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影の連鎖  作者: 怪談亭
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第五章 家庭の歪み

 その夜、家の空気は妙に重かった。友人の体調不良の連絡を受けて帰宅した俺は、疲労感に包まれながらも机に向かい、溜まった課題を片づけようとしていた。部屋の窓の外からは虫の声が聞こえるだけで、人の気配はどこにもない。時計の針の進む音がやけに耳につき、妙な心細さを覚えた。


 机の引き出しからシャーペンを取り出した瞬間、背後でかすかな声がしたような気がした。振り返ると、そこには当然ながら誰もいない。気のせいだと首を振り、再びノートに目を落とす。そのとき、廊下から小さな足音が近づいてきた。振り返ると、妹の真理が戸口に立っていた。


「お兄ちゃん」


 彼女の声は普段より小さく、どこか怯えているようだった。


「どうした? まだ寝てなかったのか」


「うん……。ねえ、お兄ちゃんの後ろに、女の人がいる」


 言葉を失った。背筋に冷たいものが走り、思わず椅子をきしませて立ち上がった。慌てて振り返ったが、壁と本棚しかない。息を整えようと深呼吸しながら、妹を安心させるために笑ってみせた。


「やめろよ、変な冗談言うな」

「ほんとだもん。黒い髪の、知らない人」


 真理は必死に訴えるように俺を見つめていた。その真剣な瞳が逆に恐怖を煽った。だが、兄として動揺を見せるわけにはいかない。


「きっと夢を見たんだよ。夜更かしするから、変なものが見えるんだ」


 そう言って軽く頭を撫でたが、真理は納得しない様子で眉をひそめ、しばらく黙っていた。やがて「もう寝る」と小さく呟いて部屋を出て行った。扉が閉まる音が妙に響き、静寂が戻ると、先ほどよりも心細さが増していた。


 翌晩、さらに奇妙な出来事が起こった。夜中の二時過ぎ、俺は水を飲もうと寝室を抜け出した。廊下を歩いていると、玄関からかすかな物音がする。誰かが鍵を回すような音。恐る恐る覗くと、母が玄関に立っていた。パジャマ姿のまま、ドアのチェーンを外そうとしている。


「母さん? 何してるんだ、こんな時間に」

声をかけると、母は振り向かずに呟いた。


「いま、誰か帰ってきたから……。開けなきゃ」


 ぞわりと鳥肌が立つ。外は真っ暗で、車の音すらしない。帰ってくるはずの父は今夜も出張先で泊まりだ。俺は慌てて駆け寄り、母の手を押さえた。


「誰も帰ってきてないよ! 夢でも見たんだろう」


 母はしばらく呆然と玄関を見つめていたが、やがてゆっくりと目を瞬かせ、我に返ったように俺を見た。


「……そうかしら。変ね。はっきり聞こえたのに」


 そのまま肩をすくめ、寝室に戻っていった。残された俺はドアノブを強く握りしめたまま、耳を澄ませた。しかし外からは、何一つ物音はしなかった。


 ここ数日で、家庭が静かに狂い始めているように感じた。妹は「女の人」を見たと言い張り、母は誰もいない玄関を開けようとする。まるで家そのものが、何か見えないものに侵食されているようだった。


 だが、俺はそれを認めるわけにはいかなかった。心霊現象などという非科学的なものを信じるのは、自分の性格にも、これまでの生き方にも合わなかった。すべては心理的な影響や偶然の錯覚だ。そう思うことで、自分を守ろうとした。


 妹が女の人を見たのは、最近ホラー番組を観すぎたせいだろう。母が玄関を開けようとしたのは、夢と現実の境目で錯覚したに過ぎない。友人たちの不調も、単なる体調管理の問題。理屈を並べて一つひとつ説明すれば、恐れる必要はない――そう自分に言い聞かせた。


 だが、夜になると理屈の効力は急速に薄れていった。机に向かっていても、背後に視線を感じる。風もないのにカーテンがふわりと揺れ、床板がきしむ音がやけに大きく聞こえる。振り返っても何もいないことを確認し、そのたびに「ほらやっぱり」と安堵するが、心臓の鼓動は速くなる一方だった。


 ある晩、勉強中に不意にペンが手から滑り落ちた。拾おうと机の下を覗き込んだ瞬間、鏡に映る自分の姿が視界の端に入った。そこに――肩越しに覗き込む女の顔が、一瞬だけ重なったように見えた。真っ黒な髪が頬を覆い、瞳は底なしの闇のように深い。瞬きする間もなく消えたが、全身から血の気が引くのを感じた。


「錯覚だ……」


 乾いた声が漏れる。自分に言い聞かせるように、繰り返した。


「光の加減だ。疲れてるんだ。絶対にそうだ……」


 しかしその夜は、布団に入っても眠れなかった。目を閉じるたび、あの女の瞳が脳裏に焼きついて離れない。暗闇の中で、壁が近づいてくるような圧迫感を覚え、息が詰まりそうになった。


 家庭は俺にとって、唯一安心できる場所であるはずだった。だが今や、その居場所さえもじわじわと歪み始めている。理屈を並べても笑い飛ばせず、心の奥底に恐怖の種が根を張り始めていた。


 そして俺はまだ気づいていなかった。これは始まりに過ぎず、この家に忍び込んだ“何か”が、これからさらに深く俺たちを絡めとっていくことを――。

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