第八章 影の浸食
俺の生活は、あの日を境に静かに、しかし確実に蝕まれていった。最初は些細な違和感だった。父が帰宅してから異様に疲れた顔をしていたり、母が微妙に俺を避けるような視線を送ったり。それでも俺は、「旅館のことなんて関係ない」と自分に言い聞かせていた。
だが、現実はそんなに甘くはなかった。
ある日の夜、父が職場で妙なことを言われたらしい。「あなたの後ろに、長い黒髪の女が立っていた」と。父は笑って否定したというが、その夜、俺は父の部屋で奇妙な物音を聞いた。低く、ひそひそと囁く声。まるで風でもない。金属でもない。何かが、父の肩に触れるような音。俺は布団の中で固まった。窓も扉も閉まっている。なのに、確かに、何かがそこにいた。
翌朝、居間に足を踏み入れた瞬間、背筋が凍った。床に、長い黒髪の束が無造作に落ちている。髪は人間のものに間違いなく、しかし誰のものでもない。俺は指先で触れようとしたが、冷たく湿っていて、まるで生きているかのように柔らかく蠢いた。慌てて振り払うと、髪はただの塊になったが、吐き気が込み上げ、しばらく動けなかった。
それ以来、夢の中でしか眠れなくなった。夢は毎晩同じだった。廃旅館の奥、埃と焦げた畳の匂いが充満する地下室。壁には何かの印が刻まれ、暗い角の影から、長い黒髪の女がじっとこちらを見ている。目は光を持たず、ただの黒い虚無。しかし、視線が俺の胸を貫くたび、心臓が跳ね上がり、汗で布団がびっしょりになった。
夢と現実の境が、日に日に曖昧になっていった。学校の廊下でも、友達の家でも、ふと背後に視線を感じる。振り返ると、誰もいない。しかし、足音は確かに近づいてくる。ドアの隙間から、黒い影が伸びているように見えることもあった。俺は次第に、生活のあらゆる場所で息苦しさを覚え、眠ることさえ恐怖になった。
スマホの通知も異常だった。知らない番号からの着信、保存していない写真、しかもすべて、あの廃旅館の女だった。ある晩、何気なくアルバムを開くと、俺の部屋の鏡に映る俺の後ろに、確かに彼女が立っていた。眉もなく、口は歪み、目だけが黒く光る。震える手で画面を落とすと、写真は消え、部屋は静まり返った。しかし恐怖は消えず、身体に張り付いたままだった。
俺は自分が狂ってしまうのではないかと思った。理屈では説明できないことが次々起こり、身近な人々まで巻き込まれ始めた。父の異変、髪の束、夢の地下室、そしてあの写真……。全てが一つの意志によって繋がっている気がした。俺はこの力の正体を知りたくて、また恐ろしくもあった。廃旅館の地下に潜むものが、現実世界に少しずつ侵食している——そんな感覚が、日に日に強くなっていった。
「これは……、もう、ただの偶然じゃない……」
俺は鏡に映る自分の顔をじっと見つめた。暗い影が、確かに、俺の背後にある。息を呑むと、影も同時に動いた。背筋が凍る。この瞬間、俺ははっきりと理解した——もう逃げられないと。
明日もまた、あの夢は現れる。あの影は確実に、俺の生活を侵食している。もう、俺一人の問題ではない。恐怖は、確実に、俺の世界を変え始めていた。