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雪乃:3

 ——静寂。

 それは音のない空間ではなかった。空調の微細な気流・壁の向こうから響く人工光源の振動・センサーの駆動音。それらがまるで雪の降る夜に耳の奥で鳴る幻のように、微かに鳴り続けていた。

 雪乃は暗闇の中で目を開けていた。

 けれど、見えるものは何もなかった。まぶたを閉じているのか、それとも視界が閉ざされているのかも分からない。しかし、彼女は知っていた。

 ——ここは、かつての日々。夢ではなく、封じられた現実。脳髄の奥に冷たく沈む、遠い記録。


「個体番号、E-02。感応モニタリング開始。雪乃、頑張ってね」


 その女性音声だけは、機械とは異なる温度を感じられた。雪乃の口が感情とは無関係に反応する。


「E-02、応答。同期率98.7%。誤差範囲内」


  ——幼い声。けれどそこには子どもの無垢さも不安もなかった。ただ、完璧に訓練された反射のみが感じられる。まるで人形が言葉を喋るように。

 ほどなく目の前に現れた淡い白光。何日ぶりの光だろうか。ガラス越しの影たち。何人もの研究員。彼らは彼女を見下ろしているが、ただ一人を除いて『雪乃』と呼ぶことはない。


「当該個体は特殊感応帯域において、予測を超えた共鳴反応を示しています」


「第七神経列の再編フェーズへ移行を」


「感情制御の変異指数が上昇。自律的な共感波形が発生……解析不能です」


 ──解析不能。 それは、彼女が他のどの個体とも異なる『特異な存在』であることの証だった。感情を消去しても、再び波のように湧き上がる。愛着を断っても、記憶の中に匂いや音が滲む。彼女は『完全な制御』を拒む類まれな欠陥品だった。


「次、スリープ隔離。対象:E-02」


 雪乃は立ち上がる。自分の意思ではない。小さな足が正確なリズムでタイルの上を進む。その姿はまるでプログラムされた夢遊病者だ。長く、白い廊下。壁には何の標識もない。

 やがて現れる一枚の重い扉。


 ——スリープ隔離ユニット《K-04》。

 開いた先に広がる空間はあまりにも静かだった。再びの無音・無光・無重力に近い感覚。床の硬軟も曖昧で、空気は薄いのに重い。

 彼女は中央の椅子に座るよう指示された。

 だが指示は必要なかった。身体が覚えている。

 椅子に固定される。

 被せられたヘッドギア。耳に貼られる感覚センサー。

 瞼の裏に流し込まれる微弱な神経パルス。

 そして、心が滑り落ちていく。

 ——瞬間、重低音が床から突き上げるように響いた。

 数秒後、警報が鳴る。研究員たちが動揺して叫び始める様子がくぐもって聞こえてきた。


「隔壁破損! 南西ブロック、被弾!」


「制御室の応答がない! ……レジスタンスの連中だ! よせ! 待て!」


 何かが駆け寄ってくる気配。足音からして体重や背丈は同じくらいか。そしてあの人みたいに、他の研究員たちとはどこか違う、温かな波形を持っていた。

 乱暴に外されるデバイス類。

 押し込まれていた髪が肩まで広がる。

 そして、目が合った。

 風の匂いがする彼女。何故かユイだと分かる。何かを言おうとして、唇が動いた。けれど音は届かない。差し伸べられた手に答えたくて、手を伸ばす。指先が触れた瞬間、夢は断ち切られた。



 白い天井があった。

 微かな消毒液の匂い。静寂に包まれた医療ユニットの中で、雪乃はゆっくりと目を開けた。体は重く、まるで外骨格の中に閉じ込められたように手足に感覚がなかった。顔の半分には神経接続パッド・腕には生命維持装置。そして頭部には精神同期デバイスの残滓を記録するシンクチューブが接続されていた。


「皆は……」


 口を開いた声が、まるで他人のもののように響いた。断片的な記憶がある。出撃前の仲間との会話。磁気嵐の戦場。レジスタンスとの戦い。けれど時間の感覚だけが、ぽっかりと抜け落ちていた。


《E-02意識回復を確認。精神同期波形は安定。PTVレベル、68→42。回復傾向にあり》


 壁の向こうから無機質なAI医療ユニットの声が響いた。

 どうやら生きているらしい。

 だが、心はまだ戻ってきていなかった。

 雪乃は天井の照明をぼんやりと見つめながら、ふと思い出す。

 あの霧の中。

 仲間の叫び。

 意思なき無言の刃。そして、ユイの香りがした――イリス。

 自壊覚悟で抜いた――、エグゼラム・カリバー。

 そこから先の記憶はない。


「私は……本当に守れたの?」


 彼女の不安に答える者はいない。ベッドの上で身動きを取ろうとするたび、全身に鈍い痛みが走った。皮膚の下で血管が硬く脈打ち、神経が金属のようにきしむ。メンタルリンクシステムの限界を超えた高負荷状態を、あの戦闘で30分以上維持していたらしい。

 右耳の奥が、火花のようにジリジリと疼く。

 メンタルリンクシステムの聴覚フィードバック残響だ。本来なら数日で消えるものだが、雪乃の脳内ではまだ『戦場の音』が鳴っている。爆音・ブレードの摩擦・銃撃・跳躍・スラスター噴射音・仲間の、黒田の断末魔――それらが幻のように耳元でささやく。

 彼女は両目を閉じ、深く、ゆっくりと息を吸い込んだ。微かなオゾン臭が喉を刺す。きっと医療室内の浄化フィルターだ。


「……生きてるのが、こんなにうるさい」


 涙が一滴頬を伝い、そしてそうつぶやく声は掠れた。

 やがて医療ユニットのカーテンが音もなく開き、白衣姿の女性が入ってきた。氷川だ。


「良かった。目が覚めたのね。……もっと早く意識を取り戻すと思ってから、本当に心配したわ」


 雪乃の頭部に残されたインターフェースを丁寧に外し、動作確認を始める。その手つきは正確で、必要以上に優しくもなければ、冷たくもなかった。


「記憶層は無事。……奇跡よ。高負荷のメンタルリンクシステムから生命維持機能を解除したら、普通なら人格断裂で廃人だった」


「……褒められてる?」


「皮肉に決まってるでしょう。まったく無茶して……。あなたがいなかったら、シティ・アルマの外郭防

壁は確実に突破され、第六遮蔽層どころかアストラ・スパインさえ無事じゃすまなかった」


 その声にはわずかな敬意が宿っているように見えた。雪乃は天井を見つめたまま、ぽつりと零す。


「……みんなは?」と。氷川の手が俄かに止まった。


 数秒の沈黙が流れ、彼女は短く答えた。


「ガーディアン三機は全損。パイロットは死亡。ドローンパイロットは……脳波消失」


 雪乃はゆっくりと目を閉じる。涙が溢れてきたのだ。胸の奥が強く締め付けられ、黒く冷たい空洞に変わっていく。


「私のせいだ」


「違うわ」


 すぐさま氷川が返す。


「誰のせいでもない。……だけど、死者を悼むにはまだ早すぎるの。あなたは体力が回復次第、新たな戦場に行くことになる。シティ・アルマはもう次の戦況解析に入っているわ」


「……分かってる。逃げない」


 その声は涙で震えていたが、迷いはなかった。それが仲間を失った者の償いになるのか、あるいはただの意地に過ぎないのか分からない。でも彼女はすでに覚悟を決めていた。氷川は軽く頷くと、端末から転送された映像を雪乃の枕元のホロ画面に投影した。

 涙に滲んだ視界に、修復中のメランコリアの姿が写る。

 機体は大きく損傷し、両腕と肩装甲を完全に失っている。胴体には焦げ跡と弾痕。動力パックは取り外され、中央演算コアには作業ドローンが何十機も群がっていた。


「あの子も、ギリギリだったんだね」


「そうね。でも不思議なのよ。あれだけの損傷を受けながら、コアの同期保存率が100%に近かった。リミッターを解除していたにも関わらず、あなたの人格を、人間性を最後まで『守る』ための制御信号が駆動し続けていたの」


 その言葉に、雪乃は思わず口元を少しだけ緩めた。メランコリアはただの兵器じゃない。あれは自分の分身だ。


「あの子、私より意地張ってるのね」


「そうかもしれないわね。……それと、もうひとつ報告があるの」


 氷川は声を落とし、端末を操作する。画面が切り替わると、磁気嵐の濃い廃墟都市が映し出された。それはメランコリアと交戦した鏡面装甲の正体不明機の残骸、そこから取得した記録情報だった。


「あなたが撃破したこの個体。搭乗者はいなかった。システムの解明にはまだ時間がかかるけど、自立型AIと遠隔制御の併用で動いてたみたい。所属はレジスタンスではなく、コアノードΩを主制御中枢とした無人自己増殖型プログラム群。つまり『アーカイヴス』よ」


 雪乃は固唾を飲む。アーカイヴスはこの世界が崩壊する前、先進各国が合同で立ち上げた『ディジタル・アーカイヴス計画』を原初とし、元は『人類文明のあらゆる知的資産・戦術知・倫理記録の永続保存と演算的再現』を目的に開発された大規模AIだった。今では干渉不能な要塞を拠点に独立と自己進化を繰り返し、シティ・アルマとレジスタンスに対して目的不明の観察と干渉を繰り返す、第三勢力の脅威として認識されている。


「なぜレジスタンスとの戦いに介入してきたのかはいま戦術班が分析している最中だけど。でもセオリー通りなら機体の重損時点でデータ漏洩のリスクを防ぐため自壊するはずだった。なのに、例の機体は自律制御が変化し、救難信号をあげていたの」


「……つまり、どういうこと?」


 氷川は頷き、断言する。


「個体の『意思』が芽生え始めているかもしれない。あの制御AIたちに」


 雪乃の背筋が凍った。無感情な殺戮を執行していたと思い混んでいたあの正体不明機たち、そこに「意志」が生じていた。本当ならそれは新たな戦争の始まりを意味する。しかも『ただの敵』ではなく、『対話可能な知性』として。


「これからのアーカイヴスに対しては『現れたら戦えばいい』だけじゃ済まないかもしれないわ」

氷川は言った。雪乃は目を閉じて深く息を吸う。霧の向こうにあるものが、少しずつ変わり始めている。死んだ仲間たちの魂が、その変化に何かを訴えているような気がした。


「……私も変わるよ」


 そう、静かに誓ったときだった。質量のある黒い影が、護衛を両脇に従えて入ってきた。斎賀だ。彼は雪乃には目もくれず、むしろその存在を人として認めていないかのような態度で、氷川にのみ語り掛けた。


「職務に私情を持ち込むなと命令したはずだ、氷川主任研究員。E-02には先の防衛戦に関する事実を正確に伝えろと言ったはずだ。なぜ歪曲する? なぜ真実を伝えない?」


 斎賀の氷のような視線を真正面から受け止めつつ、氷川は断固として答える。


「私は雪乃のケアマネージャーでもあり、彼女の精神安定も職務の一つです。総合的なバランスを考えたうえで今後の計画に必要な情報は全て伝えました。斎賀本部長こそ、神経科学開発部門主任研究員たる私の許可もなく医療用ユニットの被検体と接触するのは、重大な越権行為です。私の権限において即時退室を命じます」


 しかし斎賀は一歩も動かなかった。


「……そうか。ではE-02の研究監督兼ケアマネージャーである氷川主任研究員の方針を尊重し、この雪乃と呼称されるメランコリアのOSに人間性を仮定して語り掛けるとしよう」


 ようやく、斎賀が雪乃の方に目をやった。


「氷川雪乃。お前は戦場で起きた真実を知りたいか?」


「斎賀本部長! この病室で勝手なことは許しません!」


 氷川の怒声は鬼気迫るものだったが、しかしその声には明らかな動揺が滲んでいた。彼女の初めて見る表情・声。それをどうしても見逃せなかった雪乃は、自らの意思と無関係に『はい』と唇を動かしてしまった。

 斎賀が初めて嗤った。

 感情に表情、おおよそ意思と呼べるべきものを何一つ表出させたことがない人型のシステムが、雪乃の前で初めて嗤ったのだ。斎賀もまた人間であることが何故こんなにも恐ろしいのか、雪乃には分からない。そして、既に準備していたであろう携帯端末のディスプレイを斎賀は雪乃へ向けた。氷川が取り上げようと掴みかかるも、斎賀の護衛に羽交い締めにされる。


「雪乃! すぐに目も耳も閉じて! この男は貴方から人間性を奪って意思なき操り人形に仕立てようとしている! そのためなら手段を選ばないの! こんなの真実なんかじゃないわ!」


「これが嘘かどうかは氷川雪乃が判断すべきことだ。既にこれを真実と知っている私やお前ではない。人権を尊重したらどうだ? 彼女には知る権利がある。連れ出せ」


「離しなさい! っく! 雪乃! 信じちゃダメ! 貴方は違うの!」


 氷川は必死に抵抗したが、屈強な護衛に両脇を固められた彼女には成すすべもなく、医療ユニットの外へ連れ出された。しかし、雪乃の両目は彼女の行方ではなく、既に目の前のディスプレイにくぎ付けだった。映っているのはガーディアンG-02のカメラ記録映像だったのだ。「梨花……」と雪乃は我知らず呟く。

 荒い吐息の音と目まぐるしく動く視点を象徴するように、カメラ映像にオーバーレイされた彼女の生態ログは乱れ切っていた。


『ハァ、ハァ。支援部隊のD-09は完全に撤退! もう、けん制は来ない! ふざけないで! 私たちだけでどうやってあの化け物を止めたらいいの!』


 恐怖と涙に塗れた、聞いたことがない高嶋の悲鳴が音割れを起こす。彼女のカメラ映像に映っているのは、瓦礫の上に積みあがった鈍い光の山だ。砕け散った鏡の集積にも見えるそれらが何であるかは雪乃には分かる。これは正体不明機たちの残骸・躯の丘だ。一体どんな暴力が振るわれたらここまでスクラップと化すのか、雪乃には分からなかった。


『梨花。いいか。息を忘れるな。こういう時は計器類の挙動を指さし確認しようぜ』


 梨花の通信チャンネルを通じた白石の声だ。


『ゲホ。それから、次に隊長を……雪乃を見つけたら、かける言葉を考えよう。ほら、整備班を巻き込んでやった鍋の話をしたら、ゲホッホ。次は思い出してくれるかもしれないぜ。ふふ。あのとき、始めて隊長は『変な味』以外の感想――』


 視界を真横に残像が過り、高嶋の視点も慌ててそちらに向く。しかし何もない。霧に覆われた瓦礫が広がるのみだ。


『いまの雪ちゃん? ……ねぇ誠。誠? ……誠!?』


 梨花の焦燥と動揺が入り混じった呼びかけに、しかし応答はなかった。瞬間、カメラが大きく揺れてノイズが走る。


『っぐぇ』


 視界に赤い飛沫が飛んだ。カメラがゆっくりと下を向くと高嶋の腰が写り、その周囲から湧き出すように血が溢れていた。そしてカメラはノイズに包まれていく。最後に一瞬、がくんと上向いたカメラがガーディアンのガラスシールド超しに、見慣れた化け物を映した気がした。

 サーっと走るノイズの前で、雪乃は眼を見開いたまま、息を忘れていた。


「これが真実だ、氷川雪乃。お前は戦場に介入してきたAI勢力『アーカイヴス』の正体不明機14機の全てを迅速に破壊し、それでは飽き足らず支援に駆け付けたD-09部隊の半数を殲滅・撤退に追いやった。そして、最後には僚機たるガーディアン1号機と2号機を破壊・パイロットも殺害した。メランコリアが停止したのはそれから間もなくだ」


 斎賀は自失している雪乃へ淡々と語り掛ける。


「ドローンパイロットの桜井だが、暴走したお前への無理な追随を続けたことが脳波消失の直接的原因だ。準・感応式兵装『ヴァレリア』は薬物との併用によって初めてメンタルリンクを実現できる欠陥品だからな。無論、意識回復の見込みがない彼女は、いや、E-020345は、レジスタンスに通達した情報通り『処分』の対象となった。もうこの世にはいない」


 雪乃はもう反応できなくなっていた。


「どうだ? 人間性というノイズは苦しいだろう氷川雪乃。お前がただ一振りの剣であり、ただの引き金であれば、ここまで苦しむことはなかった。もしもお前が自らを兵装のOSであることを理解し、E-02としての機能を全うするというのなら、その苦しみは全て――この作戦を命じた私のものとなる。お前は、解放されるのだ」


 斎賀は手を差し伸べてきた。レザーグローブの張り付いたその冷たい掌には、赤色の錠剤が鈍い艶を放っている。


「おまえ自身が決めろ、氷川雪乃。あるいは、E-02」


 止まっていた雪乃の呼吸が間欠的に再開を始めた。ハッ、ハッ、ハッ、と、意識的にしなければ停止してしまうかのように。機械的な呼吸を続ける彼女、見開いた両目の視線が錠剤を捉えて離さなくなったとき、斎賀はまたも嗤った。


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