第六章 友の消失
俺は、異変が自分だけでは済まないことを、ついに実感した。
夏休みにあの廃旅館に足を踏み入れて以来、日常の隙間に、奇妙な影が忍び寄っていた。しかし、それが現実として形を持ち始めたのは、友人の一人が消えたときだ。
その友人、佐藤は、旅館から帰ってすぐに体調を崩した。
最初はただの夏風邪だと思った。熱も軽いし、寝ていれば治るだろうと、俺は楽観していた。しかし、二日目の夜、LINEで送られてきたメッセージは、ただの風邪とは思えない内容だった。
「怖い…誰かが、ずっと見てる…」
最初は冗談だと思った。俺も、半分は笑って返信した。「また心霊ネタかよ、佐藤」
だが、返ってきたのはただ一枚の写真だった。
真っ暗な部屋の中、ぼんやりと映る背中。佐藤の背後に、白い服を着た女が立っていた。顔ははっきりとは見えない。ただ、長い髪が肩まで垂れ、黒い瞳が俺を見ているような気配だけが漂っていた。
翌日、佐藤は突然姿を消した。
連絡も取れない。家にも帰らない。共通の友人たちと手分けして探したが、まるで風にでも消されたかのようだった。警察にも届けを出したが、手がかりはゼロ。
俺は、自分の胸の奥に冷たい何かが広がるのを感じた。「あの旅館…関係あるのか」と。
だが、それだけでは終わらなかった。
別の友人、田中は、通学途中に事故に遭った。軽傷で済んだのは奇跡だった。しかし、そのとき田中が口にした言葉が、俺の背筋を凍らせた。
「…旅館の女、見た…」
彼の顔は青ざめ、震えていた。事故直前、道の端に立つ白い服の女を見たという。目は俺の写真で見たあの女と同じで、田中は恐怖で逃げ出したらしい。しかし、その瞬間に車に轢かれたのだ。
俺は頭を抱えた。偶然の一致だと思いたかった。だが、これが偶然で片付くのか? 佐藤の失踪、田中の事故、すべて同じ旅館に関係しているのではないかと。
その晩、家に帰ると、俺のスマホに新しい写真が増えていた。
保存した覚えのない、見知らぬ写真が十数枚。
どれも同じ女が写っていた。場所も時間もバラバラ。通学路、俺の部屋、電車の窓。必ず、俺の背後に、女が立っていた。
俺は手が震えた。
「これは…夢か…?」
いや、夢なら消えるはずだ。だが、写真はそこにあり、存在を訴えている。
胸の奥で、抑えきれない恐怖が渦巻いた。
もう、冗談では済まされない。俺は目の前の現実に、向き合わざるを得なかった。
夜、ベッドに横になると、背後に誰かの気配を感じる。
まるで冷たい風が、俺の肩を撫でていくような、重苦しい沈黙。
俺は振り向けなかった。振り向いた瞬間、何かが形になるのを恐れた。
でも、耳の奥で、微かに鈴の音が鳴る。
あの旅館の門の鈴…いや、あの女の仕業だ。
俺は、覚悟を決めた。
このままでは、俺も佐藤も田中も、次に消えるのは俺かもしれない。
だが、どうすればいいのか、方法は全く見えない。
ネットの警告が、頭の中で繰り返される。
「絶対に踏み込むな」。
その言葉の意味を、ようやく俺は理解し始めていた。
踏み込んではいけない世界に、俺は確かに足を踏み入れてしまったのだ。
しかし、逃げることもできない。
この連鎖は、まだ始まったばかりなのだと、心の奥で震えながら、俺は悟った。