第三章 暗い廊下
靴裏が畳を擦る音が、やけに耳に残る。廊下は夜の湿気を吸い込み、じめりとした冷気を放っていた。電灯は間引かれて点いているのか、それとももう壊れてしまったのか、等間隔に設置された裸電球の明かりは心もとない。数歩ごとに生じる闇の濃淡が、まるで人影が立っているかのような錯覚を呼び起こす。
壁には無数の染みが浮かび上がっていた。黒ずんだ手形のようなもの、雨漏りが広がった跡のようなもの。中でも主人公の目を引いたのは、壁の下部に走る黒い焦げ跡だった。火事の痕だろうか。廊下の途中で不自然に途切れているが、指でなぞるとまだ煤のざらつきが残っている。
廊下の突き当たりには、ひび割れた姿見が置かれていた。かつて宿泊客が身支度を整えるために使っていたのだろう。鏡面は蜘蛛の巣状にひびが走り、ところどころ欠けては床にガラス片を散らしている。その割れた隙間から覗き込むと、鏡の奥にもう一つ廊下が伸びているように見え、目を逸らすのが遅れると、自分とは違う「何か」がそこに立っているのではないかという妄念が浮かんでしまう。
そのとき――。
遠くから、かすかな声が聞こえた。最初は風のうなりかと思った。けれども耳を澄ますと、それははっきりと女の泣き声に聞こえた。すすり泣くような細い声が、廊下の奥から、あるいは天井裏から、確かに漏れてくる。背筋を冷気が走る。
「……風だろ」
誰かがそうつぶやき、無理やりに笑う。全員、表情を引きつらせながらもその言葉に縋った。ここで「泣き声だ」と認めた瞬間、足が動かなくなりそうだったからだ。
進むたびに床板がきしむ。古い木材が軋むたび、何かが下から押し上げているのではないかと疑いたくなる。廊下の窓は外からの湿気で白く曇り、外の月明かりすら差し込まない。世界から切り離されたような感覚が押し寄せ、ただ自分たちの呼吸音と靴音だけが生々しく響く。
やがて、廊下の奥に広い扉が現れた。重厚な引き戸で、表面の漆は剥げ、木の地肌がむき出しになっている。取っ手を握ると、冷え切った金属が掌に食い込んだ。
ぎい、と音を立てて扉を開ける。
そこは宴会場だった。広い畳敷きの空間に、かつての賑わいの名残は一片も残っていない。天井には古びた提灯がぶら下がっているが、すでに電気は通っていないのか、光を放つことはなかった。畳はところどころ色あせ、隅には埃が降り積もっている。
しかし、異様なものが一つあった。
畳の中央を一直線に濡れた跡が走っていた。まるで誰かが水をこぼしたように、一列だけ暗い色を帯びている。指で触れるとじっとりと湿っており、確かに新しい水分だった。
「……雨漏りか?」
誰かがそう言ったが、天井には染みひとつない。窓も閉じられている。説明のつかない湿り気が、宴会場の真ん中をまっすぐ貫いている。
主人公の視線がその跡を追ったとき、不意に空気が変わった。湿った畳の列に沿うように、すすり泣きが再び聞こえてきたのだ。今度ははっきりと、耳元で囁くように。
心臓が強く跳ねる。全員が同じ瞬間に息を呑んだ。宴会場の暗がりに、何かが佇んでいる気配があった。
誰も口にしなかったが、その場に長くとどまることはできなかった。無言のまま互いの顔を見合わせ、逃げるように宴会場を後にした。引き戸を閉めた瞬間、すすり泣きはふっと止んだ。
廊下に戻ると、息が荒くなっているのに気づいた。足元は小刻みに震え、冷たい汗が背中を伝っていた。
ここにこれ以上留まってはいけない――全員が直感的にそう悟った。
しかし、その直感が遅すぎたことを、まだ誰も知らなかった。
背後の引き戸が、誰も触れていないのに、静かに……きしみをあげて動き始めていた。