第二章 廃旅館の門
山道を抜けると、そこに異様な静けさが広がっていた。
車を止めて外に出た瞬間、さっきまで耳を騒がせていた虫の声が消えたことに気づく。草むらの奥からカエルの鳴き声すらしない。ただ、夜風が木々を揺らす音だけが辺りを満たしていた。
「……ここか?」裕太が懐中電灯を掲げる。
光の先に現れたのは、苔むした石段の上に立つ木造の門だった。神社の鳥居を模したような形をしているが、明らかに神聖さよりも異様さが勝っている。木材はひどく腐食し、片側は火で炙られたように黒ずんでいた。
門の下には錆びついた看板が斜めに立てかけられている。
“立入禁止”。
文字のかすれた赤いペンキが、闇の中で妙に血の色に見えた。
「やべぇな……雰囲気すごい。」裕太が笑いながらも声をひそめる。
「ほんとに入るの?」美咲は不安げに俺たちを見回した。
「決まってんだろ。ここまで来て帰れるかよ。」篤志はもう石段を上り始めていた。
俺は無意識に喉を鳴らした。足元の草は湿っていて、スニーカーの底にじわりと水分が染み込む。湿気を帯びた夜気が肌にまとわりつき、息苦しい。こんな場所で夏の暑さを忘れるなんて思いもしなかった。
四人で門をくぐろうとしたそのときだった。
――チリン。
かすかな鈴の音が闇に響いた。
「……今の、聞こえた?」美咲が俺の袖を掴む。
「鈴?」裕太が辺りを見回す。
だが、門の周りには何も吊るされていない。風鈴も、鈴も。風に揺れるようなものすら存在しなかった。
「空耳だろ。気にすんなよ。」篤志が軽く言い放つ。
だが、俺の背中をじっと冷たい汗が伝った。
門を抜けると、そこは広い敷地だった。雑草に覆われ、石畳の道はほとんど形を失っている。懐中電灯の光に照らされ、遠くに大きな建物が浮かび上がった。
二階建ての木造旅館。窓は割れ、屋根の一部は崩れている。それでも建物の輪郭ははっきりと残っており、かつてここが賑わった宿であったことを思わせた。
「おお……想像以上にでかいな。」裕太が口笛を吹く。
「昔は温泉宿だったらしいよ。」篤志が得意げに解説する。「でも火事で営業できなくなって、そのまま廃墟になったって。」
「火事……?」俺はつぶやいた。
建物の壁には黒い焦げ跡がまだくっきりと残っている。風が吹くたびに焦げた木材の臭いがかすかに漂ってきて、喉の奥がひりついた。
「なぁ、写真撮ろうぜ!」裕太がスマホを取り出した。
「やめなよ……」美咲が制止しかけたが、彼は聞く耳を持たない。
フラッシュが闇を切り裂き、旅館の全景が白く浮かび上がった。俺たちは思わず目を細める。すぐに画面を覗き込んだ裕太が「お、おい……」と声を震わせた。
「どうした?」篤志が覗き込む。
俺と美咲も覗き込んだ。そこに写っていたのは確かに旅館の写真――だが、玄関口の暗がりに女の顔があった。
髪が濡れたように頬に張りつき、白い顔。目は虚ろに見開かれ、口元は笑っているのか苦しんでいるのか判別できない。
「……誰?」美咲が息を呑む。
「いや、誰もいなかったろ……」俺は慌てて玄関口を見やった。懐中電灯の光がそこを照らす。そこにはただ、割れたガラスと崩れかけた戸があるだけだった。
「加工じゃね?」篤志が無理に笑う。「最近のアプリって自動で変なの合成されるだろ。」
「じゃあ今撮ってみろよ。」裕太が強張った声で言う。
篤志が渋々もう一度シャッターを切った。今度の写真には、誰の顔も映っていなかった。
「ほらな。」篤志が肩をすくめる。
だが、裕太はスマホを握りしめたまま蒼白になっている。
「でも……最初のやつ、保存されてねぇ。消えてる。」
「……消えた?」俺はぞくりとした。
俺たちは互いの顔を見合わせた。湿気と暗闇に包まれた空気が一気に重くなり、誰も言葉を発しなくなる。
やがて篤志がわざとらしく声を張り上げた。
「ビビりすぎだって。廃墟に入ればなんかあるって! 行こうぜ!」
そう言って彼は躊躇なく旅館へ足を踏み出した。
俺たちは顔を見合わせ、仕方なくその背中を追った。
ふと背後を振り返る。
鳥居の門が、闇の中にぼんやりと浮かんでいた。
――その横で、誰かが立っていたような気がした。