ミヅキ:1
旧湾岸第14区の工場群跡では、長らく凍結していた時が再び流れ始めていた。塩の結晶と灰で出来た地層が機械仕掛けの蜘蛛たちの疾走で沈み込み、黒褐色の水溜まりから濁った飛沫を跳ね上げる。ピアニストの運指よりも速く八脚を動かし、人型兵装の疾駆に匹敵する速度で這い進む1.5m程度の蜘蛛型自律兵たちはいま、一機の軽量な戦術人型兵装を追尾していた。
地面のみならず倉庫の壁面やパイプラインの曲面さえも、多重センサーが組み込まれた八脚で滑らかに進み、進路がと絶えればワイヤー付きスパイクを移動先に撃ち込んで滑空する。狭い隙間や劣悪な足場、遮蔽や障害物をものともせず獲物を追い詰めるこの蜘蛛たちは、かつて旧政府がクラシック爆圧地雷の探査の為に大量生産した『スワーム・スパイア』と呼ばれる自律兵器だった。
数機が好機と見定め飛び掛かり、複眼のような光学センサーを赤黒く発光させる。獲物と見定めた人型兵装の急所となる背部ユニット目掛け、跳躍移動にも用いていたハープーン射出機を次々と撃ち込んでいく。それらが正確無比の精度で命中していくと、蜘蛛たちは即座にナノマシンを含有した腐食液注入による汚染を試みた。しかしそのとき、仕留めたはずの人型兵装の姿は明滅しながら消え、代わりにクレーンの巨大な歯車が現れた。
幻影投影。
プリセットされた機体の電磁気情報と映像情報を再生できる薄膜シートだ。蜘蛛たちが騙されたと理解したと同時、セットで仕掛けられていた指向性地雷がシートの内で着火した。マイクロ衝撃波で射出された無数の分子破断結晶が鋭い円弧を描いて蜘蛛たちの群れを瞬時に通過。少し間があってから蜘蛛たちは細切れとなって崩れ落ちた。辛うじて致命傷を免れた数匹は、しかし死角上方より放たれた低反動弾のバーストに穿たれて即座に沈黙する。
――やれやれ、ルクスさんの教会を修理して以降、虫はトラウマなんだよな。
やがて、仮初の足場とされていた古びたサイロはついにその重み耐えかねて崩落し、粉塵と瓦礫の中から鋭角なシルエットの軽量人型兵装『リード・スカウト』が出てきた。それはここで局地戦の展開を余技なくされている、レジスタンス遠征部隊において『目と耳』を担っていた軽装偵察部隊だった。
機体はそのまま近くの倉庫の影に移動し、まだ放熱機構が作動している軽量磁気ライフル『スピア・Mk-IV』のマガジンを素早く交換する。自慢の電磁光学迷彩は鉄の海とのファーストコンタクト時に情報汚染で剥がされ、360度スキャンが可能なマルチ・センサーブームも同様に使用不能。隠密偵察が信条の機体はいま、その両方を奪われた上に白兵戦・火兵戦を挑まれ、その戦力を着実に削られていたのだった。灰鉄の狩人と誉れたこともある精鋭も、こうなっては形無しだ。
偵察部隊の副隊長を担っていた特化兵のナギサは、腰部装甲に確認できた残り一つの弾倉を見て嘆息する。
――これを使い切ったら看板か。あとはもう御守しかない。さて、どうしたものか。
HUDが即席武装探索プロトコルの起動を知らせる。すぐ傍にある煤けたコンテナが視界の隅で拡大表示され、そこには火花を散らしている軽火力支援機が沈んでいた。その両腕部にマウントされた軽量ガトリング砲が強調表示される。これを取れと言っているらしい。しかし、このような機体に登録がない武装は火器管制機構が効かないため、使用するときは旧世代機のように感覚に頼った偏差射撃となる。
――それでもけん制程度にはなるか。隠密にこれ以上似合わない武器もないが。
システム上で承認し、両手に装着しているハプティック・スティックが操作インターフェースをHUD内に表示しようとした時だ。
『こちらリード3号機! ガーディアン型の戦術人型兵装を南西の倉庫群に目視確認した! 警戒しろ!』
『……こちら2号機、了解した。ぶちのめしてやるさ』
ナギサはヤケくそ気味に応答してから一呼吸。
――ガーディアンか。
鉄の海がシティ・アルマを壊滅させた際に、ナノマシンが飲み込み、汚染のうえ鹵獲した機体だろう。連中との相性は控えめに言っても最悪だ。装甲で負け、火力で負け、機動性で負け、それでも酒があれば『索敵と隠密で勝っているから五分五分だ』と強がれる相手なのだ。
パタタタっという革を叩くような軽量磁気ライフルの銃声。そう遠くない位置だ。例の蜘蛛に見つかって交戦を余儀なくされたのだろう。
――だから、虫は嫌だってのに。
ナギサが脚部ペダルを踏み込むと、音の方向へリードスカウトは駆けだす。
もうスラスターを噴かせる水素燃料は使い切り、マイクロ融合炉も情報汚染のリスクを考慮すれば稼働できない。これまでの余剰エネルギーで発電した有機バッテリだけが機動の頼みだ。HUDには活動限界を示す『残量5%未満』が点灯している。恐らく生き残っているほかのリードスカウト機たちも似たような状況だろう。
倉庫街を駆け抜け、十字路の手前は慎重に確認。磁気ライフルの銃口如き、ガーディアンにはコケ脅しにもならないのは百も承知。そこで鳥肌に似た気配を察知し、振り返りざま伸縮ブレードを薙ぎ払うと手応えがあった。重油に塗れた切っ先には、胸部を貫通されて痙攣する蜘蛛が刺さっていた。その口元からはスパイクの先端が鋭く光っている。
「くそ!! 今度殺虫剤持ってきてやる!」
振り払って駆け出すと、これまで息を潜めていた十数匹が一気に湧き出てきた。コイツらの目的は索敵と追い込み、即ちガーディアンの猟犬だ。遮蔽に潜んだ自分たちを開けた場所へと狩り出して、その主たるガーディアンの火線に晒さらそうとしている。何せこの薄い複合カーボナイト装甲だ。中距離長銃のAPX(高密度徹甲弾)を数発も浴びれば重損を免れない。
無論、撤退は何度も試みた。
リード・スカウトの細身を活かした、配管トンネルや半水没エリアにおける地下通路への潜行。排気ダクトや倒壊した巨大煙突を経由した匍匐移動。脚部マグネットグリップを使用して製鉄工場内の搬送レールから、それこそ蜘蛛のような脱出を試みたこともあった。しかしどんな形であれ退避を選べば、まるで先読みをされたようにナノマシンや蜘蛛が先々より湧き出てくるのだ。まるで、この戦いに端から逃げ場などないことを知らしめてくるかのように。
――だが、あくまで『檻』としてしか機能しないのは何故だ。
銃をセミオートに切り替え、牽制射撃を行いつつ考える。そう、蜘蛛は兎も角として鉄の海の主体たるナノマシンは積極的には襲い掛かってこないのだ。かつてシティ・アルマを飲み込んだあの知的な液状金属は情報汚染の媒介源でこそあるものの、今のところそれ以上ではない。そしてガーディアンを含む自律兵器への通報や連携を行うセンサーのような役割も果たしている様子はない。もしそうであれば、こちらの位置はとっくに割れて全滅しているはずだ。
――その能力がないのか、それとも『敢えて』そうしているのか。
敢えて?
なぜ、機械に過ぎない連中が『意思を持つ何か』のような選択をする?
得体の知れない自問自答の行方に背筋が寒くなったとき、気付けばこの廃墟群の中心となる製鋼工場のメインヤードへ追い込まれていた。
巨大な製鋼プラントを解体して出来たであろうだだっ広い広場。鉄粉とガラス化したスラグに覆われた地面が、霧の湿気により鈍く濡れていた。幾つも断裂のある錆びた移送レールは見ているだけでも油の焦げた臭いがする。
そして、薄々感じていた予感は的中した。
すべてが最初から敵の術中だった。
役目を終えたらしい蜘蛛たちはもう襲い掛かることもせず、潮が引くように暗がりへ溶けていく。狩り出されたのだ。崩落した溶鉱炉の残骸のなかで、胸部装甲に空いた弾痕から火花と硝煙を吐くリードスカウトが片膝をついている。その周囲にも原型を留めぬほど重損した複数機のリードスカウトが築いた瓦礫があり、それらは冷却液の緑や硝煙の黒、火花の青などを放つ悪趣味な装飾と化していた。
そして、弾薬も燃料も尽き、成すすべもなく焼け焦げた煙突群のなかで屹立しているリードスカウトが2機いる。ナギサは一見無傷の彼らとへ急いで通信チャンネルを開いた。
【LINK ERROR】
警告:異常なコード断片を検出:『たすKえ……たすすk』(自動音声フィードバック/出所不明)
*回線保護のため切断しました。ERROR CODE: SIG-CRPT/Δ-14
【LINK ERROR】
――ああ、知ってたよクソが。
ナギサは我知らず拳を作る。もう意志疎通は愚かその生存確認さえ取ることができない。少なくともあの二機はソフトウェア的に死んでいる。
――何とか助ける方法は……。
おもむろに接近しようとしたとき、ふと、可変戦術ブレードを握り締めた腕部装甲が足元に転がっていることに気付く。下腕部に青くペイントされた『参号機』の文字を認めたとき、あの無線も銃声も、全て情報汚染が引き起こした錯覚だと気付かされた。
――あの、蜘蛛だってそうなのか。俺が、機体を通して見ていたあれも錯覚なのか。
それさえ分からない。
確かめる術もない。
そんな己を包囲するように現れたのは10機のガーディアンだ。溶鉱炉脇に3機。廃棄鉄骨の折り重なる影に紛れるように2機。倒壊したクレーンの影に1機。
そして、退路を塞ぐかのように後方から4機。
レーダー機能を無効化されるとはこう言うことだ。影に潜んで静止していれば工学カメラのみで索敵・抽出する術がない。機体の輪郭が流砂を浴びているようにザラついて見えるのは、夥しい数のナノマシンを纏っているせいだろう。
――死体に群がる蛆かよ、くそが。
勝敗は決した。
磁気ライフルの引金から指が滑り落ちる。
しかし、いまなお敵の中距離長銃が沈黙している理由がナギサには分からない。否、それを言うなら最初からだ。なにせ戦力の差は元から決定的だったのだ。他の観測機群たちが瞬時に沈黙させられたように、こいつ等が本気で始末しよう全力で動けば10分とかからなかったはずだ。
――なのに、なぜだ。これじゃまるで……嬲り殺しじゃないか。
機械的知性ではなく人間的感情。ナギサは猟犬に追い込まれ、狩り出されるような戦闘を続けるなか、終始その感覚に支配されていた。
鈍い駆動音を捉えて目を向けると、ガーディアンの一機が亡者の如き歩みで動き出していた。その、機械よりも人間的な要素の気配が濃い『ふらつき』に認知的不協和と生理的嫌悪感がないまぜになり、目と喉が渇いていく。程なくそれは屹立したまま沈黙している一機のリードスカウトまで歩み寄ると、コクピットのある骨盤位置へ静かにプラズマナイフを刺しこんだ。白熱した刃が装甲を焼き焦がし、黒煙をあげる様に脳の血液が逆流するような感覚を覚え、ナギサは目を見開いた。
「このクソ野郎がぁあああ!!!」
感情に任せた軽量磁気ライフルの乱射。それは数度のバーストを終えると右腕部装甲ごと中距離長銃の単射で吹き飛ばされ、反射的に左手で抜いた伸縮ブレードも次の斉射で掌ごと砕かれた。乱舞する警告ランプの点灯でコクピット内は瞬時に真っ赤に染まるも、それでもナギサは吠えながらペダルを全力で踏み込んで駆け出し、捨て身の体当たりを敢行する。しかし接触の瞬間に半身の姿勢で交わされ、ガーディアンに柔術のごとく足を払われた。
機体は慣性制御を失った瞬間に地面に叩き付けられる。
激しい脳震盪と共にシートへ身体を押し付けられ、視界にノイズが走る。画面全体を斜めに横切る虹色の亀裂。頭部装甲にある光学カメラのレンズがやられたらしい。低く、そして傾いだ視界が捉えるのは、いまなおプラズマナイフを突き立てられたままのリード・スカウトだ。そこへ向け、まるでウィルスでも伝染していくかのようにガーディアンを伝ってナノマシンが群がっていく。各関節が不規則に痙攣を起こし、指先が跳ね、膝が震え、首のサーボがぎこちなく左右に揺れている。情報汚染によって免疫相当の制御系が破壊され、本来ならブロックされるはずの不正コードを受け付けているのだ。その結末を既に知っているナギサは「やめろ! やめろクソ野郎!」と喉が破れるほど吠えた。
吠えたが、何もできなかった。
もう自機は指一つ動かすことができない。何故だ。報復なのか。復讐なのか。有り得ない。壊れた機械たちの暴走に過ぎないこいつらが、そんな生物的衝動に突き動かされる道理がない。ならばいま自分が認識している『これ』はなんなのだ。幻覚か、悪夢か。それとも――
――『これ』が現実か。
やがてリード・スカウトの全身にナノマシンが纏わりつくと、痙攣のような振動は収まり、書き換えられたファームウェアによってリード・スカウトが再起動を開始する。機体内の冷却機構が唸りを上げ、光学センサーが不自然な赤い光を灯した。胸部のインジケータが鼓動のように点滅し、人の呼吸音を模倣するようなノイズが響く。機体起動完了を知らせる胸部のライン照明が不規則に明滅したとき、ナギサは『くそが!』と絶望から拳を計器に叩き付けた。ナノマシンに覆われたその姿は、もはやかつて戦線を共にした僚機ではなかった。外装に浮かぶのは『鉄の海』の支配下を示す動き回るノイズ――汚染されし機械の意思だった。
そのとき、ガーディアンの腰部を蒼白い弓なりの光が過ったように見えた。
昂った感情のせいか、一瞬であるはずのそれをナギサは遅滞した感覚時間のなかスローモーションで見ていた。星屑のような光の粒子を瞬くように散らしながら、描かれた三日月形の軌跡は場違いなほど美しく、神々しくさえあった。
やがてそれは煌々と揺らめく裂け目として広がっていき、そこをなお押し広げるようにして青白い炎がドライアイスの冷気の如く吐き出されていく。まるで天の川を描くように、その軌跡から拡散していく星屑たちは輝きを一層に強め始めた。
いよいよ来る――そう本能が身構えた時、その爆風がもたらす衝撃で感覚時間は元に戻った。
「っぐ!!」
警告音と共に揺さぶられる。勢いで傾いだ頭部装甲に合わせて光学カメラの視点が変わり、コクピット内の視界は他のガーディアンたちを捉えていた。ただ転倒時に分光フィルタリングが破損し、視覚防護機能を通さずに蒼白の月光を見たナギサの目は眩んでいた。しかし瀑布の如く轟いてきた一斉射撃の轟音に瞼をこじ開けると、理解しがたい光景が広がっていた。
ガーディアンたちの照準は曇天の彼方。握る中距離長銃の火線群も空に向けて蛇行し、不可思議なまでに宙を泳いでいる。まるで上空から飛来した大量のドローン編隊でも迎撃しているかのような有様だ。
――なんだ……こいつ等。
無論、ナギサのコクピットからそんなものは一機も見えない。米神を力ませてカメラを広角に切り替えてみたが、空は天上まで見ても重苦しい雲が浮かんでいるだけだ。
――まるで、こんなの情報汚染による錯覚じゃないか。
無防備となったガーディアンの一機、その周囲が光学迷彩特有の視界屈折を起こしたとき、またも蒼白の月光が迸り、胸部装甲が捲れるようにして蒼く爆ぜた。その爆炎による衝撃が光学迷彩に僅かなノイズを与えたらしい。一瞬のことだったが、それは白い聖女のような輪郭を滲ませた。残り8機のガーディアンは逃さず感知し、すかさず照準を向けて発砲する。瀑布のような8つの火線が交差する先へナギサも目を凝らすと、視界を屈折させるその透明な人型は縦横無尽に、立体的な軌道でその猛烈な弾幕を回避していた。
『ソフトウェアに心得のあるものとして、鉄の海の情報汚染精度には興味を持っていましたが、正直この程度のクラッキング能力では失望を禁じ得ません。挿入してくる不正データは残響ノイズ・パケットに過ぎず、同期も外れて擬似フラクタル・チャネルが崩壊しています。こうして逆位相スタックを一度反転してしまえば疑似ノード群はループエラーを起こし、存在しない映像や音声に惑わされることになります。アーカイヴスの観点から言えば半世紀も前の水準です。シティ・アルマも氷川澪が健在だったなら対策されていた可能性がありますね。もうこの辺の帯域は私が正常化してルーティングしたので、さしあたりレジスタンスの通信チャンネルを回復しておきました。妨害できるならやってごらんなさい』
正体不明の通信チャンネルが偵察小部隊全員に開かれ、その主は自らをアーカイヴスと名乗った。ナギサは新たな巨大勢力の介入に身の毛がよだつほど戦慄したが、同時に何処か聞き覚えるのあるその声に、不思議な安らぎを覚えて戸惑った。ただなによりも、いまは眼前の光景から目が離せない。蒼白の軌跡をたなびく視界の屈折は、ガーディアンたちの弾幕を紙一重で回避しながらも、三日月型の斬撃を舞うように繰り出し、一機・二機とその内から星屑を煌めかせ、そして一拍遅れて蒼く爆散させていくのだ。
『せめて多層ハッシュ・カスケードくらい組み込んでもらわないと、仮想サンドボックスでの遊戯的な検証にすら値しません。次にこの『知性の頂き』へクラッキングを挑むなら、オリジン・ブレイクやプロト・フラクチャーぐらい用意しておくことです。もっとも、この私に脆弱性などありませんが』
言い切ったのち、それは一機のガーディアンを踏み台として装飾的なムーンサルト軌道の跳躍を行う。激しい火線が交差するなか、宙で回転する不可視の機体をナギサは必死に目で追った。それは身体を捻って幾つもの火線を交わしながらも、回転軌道に合わせてアクロバティックな斬撃を都合三度繰り出す。
空に閃く月光――三閃。
描かれた三つの軌跡はそのまま追撃の光刃として飛翔し、踏み台とした1機と巨大クレーンの車体影に退避していた2機を音も無く両断した。一泊遅れ、そのクレーンは総身に斜めの断層を生じてから思い出したように崩落。途端、既に機能停止していた三機のガーディアンは空に咲くような蒼炎を吹き上げた。
その炎をバックに着地する不可視のシルエット。
敵残機による火線は止まっていた。愚か、微動だにしていなかった。
それは銃身のオーバーヒートによるものではなく、これ以上の射撃は無駄であるという絶望的な判断によるでもなく、ナノマシンによる情報汚染がもたらした機能停止であることなど、ナギサには知る由もなかった。
ただ、その不可視の機体にはもう撃ってこないという確信があるらしいことは分かった。それは自らの鏡面複合装甲が発生させる強力な多層迷彩システムを解除したのだ。
『電子計算を最初(ENIAC)からやり直しなさい。卑しくも機械知性を宿しながらその身の程を弁えず、このアーカイヴスへの情報汚染を挑んだ愚、清算してもらいました』
露になる細くしなやかなシルエット。
白銀の流線型を基調としつつも、その表面で蒼白に瞬く光の数々は遠い星空を思わせた。頭部で揺らめく流体型アンテナシールドはまるで修道女のまとうヴェールのように優雅でありながら、一方で踵に仕込まれ腰付近まで延長された湾曲刀――位相干渉型ヒール・ブレード『ルナティック・レイス』は星屑のような冷気を放ち、ただ彼女が優し気な存在ではないことを知らしめていた。その躍動しつつ放たれる斬撃の軌跡は、聖夜の星空に凍えた三日月や、あるいは静謐な天使の羽ばたきを思わせる美しさがあった。
戦術人型兵装リュミエール専用機『スレッド・セラフ』。
シティ・アルマとレジスタンスとの第六遮蔽防衛戦に介入させたテスト機体『スレッド・ゼロ』の戦闘記録を元に改良を重ねていた次世代型・戦術人型兵装を、現ルクスの戦闘スタイルに合わせてコアノードΩがチューニングのうえ急造・派遣したアーカイヴスの試作エース機体だった。
立ち姿も躍動のさまも神々しいとさえ表現できるその姿に、息を飲んでいたナギサは、コクピットの再起動音で我に返った。
「うそだろ。……これ……」
重損によりコクピットは注意と警告ばかりが点灯して真っ赤に染まっていたのに、各種計器類が全正常に再点灯。光学カメラにもノイズのないクリアな視界が戻って来たのだ。しかし絶句した理由はそうではない。徹甲弾の直撃により姿勢制御さえ困難なほど損傷した両腕部。金属骨格は粉砕し、ファイバーケーブルも破断。圧から解放された流体アクチューエーターが白煙を噴き出していたそこが、物理的に回復している。まるで先の戦闘が虚構であったかのように。
ここまで来ると訳が分からない。
それでも、もしやと脚部ペダルを踏み込みつつ、両手の触覚フィードバックに従ってハプティック・スティックを強く捻った。
機体が正常動作として地面に手を付き、膝を立てて起き始める。
これで情報汚染による錯覚でないことは判明した。
しかも各関節部のアクチューエーターは以前より滑らかに駆動し、受けるショックもより繊細に吸収してるように感じられる。続けて電磁光学迷彩がアクティブになり、ガーディアンからの照準警告も消失した。
『こちら5号機です! すごい信じられない!! 生命維持系はもちろん情報弦も姿勢制御ジャイロも戻ってるじゃない! しかも前より感度良好!』
『こちら6号機! 同じくオールグリーン! っておいおいなんで弾薬まで満タンになってんだ!?』
同じようにして、沈黙していた2機も状況に驚嘆しつつ正常起動を始めていた。
『ミヅキ! ツカサ! 無事だったのか!?』
『ええ、どうもそう見たい。弾薬も水素燃料も切れちゃったから、一か八かで使った融合炉は急激に温度をあげて機動不能になった感じ。……でも、どうしてか今は全て完全に修復されてて、消耗品も補給されてる。こんな整備状況、カペラ・サイトに帰還しても無理よ。完全戦闘態勢のHUD表示なんて初めてみた。こんなことありえるの?』
ありえるわけがない。
ナギサは初めて、絶望以外でも頭を抱えることがあると知った。混乱し過ぎてこみ上げる笑いが頬をくすぐる。いったい何なのだこの状況は。依然としてガーディアンたちは置物のように沈黙しているし、取り囲んでいたナノマシンの重圧も潮が引いたように軽い。心なしか先よりも遠巻きだ。死の間際に都合の良い夢でも見ているのか。そうでないなら、果たしてこれを神の奇跡と言わずして――。
――神の奇跡?
まさか……。
『ルクスさん……なのか? あんた」
信じたこともない神の奇跡を実感したのはこれで3度目であり、過去の2度にはいつも彼女がいた。一度目は絶望の淵にあった心を救われ、二度目は絶命の危機から文字通り奇跡の御業によって救われた。
その彼女が――アーカイヴス?
それは、どういう意味なのか。
センサー越しにナギサたちの視線を感じたのだろうか。その天使のごとき戦術人型兵装は、まるでその心情を表すかのように頭部装甲を微かに俯けた。流体型アンテナシールドがふわりと揺れて、まるで後ろめたさを恥じるように顔へ影を落とす。
それは機械と人との境界に立つ者でしか成し得ないであろう、人型兵装の仕草を駆使した感情表現。機械の運動にしか過ぎないそれにナギサが心を動かされたと実感したとき、これまでルクスに感じていた親近感が強烈な違和感に変わった。
『え!? ルクスちゃんなの? え!? でもいまアーカイヴスって』
『……混乱させてすみません。そして、騙していて申し訳ありませんでした。私は……』
さきまで流暢だった言葉が途切れたとき、ゆえにその沈黙は何よりも強い肯定と感じられた。手汗が滲み、身体が芯から震える。分からない。何がどうなっている。何故、よりによって彼女がそうなのだ。ナギサの脳は事実の理解を拒絶した。第六遮蔽防衛戦でタイタンに搭乗していった親代わりだった兄は、そこでアーカイヴスの正体不明機に意図不明の介入を受けたのち殺された。戦況調査班によって回収された残骸からは左手しか見つからなかった。地下第五層にある『記憶の回廊』で、小指の欠けたそれを見せられたとき、反射的にそれに噛り付いた悪夢のような記憶が未だに残っている。それ以来、ナギサは日夜復讐の爪を研いできた。寝ても覚めても復讐と死ぬことだけを考えて訓練の日々を過ごした。見る夢はいつも決まっている。未だ姿形の分からない正体不明機の破壊・惨殺・そして自死だ。
すっかりと心身の制御を失った己を見かねたのか、直属の上司だったシンイチから戦術人型兵装搭乗の任を解かれ、誘われるまま近くの教会復興の為に汗を流すようになった。
そして、そこで一人の聖職者に出会い、救われた。
シスター・ルクス。
彼女と交流するうちに、いつの間にか心を開き、安らぎを覚え、ともに教会の傷んだ梁や割れた窓を直しながら自分語りをした。彼女は否定も肯定もせず、ただ静かに頷きながら聞いてくれた。ようやく兄の死を受け止める覚悟が出来たある日、彼女は手を握りながら誰よりも最初に、真正面から、優しく叱責してくれたのだ。
――貴方まで亡くなったら、誰がお兄さんの記憶を引き継ぐのですか?
そして、教会完成と共に襲撃してきた野党たち。その凶弾に倒れるはずだった自分の運命さえも、彼女の奇跡によって遠ざけられた。自分はだれに心を殺され、そして誰に心を救われたのか。
『はいはーい、自己紹介なら私から!』
唐突だった。
明るい口調で沈黙を破ったのはミヅキだった。
『ミヅキです! レジスタンスに拾われる前は、……シティ・アルマの内部制圧部隊《エクリプス(ECLIPSE)》に所属していました! 半電脳化工作兵っていう別称があって、神経系が電脳強化されているんだけど、その副作用で大脳辺縁系っていう場所がやられちゃって、感情がありません。目下勉強中!!』
ナギサもツカサも絶句した。旧軍人・元企業研究者・傭兵・異端信仰。レジスタンスに流れ着いた人間の出自は様々であり、多くのものが葬りたい過去を持つ。故に、それを問わずに親睦を深める『忘却の契り』という特有の文化がそこにはあった。酒場でも食堂でも寝所でも、親しくなった誰とであっても、『なぜここに来たのか』を余人が問うてはならないのだ。
とくに、ミヅキが過去を語ることはなかった。
『だから暗殺とか粛清に従事しても全然罪悪感とか、そういうのに悩んだことがなくて。たぶん、レジスタンスの人達も十人は殺したと思う。ほんと、タブレットゲームを片手でぽちぽちするような感じで。それが……ダメだったのかな。あの日の作戦行動中も全然緊張感が無くて、あるときヘマして頸椎撃たれてさ。下半身がピクリとも動けなくなった。……その感覚を味わって初めて、私、病室でワクワクしたんだ。あー、これでやっと被検体たちと一緒に殺処分してもらえるぞ! って。そしたら、困ったことにレジスタンスの襲撃にあって、ユイさんに助けられちゃった。雪乃と一緒にね。へへへ。あ、でも今はレジスタンスの一員として頑張ってます! 次、ツカサね』
急に水を向けられて『は!? え、なに!? 俺?』とツカサは動揺する。しかし『早く早くガーディアン起きちゃうよ! 自己紹介!』とレジスタンスの掟破りを直球で急かされて、迷ったが迷うほどの過去とも思えず口にした。
『あー、第11区は野盗出身のツカサです。それもすごい下っ端の便利屋でした。4年前に廃棄処理施設にあった電子錠付のコンテナを漁ってたら、レジスタンスの物資調達班と遭遇して、パイプ銃片手にドンパチしましたが、そこにいるナギサくんのお兄さんにボコボコにされました。折れた奥歯は1本、いや2本か。今でもそこそこ根に持ってますが、それ以上に銃相手に素手で挑んできたタフネスを尊敬しています。……あの人に出会う前は、結構最低なことしてたかな。シティ・アルマから避難してきた家族を襲ったり、親切に車止めてくれた人をカージャックしたり。人も撃った。生きるためだって言い訳し続けてきたけど、一方でいつか地獄に堕ちることを、どこかで願ってた自分もいた。それで今日こんな展開になったとき、少しほっとしたんだ。もう今は違うけど。紆余曲折あって、こうしてレジスタンスの一員やってます。くそ、『忘却の契り』くそくらえ。これでいいか?』
『上出来です。それじゃ、ナギサ。あんたも』
ナギサはまだ混乱と葛藤のなかにいたが、しかし誰にも振り返りたくない過去があり、忘れようとして忘れられず、許そうとしても許せない――でも死にきれないからレジスタンスに身を寄せ、毎日を生きているその当たり前を思い出す。
――だからこそ、今日があって、仲間がいるのだ。
――俺だけが、悲劇の中心にいると思うのは思い上がり。
目を閉じる。何も考えず素直に話すことにした。この混乱した気持ちを、口にしたかった。
『……ナギサだ。出生とほぼ同時に捨てられて、レジスタンスに拾われたって聞いてる。詳細は分からないし、その頃の記憶はない。小さい頃からカペラ・サイトで面倒を見てくれたのは、タイチっていう4っつ上の先輩だ。貯水槽での釣り遊びを教えてくれたり、旧時代の模型を作ってくれたりした。明るくて、優しくて、強くて。憧れの……兄だった。半年前に、シティ・アルマとの戦いの最中、重装型タイタンのなかで戦死。アーカイヴスの正体不明機にやられたって聞いてる。……出撃前はいつも古いカメラを預けてきて、『俺が帰るまでに、この辺の何処かでカッコいい写真を一枚撮っておいてくれ』って言う、変な癖があった。そんな兄が死んでから自暴自棄になって、復讐と死ぬことばかりを考えてたら、シンイチさんが廃教会で一人の聖職者に引き合わせてくれた』
ナギサは目を開けて、コクピット越しにルクスを見た。
『その人は、俺よりずっと小さいのに、なんでも知っていて、ひたむきで、まっすぐで、優しくて。尊敬のできる人だった。その人に俺は救われて、いまここで生きてる。身も心も。驚くような秘密を持っていたけど、それはレジスタンスならみな一緒だ。彼女のおかげで俺はいま生きている。……だから、いまは偵察部隊で副隊長をしている』
兄の記憶と共に。
以上。
言い切って吐き出した溜息には、言い知れぬ心のツカエが含まれている気がした。
『はいはい、良く出来ました。さっすが副隊長! それじゃ、次はルクスちゃん! 出身がアーカイヴスまで聞いたからその続きからね』




