第四章 最初の崩れ
旅館から戻った翌日、俺たちは互いの無事を確認するためにグループチャットでやり取りをした。
最初のうちは「昨日は疲れたな」「雰囲気ヤバかったよな」など、いつもの軽い調子の会話が続いていた。だが、夕方になって、雰囲気は一変した。
「……ユウが、倒れたらしい」
メンバーの一人、リカから届いた短いメッセージに俺たちは息を呑んだ。ユウは昨日、旅館探検の中心になってふざけたり写真を撮ったりしていた張本人だった。普段から体力のあるやつで、病気とは縁遠い印象がある。そんなユウが「高熱を出して意味不明なことを口走っている」と聞かされ、嫌な予感が背筋を這い上がってきた。
心配になってユウの家に電話をかけてみた。受話器の向こうから出たのは母親の疲れ切った声だった。
「すみません……ユウ、昨日からずっと高熱が下がらなくて。お医者さんに診てもらっても原因がはっきりしないんです。さっきも、寝言なのか……『入ってくる、入ってくる』って繰り返していて……」
母親の声が震えているのが分かった。その瞬間、俺の背筋は氷のように冷えた。
電話を切った後も、胸の奥に重石を押し込まれたような感覚が消えない。昨日の旅館の、あの薄暗い廊下や、しめきった和室の匂いが、頭の中で再生され続けていた。あれはただの「肝試し」のつもりだったのに。俺たちはなにか、触れてはいけないものに踏み込んでしまったのではないか――そんな思いがじわじわと広がっていく。
夜。ベッドに横たわっていると、再び通知音が鳴った。今度はカズからだった。
《なぁ、昨日からずっと変なんだよ》
続けて送られてきた文章に、俺は目を疑った。
《夜中、寝てると布団に誰か入ってくるんだ。気配がして、重みまで感じる。けど振り返ると誰もいない》
《最初は夢かと思った。でも今日もさっきあった。俺、やばいかもしれん》
思わず携帯を握る手に汗が滲んだ。文章の端々から、本気で怯えていることが伝わってくる。カズは普段から強がりで、肝試しでも大声で笑っていたやつだ。そんな彼がこんな言葉を残すのは尋常じゃない。
俺は震える指で返信を打った。
《気のせいだろ。疲れてるだけだよ》
自分でも無理のある言葉だと思った。だが、そう打たずにはいられなかった。否定しなければ、俺自身も崩れてしまいそうだったから。
けれど、その夜。俺の身にも異変が訪れた。
深夜二時過ぎ、ふと目が覚めた。部屋はカーテンの隙間から月明かりが漏れ、ぼんやりとした青白さに包まれている。喉が渇き、起き上がろうとした時だった。
視界の端に、鏡が映った。俺の机の上に置いてある姿見。そこに、妙な違和感を覚えた。
鏡の中には、確かにベッドに座る自分の姿がある。だが、その背後――俺の肩のすぐ後ろに、誰かが立っていた。
長い髪が顔を覆い、白っぽい服をまとった女。輪郭が淡く滲むように揺らぎながらも、はっきりと「そこにいる」と分かる存在感。
息が止まり、体が凍り付く。振り返ろうとしても首が動かない。心臓の鼓動だけが耳の奥で轟いていた。
数秒か、あるいはもっと長い時間だったか。次の瞬間には鏡には俺しか映っていなかった。背中はがらんどうの闇に溶けている。
――幻覚だ。寝ぼけていただけ。
必死にそう自分に言い聞かせながら、俺は布団に潜り込んだ。だがまぶたを閉じても、背後に女の影が立っている気配が消えず、朝まで一睡もできなかった。
翌朝、学校に行く気力は失われていた。スマホを確認すると、ユウの熱は相変わらず下がらず、カズからは「今夜も来た」「もう寝たくない」とだけ送られていた。リカは「私の部屋でも変な音がする」と言い始めていた。
ひとりずつ、確実に何かに侵食されている。
俺たちがあの旅館で出会ったのは、ただの廃墟ではなかった。触れてはいけない領域に踏み込んでしまった。
心臓が重苦しく脈打つ。頭の奥底で、何かが囁いているように思えた。
「まだ始まりにすぎない」――と。
俺はスマホを握り締め、画面に映る仲間の名前を見つめた。
崩れていく日常の中で、どうやって耐えればいいのか分からない。ただひとつ確かなのは、このままでは終わらない、ということだけだった。
そしてその夜、俺たちはさらなる「崩れ」に直面することになる。