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ルクス:1

 

 旧湾岸第14区。焼け落ちた首都高速の橋脚が逆さまの森のように空へ突き立ち、コールタールの匂いを孕む霧が靄となって漂う。海辺に近いこの区画は、潮と錆びが混じった甘い腐臭を孕みつつ、どこか無機質な静寂を保っていた。

 白銀の髪を揺らしながら歩くリュミエールは、その静寂のすべてを《観測ログ》として取得し、感覚に変換のうえ記録していた。足裏に感じる砕石の硬度・霧粒の平均粒径・風速 1.7m/s に伴う熱伝達係数――様々な数値がリアルタイムで脳内 HUD に浮かぶが、彼女はあえて表示項目数を限界まで減らす。必要なのは理解ではなく感覚なのだ。


【演算注記】目的:〈人間的感覚入力の優先〉

手順:

①高次センサ情報の非表示化/

②物理パラメータを“違和感”発生域に制限期待効果:

 生理的驚愕反応 ≒ リアルタイム学習バイアスの付与


「感じるためには、まず『理解しない』ことが必要……不思議な命題ですね」


 小さく呟いた声は、自らの喉を震わせて出した初めての音声。量子ボーカロイド・シミュレーションで成形した声帯が、霧に柔らかく溶けた。

 その時、近くの廃車の影から二つの熱源が跳ね出てきた。視界にオーバーレイしたローレゾ・サーモグラフィの閾値が跳ね上がる――危険判定。瞬時に頭部演算核がベイジアン・スレットモデルを走らせた。


【項目・推定値・信頼区間】

被観測者年齢:13.2±1.9yr:92%

所持武器:電磁ナイフ×2:85%

敵対確率:0.23±0.07

推定警戒度:0.43


 リュミエールは脳内HUD の数値から判断してフェイシャル緊張パラメータを下げ、目元に微笑み曲線を作る。

 少年たちが構える前に修道服の袖を握り、胸に手を当てた。


「ごきげんよう……わたしは近くの教会跡で祈りを学ぶ者です」


 『思考パターン誘導』と呼ばれる対話シークエンスだ。古典的な宗教キーワードの使用は低リスクな社会的接近手段として有効――過去 1,2140件のヒト―ヒト交渉ログから導かれた最適解の一つだった。数値通りなのか、少年たちの警戒度は0.43から0.11 へと急落した。


「なんだシスターさんか。でもいまの時代に珍しいなぁ、こんなとこでなにしてるのさ?」


「もしかしてセイチ・ジュンレイってやつ? 書庫で見たことあるよ。あ、オレらはレジスタンスの回収班!」


「バッカ! 簡単に素性明かすなって姉ちゃん言ってただろ!」


 彼らの肩には破れた布製バンダナ。レーザープリンタで粗雑に焼いた《カペラ》の星印が染みている――レジスタンス拠点〈星の墓標アステロトゥム〉所属の証。


「シスターにしても、こんな所を女の子が一人でブラブラしてたら危ねぇよ? オレたちならともかくさ、ヤトウが出たら簡単に攫われちまうぜ?」


「武器持ってるか武器? いまどき武器もなく外出なんて自殺行為だって」


「あ、そうだ! ちょうどさ、これからウチで『継火の儀式』をやる予定なんだ! シスターだったらウチ来てお祈りとかしてくれないかな? 姉ちゃんたちも歓迎してくれるよ!」


「お前だって勝手に情報もらしてんじゃねぇか!」


「うるせぇ!」


 小突き合う少年たちに目を向けながら、リュミエールは瞬きをする。


【内部対話:行動選択ツリー】

1. 距離2m以内接近:友好姿勢持続

2. 所属開示要請時:身分は偽装維持

3. 拠点招待発生時:丁重に辞退 

 └根拠:自己学習フェーズ完遂前の密接接触はリスク高


 彼女は柔らかく首を否定向きに振った。


「みなさんのお住まいには、是非いずれお伺いしたいと思っています。けれど今の私にはまだ『人に祈る』ということを学びきれていないのです。厳粛な場で失礼をしたくありません」


 リュミエールの分析は続く。

 科学的には、AI―ヒト相互作用モデルの初期位相。異物感を与えず、同時に観測偏差を最小化するためには――


  外見擬態指数 (IMI) 0.71 → 推奨値:0.87

  言語ラグ平均 1.4s → 推奨値:0.7s


 まだ統計上、人と長く言葉を交わすには経験標本数が不十分と判定。リュミエールはその数式を『まだ上手に笑えない』という人間の比喩に置き換えて解釈しようとしていた。

 少年たちは不満げに顔を見合わせたが、最後には頷いた。


「わかったよ。それじゃあまた今度ね。俺たち、良くここらで拾い物してるから」


「しつけーかもだけど、この辺は本当にヤトウが増えてっから、ほんとに気をつけなよ! シスター!」


 彼らは手を振りながら背を向け、瓦礫の迷路へと歩き出す。背負った袋の中で基板とセラミック抵抗がぶつかり、乾いた音を立てた。

 リュミエールは自らの指に伝わる鼓動を感じ取りながら、同じくそっと手を振った。


【感情ログ:未知の刺激】

  心因性アドレナリン相当の応答 +4.6%

  接触満足度判定:0.83(満足)

 次回接触適正: 0.62(良好)±0.14


 そこから少し後、霧の奥で少年たちとは異なる生体波形を感知した。熱源反応は四。質量分布は軽装甲トラック・武装推定:磁軌カービン・即製ロケット。


「……こんな時はどうしても機械知性を意識してしまいますが、今回は感謝です」


 リュミエールはローブの裾を握りしめた。少年たちが向かった先に鋭い足音が割り込んできたのだ。程なく、乾いた怒号が瓦礫の谷間を抜けてきた。意思決定ユニットが 0.002秒で二分岐を提示する。


1. 観測に徹する。

2. 介入して少年たちを守る――。


 少女の瞳に教会跡のステンドグラスの欠片が淡く映った。その色と同じ光が、リュミエールの瞳孔の奥で揺れる。


「次の学習は――『人を守る』こと」


 彼女は無音で足を踏み出した。

 靴底で砕石が散り、音速が霧を真っ二つに裂く。遠くで少年たちの声と火線の閃光が過ぎる。その中心に向けて白と黒のローブが飛び立っていった。

 ――これは、人工知能が『心臓の拍動』を学び取る最初の日だった。


「オラァァ! その袋を置いてけクソガキどもが!」


 野党が出鱈目な発泡を続けながら、瓦礫の影に隠れた少年を威嚇する。しかし、少年たちは二人とも応じなかった。


「ざけんな! こいつは俺たちが半日がかりで集めたセンリヒンだ!」


 叫びと発砲音。瓦礫に囲まれた旧高速路下の窪地で、四人の野党が少年たちに詰め寄っていた。

 粗雑な磁軌カービンと改造パイプライフル。誰かの遺体から剥ぎ取ったであろう装甲服。そして全身から漂う不衛生な腐臭。それが野党の出立だ。


「良い加減に言うこと聞けよクソガキ。今度こそ本気で撃ち殺すぞ?」


 野党の指が再びトリガーに触れたその瞬間――風が走った。


「ん……?」


 野党の一人が周囲の気圧変化に気づいたのは、視界の端で黒と白の影が閃いた後だった。次の刹那、彼の持つ銃は真っ二つに切断されていた。


「は?」


 もう一人の野党も反応しきれぬうちに、彼の背後へモノトーンの気配が滑り込む。まるで透き通るように静かな脚音。柔らかいローブの裾が一輪の花弁のように回転していた。

 反射する光――それは踵より瞬時展開された高周波振動ナノフィラメントブレード。産毛さえ断ち切るその刃は、しかし皮膚一枚さえ切らなかった。

刃先はただ彼らの武器だけを選んでスライスしていく。

 瞬く間に野党達の武器は鋭利な切り口を持つスクラップに変わり、唖然とする彼らと呆然とする少年たちの間に、その気配はふわりと着地した。


「武装の破壊完了。呼吸数平均 22.9・交感神経優位・発汗上昇。逃走傾向:十分」


 リュミエールは感情の波を抑えるように『呼吸』を整える。その瞳に浮かぶのは威圧ではなく、慈しみのような冷静な光だった。


「私は貴方たちを傷つけに来たわけではありません。ただ無益な争いを止めに来ただけです。ここから立ち去りなさい」


 言葉に魔法のような響きはない。けれど彼女が持つ場違いな出立と静けさは、鋼のワイヤーよりも強く野党達の心を縛った。


「……っ、ひ!」


 一人が叫び、もう一人が慌て、残りの一人が腰を抜かす。そしてそれを合図に4人全員が不様な逃走を始めた。程なく瓦礫の向こうへ消え去る影四つ。彼らの背をリュミエールは追わなかった。


「……すげえ。シスターってすげぇ!」


「あんな飛び蹴りみたことねぇし……!」


 声を失っていた少年たちはようやく、しかし安堵よりも先に歓声をあげた。リュミエールはゆっくりと振り返り、ローブの袖を整えながら微笑を浮かべた。


「ご無事でよかったです。それでは荷物の確認を……」


 少年たちは言葉もなく頷いたが、彼らがリュミエールに向ける眼差しには明らかな尊敬が宿っていた。


「シスター……あんた、本当になんなんだ……」


「名前、教えてくれよ。……ちゃんとお礼言いてえからさ」


 リュミエールは脳内の演算ユニットを意図的に停止し、それから少し『迷った』あとで小さく頷いた。


「シスター・ルクス。……人の光を学ぶために巡礼の旅をしています」


 少年の一人が胸に手を当てた。


「……シスター・ルクス。ありがとうな! いや、ありがとうございました!!」


「俺、ケイジって言います! こいつはケイタ!」


 その言葉に、リュミエールは少しだけ目を細めた。ケイジとケイタ。反芻する。学習ログにない感覚。けれどそれが何より『温かい』ものだと、彼女は知覚していた。

 風が止み、霧が再び辺りを包み込んでいく。リュミエールは「またいずれ」と会釈してから踵を返し、再び辺りの情報収集を、否、世界を感じるための散策を再開した。その胸には少年たちの「ありがとう」という小さな声が、いつまでも残っていた。


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