですぜー!」
「は……離して、下さいよぅ……」
形ばかりの抵抗を試みるが、無駄なのはわかっている。いったいクイーンはどんな人なんだろう。原作ではおばさんだけど、そのままでくるとは思えないし……まさか部下があれだし、本物の拳王が……!
「……なんだその娘は」
しかし聞こえてきた声は、美しい、それでいて恐ろしく冷たい響きをしていた。
「……なあお前達、お前達は一体あたしのなぁんだったかねえ……」
「へェ、あたしらはみんな姐さんの犬でさァ」
「ほう……犬ねえ。で、あたしはその糞ったれのワン公共になんて命令したか、覚えてるお利口さんはいるのかな?」
「へェ、リーマン狩りに行って来いと。しかしですねぇ……」
「その土産がこれか? あたしにゃこの娘が、腐れリーマンの財布にはちと見えないんだが……あたしの目が悪いだけかい?」
「ヘェ。ですが姐さんがお喜びになると――」
「ふざけんじゃねぇよこの駄犬が」
ダアァン、と重い音が響いた。縛られて身動きの取れない私には何が起きたのかすぐには分からなかった。しかし、異変はすぐにやってきた。
私を担いでいた奴がいきなりグラリとバランスを崩し、私を地面に落とした。
「グウウッ……!」
墓石に腰を痛打し、一瞬呼吸が止まる。
「な、何が……」
状況を把握しようともぞもぞ這いずると、地面に触れた頬がピチャリと濡れた。これは何ぞと目を凝らすと――
片足の千切れた女が、切断面から血を吹きだして悶えていた。
「ガ……グ…………あ……カ…………!」
さっき私を担いでいた人だった。
「な、な、な、なに、が……」
「おい娘」
「ひゃい……!」
背後からの呼び声に小動物のように振り向くと――そこには支配者が君臨していた。
一八〇センチはあろう背丈に、トップモデルのような黄金比ボディ。セーラー服と将校服の中間のような衣装に身を包み、ブラッド・レッドの長髪は膝まで届く。そして北欧系に近い惚れ惚れするほど美しい相貌はまるでドライアイス彫刻。アイスピックのように鋭い瞳はシルバーに輝き、私を射抜く眼光はオオカミのそれだ。どう見ても両手で扱うべき大きな銃器――さっきあの人の足を吹き飛ばしたものだろう――を片手で弄んでいる。背後には数百人規模の部下達が無言で控えている。この人に逆らったらこの世界に塵も残らない。私は本能的にそれを察した。
「お願いですお願いです食べないで私を食べても胃もたれするだけだよぅ……」
「流石のあたしでも人間は食べないさ」
ニヤッとわらうクイーン。怖すぎる。
「まあいい。お前の措置は後だ。先に済ませちまいたいことがある」
クイーンは、大量の血を失いつつある仲間を確認しながらも為す術なく立ち尽くす部下たちに向き直り、静かに口を開いた。
「誰が誘拐なんざしてこいなんて言ったんだい? よう馬糞共よ。忠実な犬? お前ら豚の脳でも詰まってんのか? 悲しいぜあたしは……」
「めっ、滅相もありやせん! あたしらそんなつもりは毛頭……」
「女々しい言い訳なんざ聞かせんじゃねーよ……。今あたしが一番聞きたいのは……使えない部下、家畜以下の畜生共が血と共に吐き出す断末魔さ……!」
「ひィ……ッ!」
クイーンはゆっくりと、猛獣が獲物との間合いを詰めるように部下三人のもとへ歩を進める。
「そうだねェ……【ババ抜き】か【大貧民】か……【神経衰弱】もいいが……」
「そ……そんな……!」
「どうか命だけは……ッ!」
「……よし。おい、アレを」
「へいっ!」
クイーンは他の部下に命じて、何かを持ってこさせた。
「よし……ここに一組のトランプがある。せっかくだから、これで決めようじゃないか……ほれ、一枚ずつ引きな……」
クイーンはまず、足を無くして最早瀕死の女にカードを差し出した。
「……姐、さん……あたしは……もうほっといても死にますぜ…………わざわざ、そんなことしなくても…………」
「……ああ?」
クイーンは躊躇無く、ハイヒールで部下の足の切断面を踏み締めた。
「ガアアアアアアアアアアアァァァァァァッ!!」
「……美しく死ねると、本気でそう思ってやがんのか……この腐れ×××は。野良犬みてぇに汚く生きたテメェらはな……最後まで糞尿まき散らして、惨めに汚く死んでくんだよ……ほら」
再度、部下の目の前にトランプを突き出す。
「引けよ」
「う……ううっ……」
観念したのか、女はカードの束から、力の入らない震える手で一枚を選んだ。
「……ほう」
彼女の選んだカードを確認し、クイーンが怪しく微笑む。
「お前はダイヤの7かい…………なら、お前は【7並べ】だ」
「いっ、いやああああ! それだけは……それだけはああああ!」
「今更足掻くんじゃないよ……ゴキブリ臭い。こいつを連れてきな」
「へいっ!」
足を無くして歩けない彼女は、二人の女に引きずられてどこかへ消えた。
「あ、あのぅ……」
「……何だい?」
一応訊いておこうと思って、おそるおそるクイーンに話しかけてみる。
「【7並べ】って……一体どういう……」
「聞きたいか……一週間は肉が食えなくなるよ?」
「や、やっぱりいいです……」
やぶへびはさけようね。
「さて、あと二匹……お前、引きな」
「ひっ……」
「あんまり時間を取らせんなよ……? 二枚引かせんぞ」
「はひぃ……!」
「ほぅ……スペードのジャック……お前は【ブラックジャック】だ。連れてきな」
「ぐあああ! そんな……そんなあああああ!」
「さっさと次いくよ……虫駆除に時間はかけたくないんでね……最後はお前だ。引きな」
「ぐ……!」
「……ほぅ……ハートのクイーンかい……おめでとう。これはラッキーカードだよ」
「ほっ、ホントですかい!!」
「ああ……ご褒美だ。さっきの駄犬二匹の駆除……お前にやらせてやるよ」
「えっ……そっ、そりゃあ……あ、ああああんまりじゃねェですかい……あたしに、刑の執行なんて……あいつらは仲間で――」
渋る部下の口に銃口を捻じ込むクイーン。
「犬にご褒美をやるとさ……尻尾ふって涎垂らして喜ぶんだよ…………で、お前はあたしの……なんだっけ?」
「……ひっぐ……ひょ……ひょほほんへひゃひゃひぇへひははひはふ(喜んでやらせていただきます)……!」
「よーし……いい子だ……」
ゆっくりと銃を引き抜く……前に、クイーンは部下の顎を思い切り膝で蹴り上げた。メキメキィ……と嫌な音がして、部下の前歯は全て粉々になり、顎は砕けた。
「行きな」
悲鳴すら上げられない程心神喪失状態の部下は、ふらふらと闇夜に消えた。
――今まで迷惑かけてごめんなさいお姉ちゃん……純夏、もう終わりみたいです。先立つ不幸をお許し下さい……っ!
「さぁて……用事は済んだぜ」
「……!」
「娘……名前は?」
「ももっ、もひにゃがしゅみきゃちょみょうしみゃしゅ!」
「ふふっ……そう固くなるなよ……別にあんたを殺しゃしない」
「えっ……」
……もしかして私……助かる?
「じゃ、じゃあ一体……何をされるんでしょうか……」
「あんた……なかなか可愛い顔してるじゃないか」
「へ?」
は、話が見えないんですけど……。
「……は、はぁ……どうも」
なんて返していいか分からないのでそんな生返事をしておくと、クイーンはその頬を、まるで乙女のように桃色に染め、私を熱っぽい視線で嘗め回すように……って、なに……コレ?
「あたしの名前は紅印こころ。あたしはね……あんたみたいな可憐な女の子が大好きなんだ」
「うぇっ……」
うぇえええええええええ!? そういう方向!?
全く予想だにしなかった百合展開がこんなところで!?
「ちょうど良かった。ついさっき、お気に入りの『おもちゃ』が壊れちまったところでねェ……」
お、おもちゃ? まさか大人の!? 凹と凹が絡み合う為の禁断のジョイントパーツ!?
「見せてやろうか……おい」
「へいっ!」
しかしてそれは、私が妄想していたような甘美なものとはかけ離れた恐ろしいもので――
「こっ……これ……ッ! いや、この娘……!」
女の子だった。私と同い年くらいの。
だがそれは、『女の子』と表現するのが心苦しい程の……徹底的に壊されたモノだった。
「…………ア………………ア……ア……」
辛うじて生きている。むしろ無理やり生かされているのだろう。全裸で放り出されているのに、傷やケロイド状になった火傷の痕で素肌が全く見えず、顔の部品も、どこが何やら判別不可能だ。
殺されるより、惨い……ッ!
「散々遊んでやったら、三日でブッ壊れちまってねェ……これでもよく持ったほうだよ」
私の耳元で、クイーンは蠱惑的な声で囁く。
「さァて……あんたは何日もつか……今から楽しみだよ……」
そしてクイーンの有無を言わさぬ手が、私のスカートの中へ――
「イヤッ……いやあああああああ……!!」
「待てェッ!!」
「…………誰だ。いいとこだったのに、ドブ臭え無粋な奴だよ……」
突然の乱入者。それは若い男だった。短い茶髪に、シャツにジーンズと、あまり特徴のない、どこにでもいるような若者だ。
でも私は、彼の声を知っている……!
「門番さん……? あの最初の扉の門番さんだよね!」
「ああ……俺だよ」
「門番さん……直に会ったこともない私なんかのために……!」
「お前のために……? 笑わせんなよガキが!!」
「ひィっ!?」
門番さんの恐ろしい剣幕に、私は一瞬、クイーンとは似て非なる何かを感じた。
「テメェのせいだ……テメェのせいで俺の人生滅茶苦茶だ……フヒッ……フヒヒッ…………も、もう俺には何も……何も無いんだよォ!」
口から泡を飛ばして喚き散らすと、門番さんはポケットからサバイバルナイフを取り出した。
「ふへへへ……そ、そいつをここここ殺して俺も死んでやらァ! アァーッハッハッハッハァ!」
「そんなぁ……いやああああ……」
「させないよ……あたしのおもちゃには、指一本触れさせないッ!」
ナイフを構えて突進してきた門番さんを、クイーンが迎え撃った。少年漫画にありそうなかっこいいセリフだったけど、どっちが勝っても私に未来はない。
うう……ウサギさんなんか追っかけるんじゃなかったよぅ……冷静に考えて、ただのおじさん追っかけて不思議の国に行けるわけなかったのに……!
「あ、いやがったな女ァ!」
「どこまで逃げても無駄」
「あっ! あの時の双子! お願い助けて! このままだと私殺されちゃう……」
「ハッ! 俺達ァ毎日生きるか死ぬかの生活送ってんだ!」
「用があるのは君の財布だけ。僕らに渡したら、後は死のうが関係ないね」
「そ、そんなぁ……」
「まあまあ君達、落ち着いて☆」
「あへへっ♪ そこら中真っ赤でひゅ♪」
「……ずおー……むひゅー……」
「ああっ、お茶会のお三方! ネムリネズミさんはどうやって寝ながら歩いてるの!?」
「なんだテメェら邪魔すんな!」
「邪魔するならタダじゃおかない」
「君達、お金が欲しいんでしょ? ほら、これで彼女を見逃してあげてくれないかな?」
つっかかる双子に、帽子屋さんは札束を差し出した。
「かっ、金!」
「こんなにたくさん……いいの?」
「ああ、もちろん☆ さあさあ」
帽子屋さんは、ドル紙幣を盛大に地面にばら撒いた。
「欲しければ拾うといいよ。豚のようにね☆」
「お、おおう! 金……金!」
「金……金……」
迷わず紙幣をかき集める二人を眺めながら、帽子屋さんは高笑い。
「ふふふっ、惨めだよね。あんなに必死になっちゃって☆ さ、怪我は無いかい?」
「は……はぁ……」
「さて、君? まさかタダで助けてもらえるとは思ってないよねぇ?」
甲高い帽子屋の声が、悪魔の声に聞こえた。
「お、お礼……とかですか……?」
「あっはっは☆ まあそんなとこ。いやね、智絵ちゃんがお店辞めちゃったみたいでさ、僕寂しいんだよね。そこでさ、君可愛いから……僕に飼われてみない?」
「か、飼われ……て?」
「もちろん毎日お給金は出すし、いい暮らしもさせてあげるよ☆ 好きなものも何でも飼ってあげる☆ その代わり、御主人様である僕に誠心誠意ご奉仕してもらうよ? 昼も夜もね☆」
「そっ…そんなのって…!」
「ひうっ! くっ、薬がぁ……薬がァ! ああっ! もう薬が無いヨゥ!」
狼狽える私の横で、ラリルさんが金切り声を上げて苦しんでいる。
「あらら、もう切らしちゃったの? 仕方がないんだから……薬、もっと欲しい?」
「欲しいれひゅ! 欲しいれひゅ!!」
「そう……なら、分かってるよね?」
「はい……御ひゅ人ひゃま……」
全年齢版ではとても口にできないような行為を始めた二人から目を逸らし、私は絞り出すように呻く。
「こ、こんなの間違ってる……間違ってるよ!」
「何が? 結局、この社会は金の力が全てなのさ。見てごらんよその二人を」
帽子屋が指差した先では――
「あはは……金……金だ……」
「金……金金金……」
クイーンのものか門番さんのものか分からない肉片やら体液やらが飛び散る中で、双子が楽しそうにドルを抱きしめている。
「ウサギがあんなに必死に走り回ってるのは何の為? 金を稼ぐ為さ。門番があんなに怒り狂っているのはなんで? 金を稼げなくなって人生が終わったからさ。あのクイーンだって、やっていたことは結局金品の強奪だよ?」
「そんなに……そんなにお金が大事!?」
「ああ大事だね。お金のおかげで毎日メイド喫茶に通えるし、好きな帽子もいくらでも買えるし、可愛い女を何人でも囲える。これを幸福と言わずなんて表現すればいいんだい?」
「で、でも……でも……」
「くたばりやがれえええええ!」
「これしきのことで砕けるあたしじゃないんだよォ!」
「わ、私……私は……」
「ごっ……御ひゅ人しゃま……く、くしゅり……早くぅ!」
「あっはっは☆ 愉快愉快!」
「私、は……」
「分かったかい、アリス」
「智絵さん! 何なの……この世界は、一体何なのよ!」
「これが『現実』だよ……アリス――?」
「――ぅああっ!」
……あれ? どこ? ここ。
「純夏! 良かった……良かったぁ!」
泣き腫らした目をしたお姉ちゃんが、私に抱き着いてきた。私はベッドに寝かされていたみたい。この部屋も見覚えがない。
「こ、ここは……」
「ここは病院よ……あんた御茶ノ水駅の階段から落ちて、三日も意識失ってたんだから……本当に、良かった……!」
「そう、なんだ…………ねぇ、お姉ちゃん」
「なぁに? 純夏……」
「私、公務員になる」
(了)
元ネタはもちろん『不思議の国のアリス』。冒頭の文章も原作からの引用です。あれは僕が浪人中、お茶の水の予備校に通っていた頃、現実の壁にぶち当たり半ば自暴自棄になっていた頃に、高校の文化祭で劇をやるため散々見させられたアリスを思い出し、「メルヘンなお話をとことん現実的にしてメルヘン女共に絶望を味あわせてやる」というどうしようもない理由で書き殴ったもの。