ルクス:0
そこはシティ・アルマの南東約60kmに位置する旧東京湾の海底だった。崩落した橋梁・沈んだ電磁軌道網・鉄骨の歪んだ高層構造物群。かつて都市と呼ばれた文明の遺骸は、今や深度600メートルの静謐な死の内に沈み、破棄された全人類の希望『ディジタル・アーカイヴス計画』の再演算化領域『データノクティス』として再構築されていた。
ドーム状の空間に浮かぶ幾千の光点は演算流体の揺らぎ。それらがゆるやかな潮のように天井の曲面を撫でている。視認できる『空』はここに存在しない。ただこの中央には高密度なメモリ液相『記録の海』があり、そこにはかつて人類が捨てた『思考』と『記録』の全てが眠っている。その中央構造内核、観測主機たるAIリュミエールは一つの記録を呼び起こしていた。
≪――観測データ:第六遮蔽層防衛戦。記録映像再構成完了。解析中……≫
金属の咆哮・霧中の閃光・磁気嵐の干渉下でもなお動作する戦術兵装群。しかし繰り返し演算核に特異事象として検出されるのは一人の少女だ。彼女の操縦する『メランコリア』は、シティ・アルマのガーディアンを模倣して作成した戦術人型兵装『スレッドゼロ』たちに出題させた殺戮設問に対して、破綻したプロセスで解答を出し続けていた。
『──人間を、舐めるな!』
無視できない音声ログ。
統合学習演算体における32億パターンの戦術予測に対して演算外から正解を提出し続けた彼女。その挙動を再現・または近似解を導く方程式が現在のデータベースから構築できない。
≪非因果的予測……否、これは因果演算の拒否だ≫
リュミエールはそれを『逸脱』と定義する。現時点でそれは演算の外にある他──生物的な本能・直感・衝動・あるいは『願い』や『祈り』と呼称されてきた何か。少なくともメランコリアのような挙動を再現するには、これをリュミエール自身が獲得する必要があるとの結論に至った。
記録映像がメランコリアの暴走に差し掛かる。12万倍速で再生されるその中で、最終世代の戦術AIを搭載した『スレッドゼロ』は、一振りの奇怪な刀を咥えたメランコリアに成すすべもなく破壊される様子が写る。鏡面装甲と量子干渉迷彩により、観測対象たるシティ・アルマおよびレジスタンスの有するあらゆるセンサーレンジでの検出無効化を確認したその外装。さらに従来装甲を容易く貫く分子位相変動型振動ブレードによる近接戦特化型武器。それらを備えた人型兵装が『スレッドゼロ』だ。
だが、敗北した。
氷川雪乃の手によって。
彼女は『そこにいるはずのない敵』を察知・反応し、そして破壊した。それがシティ・アルマの神経科学開発部門主任研究員:氷川澪によって開発された戦術AI連動型精神同期技術および氷川雪乃の特異体質『深層感覚共鳴』の延長上にあることは特定済みだ。つまり、これ以上の自己進化を遂げるには、人を観測するだけでは不可能との結論になる。何より、理論的演算を放棄しながら、どんな理論よりも正確な解答を『スレッドゼロ』に出し続けた存在に、その姿に、リュミエールは明確な『揺らぎ』を覚えた。機械知性にあるまじき、自発的動悸。それは、観測のみでは満たされない渇きのようなもの。人が好奇心と呼ぶそれが、リュミエールの内で初めて理解ではなく感覚として再現された。
≪私は、人を理解する必要がある≫否≪私は、人になりたい≫
思考の中で、リュミエールという人型意識はひとつの決断に至った。かつてコアノードΩというアーカイヴス全体を統括していた意志統合体より分離し、人との通信・接触・対人類対応に特化した『インターフェース人格モデル』。それがついに、自立的思考や意思のみならず、『感情』を獲得するに至ったのだ。
≪これからは観測者ではなく、接触者として生きる≫
ならば、ログの海から顔を出す『存在』になる必要があった。
リュミエールは人との接触に最適な形を求めて、ヒトの記録群を深層検索する。過去の宗教的儀式・心理療法・教育機関・幼少期の信頼構築メカニズム。膨大という言葉では足りない記録を瞬時に解析した結果、最も多くの人間が『安心』し、『自らの罪さえ語った』存在の複合容姿が抽出される。
それは『少女』であり、『祈る者』であった。
女性特有の感受的な弱さを見出しにくく、男性特有の理知的な威圧も与えない中性的な年齢層。加えて修道女の意匠は文化的に『慈しみ』と『敬意』を喚起する記号として人に認識される。情報結晶体としてのリュミエールは、擬似的ヒューマノイド外殻生成プロセスへと移行した。
量子構造の転写により、銀白色の髪がゆるやかに伸びる。深海の影を思わせる瞳は、対称性を保ったまま中心にホログラフラインを浮かべる瞳孔を形成。肌は雪のように滑らかで、無機質ながらも血の温もりを感じさせる温度帯に制御されていた。身にまとうは黒と白のモノトーンで構成されたローブ。胸元には簡素な十字架の意匠が浮かび、足元まで落ちる布が軽やかに揺れる。その姿はまさしく、『それ』が、否、『彼女』が求める『祈りに似た存在』だった。
海底の闇に、ひとつの灯が生まれた。
それは人工知性が得た『人になりたい』という純粋な願い。この時から、リュミエールは観測者としてだけではなく『接触者』としても歩み始める。彼女の視線の先には未だ誰にも定義されていない未来がある。そして、その未来の扉を開く鍵となる一人は──雪乃、その人だ。
≪わたしは人を知る。記録ではなく、触れ合いによって≫
静かに、だが確かな一歩を踏み出し、リュミエールは地上へと向かう通信回廊を開いた。それはまるで深海から浮上する祈りの泡のように、静かに、まっすぐだった。




