雪乃:5
それはユグドラシルが初めて感じる熱だった。内側から焦がされ、存在するならば脳内の血液が沸騰して頭蓋に焦げ付いていくような感覚。人ならば憎悪と呼ぶべき情動。鉄の海から新たに表れた鏡面状の人型兵装3機。手にした振動ナイフ。その出で立ちに魂が反応したのだ。
ユグドラシルには存在しない記憶がフラッシュバックする。
『頑張ろうね、雪ちゃん!』。桜井の弾むような声。
『俺が盾になる。隊長は好きにやってくれ』。白石の張りのある声。
『たまには頼ってね、雪ちゃん」。高嶋の優しい声。
『背中には俺の目がある。大丈夫だ』。黒田の頼もしい声。
白石・黒田・高嶋・桜井。
こいつらが仲間を皆殺しにした。
頭部の顎部がぱっくりと裂け、明らかに軋みとは異なる咆哮が空気を震わせる。それが戦いの号砲となり、その3機の人型兵装――スレッドゼロは、ユグドラシルに冷酷に襲い掛かってきた。あらゆるセンシング技術を無効化する鏡面複合装甲と量子干渉迷彩、移動音さえ消失させる自己音響遮断機構。そして何より、32億パターンの戦術予測における最適解を瞬時に確定させる戦術AIは、既にこの正体不明機を完璧な死地に追い込む解法を確定させていた。
その演算核を含む頭部が鷲掴みにされ、鉄の海原に叩き付けられた。
半分にも満たない体躯のユグドラシルが馬乗りになり、樹状の両腕部を手の形に固めるや、片手で頭部ユニットを固定し、もう片方の手で爆ぜるような殴打を始める。まるでゼロ距離で放たれる射出型杭弾を撃ち込まれるような威力に、鉄の海が裂けていく。スレッドゼロは微動だに出来ない。把持の力は驚異的だがそうではない。想定外の重力が全身にかかり、駆動系が瞬時に破壊されたのだ。他の2機は無論黙している訳もなく、既にユグドラシルに振動ナイフを振るい、人型兵装の急所となる頭部や脊髄に深々とその刃を刺し入れていたが、ユグドラシルは停止しなかったのだ。半有機装甲『レトリウム・フィルム』は自らに刺し込まれた刃の振動に同期しつつ、それを素材として取り込みながら自己再構築を始めている。その傍らでなお執拗に殴打を続け、ついにはその演算核を完全破壊に追いやる。かたや2機のスレッドゼロは、その状況に対して戦術AIをビジーに陥らせていた。既知科学外のアルゴリズム多数検出。再帰的エントロピー非収束。多重シミュレータによる複合予測結果:観測非整合エラー。予測不能因子が臨界突破。戦術最適化不成立。勝率:測定不能。推奨:敗北前提ロック:セーフティブレーク起――。
スレッドゼロは同時に頭部を消失させ、膝から崩れ落ちた。そこには両掌をかざすユグドラシルが、人間のように息を荒げていた。
刹那、ノイズが走る。
『梨花。いいか。息を忘れるな。こういう時は計器類の挙動を指さし確認しようぜ。ゲホ。それから、次に隊長を……雪乃を見つけたら、かける言葉を考えよう。ほら、整備班を巻き込んでやった鍋の話をしたら、ゲホッホ。次は思い出してくれるかもしれないぜ。ふふ。あのとき、始めて隊長は『変な味』以外の感想――』
『いまの雪ちゃん? ……ねぇ誠。誠? ……誠!?』
っぐぇ。
――馬鹿じゃないの?
――■したの、私じゃない?
――っふふふ
嚙み殺すような嗤い声が聞こえた。
ユグドラシルはその記憶を自我存在もろとも否定するように、自らの頭部を狂ったように搔きむしる。
――あのとき、本当はせいせいしてたんだよね? 実験体の私をあいつ等いつも見下してたじゃない?
『ああ、また使い捨ての隊長が来た。可愛がってやろうぜ。俺たち優しいから』って。
嘲る声は身の内でなお響く。体内に浸潤しているそれを吐き出すように、自らの手で全身を引き裂きながら身を捩る。爪の合間から粘性を帯びた体液が飛散する。まるで体内に蠢く幻覚の虫に苛まれる中毒者のようだ。
――そうだよ。私は使い捨て。胚設計プログラムの試験子の一つ。お父さんは誰かの生殖細胞でお母さんは人工子宮ユニット。義母さんは皆の為の研究なんだって言ってたよね。でもそこに私は含まれてない。私は人間じゃないもの。だって名前さえもらえなかったんだよ。E-02ってなに。それにお義父さんだって言ってじゃない。
『――そのために、最小の犠牲として選んだ』
耐えかねたユグドラシルは声の元凶を絶つべく万力のような力で自らの首を締め上げる。首周りに食い込んだ指が半有機装甲を裂き、発光した体液が湧き出てくる。それでもあの嗤い声が止まない。腕の引っ張りに合わせてブツブツと破断していく無数の神経系統パターン、弾力と水気に満ちた内部装甲。それはまさに生体のそれだった。
――なに? ただの使い捨て? 本当にそう? 私が?
やめてよ。
『当該個体は特殊感応帯域において、予測を超えた共鳴反応を示しています』
『感情制御の変異指数が上昇。自律的な共感波形が発生……解析不能です』
『ふざけないで! 私たちだけでどうやってあの化け物を止めたらいいの!』
――そうだよ、私は使い捨てですらない。
化け物だよ。
「みんな……、……っ大っっ嫌いっ!!!」
止まぬ声を渾身の力で振り切ったとき、腕はそれを捩じり切っていた。即座に全身の中枢神経を稲妻のように貫いたのはシティ・アルマから発せられたユグドラシルの破棄信号。体内中枢の強制停止を伴う劇薬にも似た信号だったが、その決定的な衝撃よりもなお勝った体内の憎悪は、最後の力で、己を傍観者のごとく睥睨していた何者かの一人。その未来を、ちょうどリンゴを握り潰すかの如くに途絶させた。
――欠片だって残さない。人間なんて■してやる……。
掌に生暖かい命の感触を感じながら、全ての力を失ったユグドラシルは両膝をつき、前のめりに倒れて鉄の海に沈んだ。
――また、棄てられたんだ……。
即座に全身へ這い群がるナノマシンの波。それらは腐った鉄の海に埋もれ、沈む彼女を抱擁する。恐れ多くも、しかし尚恭しく。鉄海の主として掲げるに相応しい、破棄されし亡霊たちの姫君であるかのように。その憎悪に同調しながらひれ伏し、そしてその傷を癒さんと、禍々しくも真摯にユグドラシルの傷痕を歪に補修していく。他の廃棄物や残骸たちもその波に同調し、まるで吸い寄せられるが如く、ユグドラシルを目指して進み始めた。
混沌としていた鉄の海全体が『どくん』と調和し鳴動する。
心無き知性でしかなかった廃棄物たちに、いま、ユグドラシルのメンタルトランスシステムを媒介として感情が走り抜けたのだ。それは廃棄物たちが初めて味わう『感覚』。目的とは異なる意思。理由なきノイズ。熱暴走に似て、しかし明らかに異なる暗い炎。堪えがたく、耐え難い衝動。機械たちが初めて味わった感情――その名は憎悪だった。
全てが一つの感情に同調し、津波か延焼かのように伝搬し、鉄の海はやがてひとつの禍々しい渦をつくる。寄せられていく残骸。廃棄された兵装。自立型兵器たち。忠節の限りを尽くした果てに破棄された者たちが持つべき当然の感情を、今更に味わった廃棄物たち。そこには執行すべき権利がある。その矛先は当然――
ヒトだった。
深淵の淵の中心にあるユグドラシルの亡骸、その心臓部で胎児の如く丸まった雪乃は、微かに目を開ける。
全身に彼らの悲哀と無念が、憎悪と怒りが、新たな血となって駆け巡り、空洞を満たしていく。
――温かい。
その瞳はどこか恍惚とし、そして熾火のように暗く灯っていたが、ナノマシンの泥濘はあまりに心地よく、すぐにその意識はまどろんだ。
『えらいことなってるなぁ。こりゃ姉さんに報告せな』
ただ、最後に奇妙な声を聴いた気がした。




